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『こち亀』最終回を掲載した「週刊少年ジャンプ」2016年42号

●『こち亀』の人気の理由を考える

 2016年の「週刊少年ジャンプ」42号において、1976年の初掲載以来、40年に渡って連載された『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(以下『こち亀』)が(連載を)終了した。長期連載の間にどれだけ広くこの作品が日本中に浸透したかは、全国ネットのテレビのニュースでまで終了が報じられたことでよくわかるだろう。まさしくそれは、"事件"だったのだ。

 東京の葛飾区亀有公園前派出所に勤務する型破り警官・両津勘吉を主人公とするこの作品は作者・秋本治の初連載作品であり、基本はギャグマンガである。しかし連載が始まってからは人情話や学習マンガ、下町散歩、アクション、ファミリードラマといった様々な側面を併せ持つようになり、とりわけ1990年代に普及したデジタル機器を作品内で解説した時期などは、情報を通して時代と併走していたといってもいいだろう。そのようにしてギャグマンガのファンにとどまらない幅広い読者層を引きつけ、さらに時代ごとの空気をリアルタイムで作品に反映させたことこそが、40年の連載を成し遂げた『こち亀』の人気の理由であった。

 だがそれは長期連載を見越しての秋本治の戦略というより、秋本自身がみずからの興味や好奇心のおもむくままに題材を求めた結果であると言っていい。1952年に東京・亀有に生まれた秋本は24歳の時に『こち亀』の連載を始め、ビー玉やメンコ、昭和30年代の下町風景といった懐かしネタ、さらに連載と同時進行で新製品が生まれていく家電や玩具の最先端を作品中に取り上げ続けた。それは当時『サーキットの狼』、『キン肉マン』、『Dr.スランプ』、『北斗の拳』といったヒット作を連打し続けた「少年ジャンプ」の読者となった若者たち (=秋本治と近い世代)にとっても十分親密な題材であり、先に指摘したデジタル機器普及の1990年代まで、ジャンプのそれらの読者は『こち亀』をほとんど"自分たちの物語"として受け止め、成長し、そして支持し続けたのである。言い換えれば秋本治は、読者というもう一人の自分に向けて『こち亀』を描き続け、懐かし話から最新の流行まで話題を分かち合ったともいえるだろう。

 そのことを前置きとして、本稿では40年の間に『こち亀』という作品の中で起きた、一つの大きな変化に目を凝らしてみたい。それは両津勘吉に焦点を当てて眺める、ギャグマンガからファミリードラマへのゆるやかな変容である。

●両津勘吉、おまえは誰だ?

 1976年の『こち亀』第1話で両津勘吉こと"両さん"は、仕事そっちのけで趣味に没頭する不良警官として登場する。そして「始末書の両さんの巻」というサブタイトルが示すとおり、警官というよりむしろ犯罪者(?)の側に回って次々と騒動を起こしていくのだが、このように初期の両さんというのは、善人よりもずっと悪人に近い人物である。しかし根っからの悪人をギャグマンガとはいえ、少年誌の「少年ジャンプ」が主人公に据えるはずもなく、まもなく疎遠だった父親に電話をかけるなどの人情家ぶりを発揮して、"根は善人の超エゴイスト"という定位置を両さんは確保する。ギャグマンガの主人公としてはありがちの性格付けだが、連載が続くに連れてシチュエーション・コメディの様相を呈していくのは大方のギャグ作品において鉄板であり、この時、綿密な取材や資料収集によって1話ごとのシチュエーションを細かく設定する秋本治のこだわりぶりが、やがて『こち亀』という物語の枠を広げていくことになるのである。

 例えば初期の「コピー社会の巻」では、当時流行していた「マイコン」、「ホンダ・シティ」、「ウォークマン」といったアイテムが次から次に登場し、作品中に形成された濃密な情報空間が、そこに投入された両さんという"異物"と化学反応を起こすことによってギャグが成立している。これこそがギャグマンガとしての『こち亀』の基本構造であって、情報空間の密度が増せば増すほど、そして両さんの異物としての度合いが高まれば高まるほど、ギャグの化学反応も激しくなっていくわけである。そして"異物としての度合いが高まる"というのは、両さんのエゴイストとしての振れ幅が大きくなるということであり、「春の船遊び!?の巻」で巨大客船を操縦して勝鬨橋を破壊したのも、「勝鬨橋ひらけ!の巻」で級友の勝鬨橋に対する思いを受け止めたのも、どちらも両さんであったというところにその最大の振れ幅を見て取ることができるだろう。理屈で言えば、それが同一人物であることによって両さんの性格付けは破綻していることになるわけだが、実はそのような性格付けすら方便にすぎないというのはギャグマンガの登場人物においてしばしば見られる例であり、そんな設定すら無視してシチュエーション・ブレイカーに徹することこそが、ギャグマンガの長期連載を可能にする定番のノウハウとなっていることは言うまでもない。つまりは読者を笑わせるためなら"主人公はどんな人格にもなりうる"のであり、その限りにおいて両さんをエゴイストとは言えても、人格破綻者というには当たらないことになる。

●"異物"から"家族の一員"へ

『こち亀』のギャグの回ではこのような法則の元、濃密な情報空間とそこに異物として投げ込まれる両さんとの化学反応が相乗効果で増していき、1990年代にその頂点を極めた「両さんのパソコン講座の巻」とその前後の回では、パソコンを中心に当時最新のデジタル機器を散りばめた未曾有の情報空間が築かれることになる。コマの欄外にまでパソコンなどの知識を散りばめたこれらの回は、「攻殻機動隊」(士郎正宗)のような別ジャンルの作品を除けばギャグマンガにおいて前代未聞であり、だからこそこの時期以降、「両さんのパソコン講座の巻」のような濃密な情報空間を築けなくなるに連れて、『こち亀』はギャグマンガとしては失速していくことになるのである。単純な理由としてはパソコン以降のデジタル機器の進化に対して、秋本治がそれほど興味を持てなくなったことが原因として察せられるが、そこに十分なシチュエーションがなければ両さんもまた、異物としての面白さを発揮できなくなってしまう。少なくとも情報依存のシチュエーション・コメディという形において一つのスタイルを極めた『こち亀』は、反対にそのことによって、1990年代の後半に大きな転機を迎えることになるのである。

 そして転機の先に新しい『こち亀』の形が示されたのが、1999年に描かれた「江戸っ娘・擬宝珠纏の巻」であった。この回で、実は両さんの親戚である擬宝珠家の娘・纏が新たに登場したのは、秋本自身の言葉によれば以下のようになる。

「...思いきって両さんの警察寮での生活を一時停止して、超神田寿司に住みこませてしまおうと考えたんです。そのかわり超神田寿司を仕切るのは夏春都(ゲバルト)という元気なお祖母さんで、家長といえば飛鷹二徹のような頑固親父だったそれまでのパターンにひねりを加えている。つまり擬宝珠ファミリーをかなり実験的な家族構成にして、そのなかに両さんを放りこんでみたわけですね」(秋本治著・集英社刊『両さんと歩く下町 『こち亀』の扉絵で綴る東京情景』より)。

 つまりそれまで一人住まいで自由奔放に生きてきた両さんは、纏との出会いを通して、家族の一員としての新たな生活を始めることになる。それはシチュエーションと対立する異物であった両さんが、擬宝珠家という新たなシチュエーションにおいては対立ではなく、シチュエーションに融和しなければならなくなったということである。しかし"根は善人の超エゴイスト"がエゴイストの側によることでギャグを生んでいたのが、反対に善人の側によるのであれば、当然異物としての過激さは影を潜めざるを得ない。つまり濃密な情報空間に替わってアットホームな人情空間が持ち込まれ、両さんの異物としての度合いに制限が設けられたこの時の設定変更は、『こち亀』の作品としての在り方を大きく変えることになったのである。

 むろんそのことは当時、秋本がその私生活において家族に囲まれ、子供の成長を喜ぶ子煩悩な父親となっていたこととも無関係ではない。だがいきなりそう変わるのではなく、それまでのシチュエーション・コメディの回も交えながら、徐々に擬宝珠一家の登場回数を増やしていった『こち亀』は、それでも作品の雰囲気も含めて物語の内実を大きく変えていくことになった。なぜなら善良な擬宝珠家の一員である限りにおいて、両さんには常に"根は善人"というリミッターがかけられることになったからである。ギャグマンガの看板はそのままの一方で、"主人公はどんな人格にもなりうる"ことができなくなった両さんに、もはや初期のように"悪徳金融業者の手先となって庶民から金を巻き上げる"ことなどできるわけがない。

 しかし秋本治自身はそのような『こち亀』の変質をあらかじめ自覚し、それでも変えたのは「...擬宝珠ファミリーの暮らし方というのは、一つの(下町暮らしの)モデルになるんじゃないかと思ったんです。もちろん最初から、そういうつもりで擬宝珠ファミリーを発想したわけではありません。けれどもマンガのアイデアを考えるうちに、自分のなかにある理想的な下町のイメージが、そこに投影されていったことはあると思うんです」(前掲著より)と語っている。それは作者だからこそ、異物を具現化したキャラクターだった両さんを、一人の"人間"、"家族"、あるいは"下町に暮らす庶民"として改めて描いてみたいという気持ちの表れだったのかもしれない。事実、21世紀に入ってからの『こち亀』で両さんはそのように描かれてきたし、ファミリードラマ、あるいはホームコメディとしての側面が、この作品の新たな魅力となったことも否定できないだろう。

 だとしたら1999年までは情報を媒介にして現実に寄り添い、それ以降は新しい家族の形を求めて、それを模索してきたのが『こち亀』の40年だったということになるだろうか。そしてそのいずれもが時代の要請に応えるものであったからこそ、2016年に至るまでの長期連載が可能だったのだと。そのことを、かつて情報を通して読者の暮らす現実に働きかけてきた両さんが、作品の中で暮らす家族に向けて愛情を注ぐようになったのだと言い直してみれば、この"外向き→内向き"の真逆の方向に大きくベクトルが変わった『こち亀』の40年というのは、そのまま日本の40年でもあったのではないかと思い当たるところがあるのである。