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ヤシャ・ライハート(Jasia Reichardt)は、多様な分野の創造性と接続する芸術に興味を持っているキュレーター・批評家である。ライハートは、ロンドンの現代芸術研究所(Institute of Contemporary Arts, London、以下ICA)の副所長を務め、大型計算機として普及して間もないコンピュータを表現のメディアとしてとらえた「サイバネティック・セレンディピティ(Cybernetic Serendipity: the computer and the arts)」展(1968年)を企画した他、日本の美術とデザイン、音楽、映画、アニメーションなどを網羅した「蛍光菊(Fluorescent Chrysanthemum)」展(1968-1969年)を通じて、同時代の日本のアーティスト、デザイナーの活動をイギリスに紹介した。80年代以降も継続的に日本との交流をもちながら、美術と産業とデザインの接点について新たな場を切り開いた。これらの展覧会は、メディアアート史のなかでも先駆的試みとして評価されている。2015年10月23日と25日の2日間、国立新美術館と東京藝術大学大学院映像研究科の2会場で開催された、今回の国際シンポジウムの企画意図は、60年代の展覧会の歴史的な検証と記録にとどまらず、今日の芸術のあり方を考えることであった。

第1部:Five and a Half Exhibitions at the ICA

ICAは、ハーバート・リード、ローランド・ペンローズらによって、1946年に設立された総合的な文化芸術施設である。同時期の美術を代表するフランシス・ベーコン、ルシアン・フロイト、パブロ・ピカソのほか、デザイナーのテレンス・コンランや建築家のジェーン・ドルューらを紹介したICAは、ポップアートの嚆矢と知られるインディペンデント・グループの活動の拠点でもあり、同グループの企画した「成長と形態(Growth and Form)」展(1951年)や「芸術と生活の共存(Parallel of Art and Life)」(1953年)が開かれた場所である。

国立新美術館で開催された第1部のシンポジウムでは、ライハートが1963年から1971年まで在籍したICAで企画した"51/2本"の展覧会について話を聞いた。本シンンポジウムで紹介された二つの展覧会以外に、コンクリート・ポエトリー(具体詩)の展覧会「詩と絵画の間(Between Poetry and Painting)(1965年)、100人のアーティスト(そして、依頼もしていないのに参加したボランティアたち)によるおもちゃ、ゲームなどの遊具と遊びの歴史と哲学を紹介した「遊びの軌道(Play Orbit)」(1969年)、アーティストに100ポンドの予算と1室を与え、居間のインテリアのレイアウトをさせた結果を展示した「10室の居間(Ten Sitting Rooms)」(1970年)、写真における発明をテーマにしたが、実現には至らなかった「思いがけない写真(Unlikely Photography)」(1971年)まで、5本、そして企画で止まったがゆえに1/2本となった展覧会に共通するのは、文学、科学技術、音楽、映画、遊び、デザインなどと、美術との「間」を問う展覧会であったという事実である。

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[国立新美術館(2015年10月23日)]

第1部でフィーチャーされた「蛍光菊」展は、60年代日本を代表する、グラフィック、ポスター、彫刻、さらにはアンダーグラウンド映画や実験アニメーションなどのフィルム作品、現代音楽とグラフィックスコアで構成された総合的な展覧会である。1968年12月7日から1969年1月26日まで開催され、のちにバンクーバー・アート・ギャラリーを巡回した「蛍光菊」展は、当時としては異例の絵画を含まない展覧会として注目されたが、ライハートのほかの展覧会と一緒に振り返ると日本という特定の地域に限定されていたという側面が印象的である。ポーランドに生まれ、イギリスで活動してきたライハートは、いつころ、どのように日本と出会っただろうか。

最初の来日のきっかけは、1967年5月、毎日新聞社と日本国際美術振興会の主催による「第9回日本国際美術展(Tokyo Biennale)」だった。カタログで東野芳明は「今日ほど、美術の国際交流といわれる現象が日常化した時代はあるまい」と指摘したが、主催側の長年の待望であった国際審査委員制によって、フランスのミシェル・ラゴン、アメリカからモーリス・タックマンとともに、ライハートがICAの副所長として来日したのである。日本から審査に関わったのは、土方定一、今泉篤男、針生一郎、中原佑介と東野。その後、ライハート宛の手紙形式で書いた「インターナショナルとは:東京ビエンナーレの反省」というエッセイになかで針生は、3人の外国人審査委員が初めて加わったことと、その結果30代前半の日本人作家の仕事が大きくフィーチャーされた点がハイライトだったと書いている。その作家たちとほぼ同世代だった、ライハート、針生、中原、東野は、はやくも同年11月に、第4回長岡現代美術館賞展の審査で再会することになる。日本ではじめて「現代美術館」という名称を使用したこの美術館の説明は割愛するが、同美術館長展に深く関わっていた東京画廊および南画廊の支援と、3人の美術評論家と秋山邦晴、原弘、杉浦康平らによる人選によって、翌年の「蛍光菊」展が実現されたのである。オリジナル企画であるという理由で、当時、アメリカを巡回していた国際芸術見本市協会による「Japan Art Festival」の助成は得られなかった。

2回の来日を通して接した、日本の現代美術のもっとも興味深い側面がまだヨーロッパに知られていないと考えたライハートは、過去の日本の伝統的なイメージである「菊」に、当時の若手作家たちが好んで使っていた「蛍光」の色を組み合わせて展覧会のタイトルをつけた。いわゆるジャポニスムとはほぼ無縁な、「国際性」を強く意識している「同時代芸術(contemporary art)」の断面を提示しようとしたこの展覧会は、大きな反響を呼んだ。個別の作品が与えた驚きよりもさらに高く評価されたのは、展覧会鑑賞という体験に新しい次元を提示した杉浦による会場設計であった。

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[国立新美術館(2015年10月23日)]

ライハートに引き続き登壇した杉浦は、観客の視線の配置と動線の誘導および細長い会場の光と音の仕組を明らかにし、カタログのデザインに秘められているコンセプトと色彩の原理、さらにそれらの仕事の背後にある一連の東京画廊のカタログ・デザインについて、「蛍光菊」展の出品作家を例に紹介した。高度の語学能力なしにも外国人の聴衆が理解できるように丁寧に選ばれたシンプルかつ明瞭な表現からなるライハートの講演がかつて知られていなかった新しい情報とウィットに満ちていたことに対して、展覧会そのものを「森」に比喩し、そのなかを歩いていくなかで起こる作品との出会いを描写した杉浦の講演は、まるで詩の朗読のようなものだった。目を光らせながらお互いの講演を静聴している二人の様子からは、友情以上の信頼と尊敬が伝わってきた。シンポジウムの最後に、2014年、国立新美術館がライハート氏から寄贈を受けた「蛍光菊」展の写真資料57点が紹介され、60年代の二人の写真がスクリーンに映った時、観客が一瞬動揺したのは、目の前の二人が話していたのが、約半世紀前の展覧会だったという現実認識に戻ったからだったかもしれない。

第2部:Cybernetic Serendipity

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[東京藝術大学大学院映像研究科(2015年10月25日)]

10月25日に横浜の東京藝術大学大学院映像研究科で開催された第2部のシンポジウムは、「サイバネティック・セレンディピティ」展を綿密に検証したうえで、その現在的な意義を考える機会として企画された。残っている国内資料が非常に限られていたため、謎の展覧会として知られていた「蛍光菊」展とは対照的に、サイバネティクスがもたらした思いもよらなかった偶然の幸運という意味の「サイバネティック・セレンディピティ」展は、ある意味で伝説のように人口に膾炙されてきた幻の展覧会ともいえる。当日、挙手で調べてところ、来場客のほぼ全員がこの展覧会のことを知っているか、聞いたことがあると答えた。

近年まで「サイバネティック・セレンディピティ」展は、「世界最初のコンピュータアート展」と記述されることが多かった。ところが、2000年代前後から活発に歴史化された、1960年代のコンピュータアート、あるいは初期デジタルアートの研究者の間では、すでにヨーロッパのなかで小規模の展示と研究会が先行していたため、この展覧会が厳密な意味では「世界最初」ではなかったとみる傾向がある。しかし、ライハートの仕事が高く評価されてきたのは、世界各地の大学や企業研究所のなかで行われていた実験を同時代人が夢見る未来の表現として捉え、展覧会という形式を通して社会一般に伝えることに成功したからではないだろうか。

ライハートの案内で「サイバネティック・セレンディピティ」展を振り返ってみたところ、なぜこの展覧会がメディアアートの原点として記憶されているのかが非常に明確に伝わってきた。まずは、テーマと領域横断性。人間とテクノロジーの関係性について問いかけ、実現されつつある未来を想像することに、アーティスト、エンジニア、作曲家、数学者、詩人...という肩書きや専門分野の境界は意味を持たなかったのである。次にインタラクション。残っている白黒写真では想像しがたいことだったが、実はあの展示空間のなかでは、作品が観客に反応し、観客も作品に反応し、さらには、作品と作品同士が影響し合っていた。そして言語の必要性。今日もメディアアート作品は、単なる技術のデモンストレーションに終わっている、または説明を読まずには理解できないほど難解だという、両極端の批判を受けることがある。当時からライハートは、一般観客が戸惑わないように、また同時に専門家を退屈させないように、制作者とタイトルのような基本情報とともに、イメージ生成の方法など制作プロセスに関する情報、そしてプログラムそのものを含む、技術的な説明、という3つの基準に基づいてキャプションを書いていた。現時点での技術の限界における実験であるがゆえに、長時間の連続動作が技術的なトラブルにつながることがあったというやや皮肉な事実も共通していたが、これは作品側の問題として捉えることに終わらず、伝統的な美術館環境の再考に発展させる必要がある。

情報学研究者・IT起業家のドミニク・チェンによる講演は、サイバネティクスの歴史的な概観を提示した後、未来のサイバネティック・セレンディピティをイメージする内容だった。メディア技術が人間の現実に対する知覚を変容してきたかを喚起することからはじめたチェンは、情報社会における表現の状況を具体的な例と統計を通して検証した後、作り手と受け手の生産と消費という関係性から、クリエイター同士の協働と対話という関係性へと「作家性の変化」が起こりつつあると分析した。そして、サイバネティクスは、能動的に人間の本質を観察し、かつ構築する方法だと定義し、より幸福なサイバネティック・セレンディピティへの展望を提示した。出品者でもあるジョン・ケージのグラフィックスコアのイメージと「妨害なき相互浸透(interpenetration without obstruction)」という哲学を引用しながら、未来の情報社会を恐れるより、肯定的な姿勢で未来を創造していくことを訴えかけた。このメッセージが説得力をもつ理由は、「未来を予測する最良の方法は未来を発明することだ」というアラン・ケイの言葉と共鳴する、チェン自身の実践があるからであろう。

「誰が未来を恐れているのか」というライハートの質問に手をあげたアーティスト・研究者の城一裕は、チェンと同じ姿勢で関わってきた自分の世代の未来とは異なる、こどもたちの未来を恐れいると述べ、現在の情報社会の闇について憂を示した。それに対するライハートの答えは「こどもたちにはこどもたちの未来がある」ということ。さらに議論は、日本からの唯一「サイバネティック・セレンディピティ」展に出品した、学生グループCTG(コンピュタ・テクニック・グループ)のメンバーが登壇して語った、60年代が夢見ていたコンピュータと芸術の未来、そして当時試みられた人間と機械の間のコミュニケーションに関する美術評論家の粟田大輔の質問まで、さまざまな「未来」が交差するなか、予定より1時間も延長されたシンポジウムは幕を閉じた。

展覧会というメディアと記録の問題

両日の聞き手を務めた国立新美術館の伊村靖子と筆者は、展覧会を時代の感性の複合的メディアとしてみなし、歴史的な展覧会の現在的な意味を考える場を作りたいと考えていた。近年、注目されている「展覧会研究」の動向を意識していたため、イギリスのAfterall出版社から発行されている「Exhibition Histories」のFacebookとも情報を共有していた。シンポジウムを2日に分けて、美術館と芸術大学という異なる場所で開催したのも、単なる共催の都合からではなく、異なる分野と世代の人々に広く声をかけたいと思ったからである。

第2部では、ライハートが筆者に渡したDVDが当初上映予定だった当時のBBCの番組映像ではなく、「サイバネティック・セレンディピティ」展の会場で上映されていた作品集と判明されるというハップニングがあった。進行の未熟さとして反省している部分である一方、結果的には一つのセレンディピティ、すなわち思いもよらない幸運の一つになったかもしれない。なぜなら、BBCの映像は、2014年ICAで開かれた「 Cybernetic Serendipity Documentation」展に際して発表されたオンライン・アーカイブに、カタログのPDF、レコードのデータとともに公開されている。その反面、イギリスの最初のコンピュータ・アニメーションであるトニー・プリチェットの《The Flexipede》(1967年作)とジョン・ホィットニーの《Permutations》(1966年作)を映画上映に特化された環境のなかで鑑賞する機会はそれほど多くないからである。

限られた人たちにしかアクセスできなかった希少資料が、その歴史的な価値の再評価とともにウェブ上に無料で公開されていく現象は、21世紀のテクノロジーの方向性とそれに伴う文化芸術受容の変化を反映しているといえよう。チェンの関わっているクリエイティブ・コモンズのように、著作者がみずからの著作物の再利用を許可する場合、そのための社会制度はもっと時代に合わせてアップデートされた方がよい。ただ、今回のシンポジウムを通して考えさせられたのは、複製とデジタイズを通して大量の情報に自由にアクセスできるようになったことで、失われつつあるものは何かということだった。ホィットニーの名作はYouTubeに公開されているが、「オリジナル」に近い環境で見ることは全く異なる体験であった。美術関係者の多数を占める専門性の高い聴衆のなかには、杉浦による東京画廊のカタログを知っている人が少なくなかったはずだ。ところが、杉浦がアニメーションを通してカタログに息を吹き込んだ瞬間、その聴衆の口から感嘆が漏れた。それは、ライハートが見せた「サイバネティック・セレンディピティ」展の地味な白黒写真にも共通することだった。紙1枚に秘められている過去の創造性を理解するためには、研ぎ澄まされた感性と想像力が求められるのである。

2日間のシンポジウムは、当事者の証言を通して2つの展覧会を再考するだけでなく、60年代という時代の精神の一端を感じとる貴重な機会であった。シンポジウムは終了したが、これは始まりであって、終わりではない。この時間をどのように記録し、共有し、発展させていくかという、次の課題に取り組んだばかりだからだ。

■開催情報

国際シンポジウム

メディアと芸術の間:ヤシャ・ライハートの60年代「展覧会」を読み解く

会期:2015/10/23, 2015/10/25

会場:国立新美術館、東京藝術大学大学院映像研究科

http://www.nact.jp/event/symposium/20151023/

【第1部】講演名:Five and a Half Exhibitions at the ICA

出演:ヤシャ・ライハート、杉浦康平(グラフィック・デザイナー)

聞き手:伊村靖子(国立新美術館 アソシエイトフェロー)、馬定延(東京藝術大学・国立新美術館 客員研究員)

通訳:木幡和枝(東京藝術大学美術学部先端芸術表現科 同大学院研究科 名誉教授)

日時:2015年10月23日(金)18時〜19時45分

会場:国立新美術館3階講堂

【第2部】講演名:Cybernetic Serendipity

出演:ヤシャ・ライハート、ドミニク・チェン(情報学研究者/IT起業家)

聞き手:伊村靖子(国立新美術館 アソシエイトフェロー)、馬定延(東京藝術大学・国立新美術館 客員研究員)

通訳:木幡和枝(東京藝術大学美術学部先端芸術表現科 同大学院研究科 名誉教授)

日時:2015年10月25日(日)15時〜17時

会場:東京藝術大学大学院映像研究科・馬車道校舎 3階 大視聴覚室