イベント概要
開催日:2011年1月23日(日) 14:00 〜 17:00 (13:30 開場)
会場:金沢21世紀美術館 シアター21
スピーカー:島本浣 藤幡正樹 吉岡洋 吉見俊哉

メディアの進化とメディア芸術

この「メディア芸術ってよくわからないぞ」というタイトルが生まれた背景には、三つの理由があります。ひとつはカテゴリーの問題。「文化庁メディア芸術祭」では、マンガ、アニメーション、エンタテインメント、アートという4つの部門がありますが、平成13年に制定された文化芸術振興基本法の第9条では、「国は、映画、漫画、アニメーション及びコンピューターその他の電子機器等を利用した芸術(以下「メディア芸術」という。)の振興を図るため、メディア芸術の製作、上映等への支援その他の必要な施策を講ずるものとする。」と書かれていますので、ここには映画が加わっています。文化庁の中でも「メディア芸術」の分野既定が曖昧だということです。

ふたつ目は、「メディア芸術」の英語表記から憶測される問題です。公式には、「Media Arts」となっていますが、国外(とくに欧米)で「Media Art」といえば、電子メディアやコンピューターを使ったアートのことや、ビデオアートやインタラクティブ・アートのことを指しているのが普通なのです。しかし日本の「Media Arts」は、マンガやアニメも含むというわけです。さらに都合の悪いことに、「Media Arts」の中に「Media Art」が入っているのはいくらなんでも笑ってしまいます。

三つ目の問題は、芸術という言葉は本来「Art」の翻訳のはずなのですが、実際には「アート」という表記も並行して用いられていて、微妙に使われ方が違うという実体。さらにそこに「メディア」という言葉が付くことでさらなる混乱が訪れているということです。

また、別の側面からの問題は、こうした比較的新しい分野に対して文化庁が振興のための助成をするということなのですが、その方法論はかつての「文化財の保護・保存」とはそもそもパラダイムが違うんじゃないかと思うのです。こういったさまざまな問題について、できれば専門家だけではなく、また東京という場所だけではない場所でみんなで話をしてみたいということで、とりあえず、ここにいるメンバーに集まってもらいました。

今、とにかくカテゴリー概念が曖昧になってきています。カテゴリー間の重層性も絡んできて、いろんな問題が出てきているというのが現状です。そこへ旧来の言葉をいくつか組み合わせて、そこの上にさらに言葉や概念をはりつけるといった対応をしてきた中で、現場の感覚からすると漏れるところがあったりして、制作の現場などで混乱を招いている状況というようにも見えます。

制作現場のメディア、さらには印刷や放送といったディストリビューションのメディアといったことを考えてみると、新しい技術とその内容というのが相互に影響し合いながら、それが常に交換されながら、まるでピンポン(往復運動)のようにメディアの歴史が進んできたように見えます。文学とフィルムという技術が組み合わさって、映画ができていく。また、映画が印刷技術とも組み合わさって、コマ割りの話法が生み出されて、今度はマンガが生まれる。そういった形でメディアというものは自律しつつも、相互に影響を及ぼしながら発展していくわけです。

そういった前提の中で、メディア芸術というカテゴリーを定義し、国が関わっていく意味というのは、一体どこにあるんだろうかと。数年前の議論では、マンガやアニメに関わっている人たちからは、「そんなこと、おれたちと関係ないよ。」みたいな意見もあって、「これまで自由にやってきたから、国は僕たちのやっていることに関与して欲しくない。」という意見も出てきた。

現在の問題は、こうした表現芸術を文化として考えた場合にはっきりとしてきます。例えば、赤塚不二夫のマンガを楽しんだ世代が、彼のことを天才だと言ったとしても、それだけで終わってしまっていいのか。マンガの文化がそこで途絶えてしまうのではなくて、100年たっても200年たっても、ちゃんと読めるというような状況を最低限作っていかなきゃいけないのではないかと思うのです。そういう文化の創成のことを考えると、メディアとコンテンツの循環を作っていくことは、やっぱり民間ができないのではないでしょうか。明治以来の文化創成という意味では、文学にとっての図書館、美術にとっての美術館、映画にとってのフィルムセンターを作っていくということなのだと思います。

この辺はまだまだ、いろいろな議論していかないといけないと思いますけれども、図書を巡る部分だけでも、やはり相当教育という問題が絡んでいて、単に図書館を国が作ればいいだけではなく、それに絡む教育も問題です。読み手を作る、読者をどうやって養成するか。もちろん文学については国語の授業があって作文の授業もありますし、映画を小学校で見るということはありますけれども、映画を作るという授業はない。そういう次世代にコンテンツを残していける場を作る必要があるということと、それに絡めた教育のあり方ということもまじめに考えていかないといけない。そこに国がどうやって関与できるかという意味では、メディア芸術の図書館(アーカイブ)は国が作る必要があるのではないかというのがひとつの結論でもあります。

どんなメディアにも芸術的側面があり、芸術と呼ばれているものすべてが「メディア」と言えます。決定的な違いは、メディアというものは、生きて動いているのに対して、芸術は死んでいるものだと思います。それは、芸術家が死んでいるとか、芸術作品に生気が乏しいという意味ではなく、死んでいるという意味は、おごそかな態度で臨むことを要求され、かつ礼拝的態度を含んでいるということです。

ヴァルター・ベンヤミンが、近代の芸術作品は、もともと宗教絵画が教会の中に安置されていたときは、礼拝の対象であったものが、美術館に置かれることでexhibition(展覧会/露わにすること)として、すべてを露出して隅々まで見せるようになったことを指摘しています。礼拝と美的鑑賞では対象へのあり方が異なってくるのです。近代においては、芸術作品が美術館やコンサートホールの中に引っ張ってこられて、市民が非常に美的な態度で、それを鑑賞するということが起こり、それが市民社会における芸術概念の規範を作ったわけです。現在の「メディア芸術」という概念をその意味で考察すると、「メディア」という概念は生きていて、「芸術」という概念は死んでいるといったら言葉が悪いですが、要するに礼拝の対象になっているのです。このため「メディア芸術」という言葉の気持ちの悪さの核は、おそらく生者と死者が一緒になっている、ゾンビのような性質によるのだと思います。


30年後に価値を生むアーカイブという仕組み

僕自身も自分がこういう研究者としてスタートした20代の後半のとき、やはり国というものをすごく外のものとして見ていたのです。つい最近までそうだったんですけれど、でも、国ってよく考えたら、日本はデモクラシーなのだから、我々自身が国じゃないですか。もちろん制度的な問題はあるけれども、そういう意識にもう少しなった方がいいと思います。

例えば「メディア芸術」を巡って話し合うにしても、これは文化庁の仕事だからおれには関係ないや、みたいなのはやめようと思ったのが参加した動機のひとつでもあるんです。あとは次の世代に結びついていくようなシステムを考えてほしい。そのときには、経済的な面からは効率が悪いように見えても、30年後とか80年後とかを念頭に置いて、文化施策というものを作っていってほしいと思います。

図書館、美術館というのは明治時代に西洋から輸入したもので、西洋ではこれをやっているから、日本にも必要である、という感じで始まったものです。でも、それなりによくできていた制度だから、何とかうまくいっていたのですが、今現在、それがもう当てはまらない領域が出てきている。

今の時代は、基本的に「生産から消費へ」という流れから、蓄積していってリサイクルしていくという流れにあると思います。社会全体がリサイクル型に変化しつつあるから、メディアアートに限らず、映画でも、マンガでも、あらゆる文化的なものを蓄積していく公共的な仕組みを作っていくという、広い意味でのアーカイブの価値はますます大きくなると思っています。

日本の社会は、こういう機能をものすごく軽視してきた。さっき藤幡さんがお話しになられた図書館、美術館ですけれども、美術館は確かに西洋に追いつき、並ぶために明治の初期から作られました。けれども、図書館はずっとないがしろにされてきたんですね。国立国会図書館にしても、あれは占領軍GHQの政策の中で、ようやく作られていくわけですから。国会図書館とか図書館機能というものが、かなり充実されていくのは戦後です。

日本社会の中に本当に文化を蓄積して、公共的に再利用していく形をつくらなくちゃいけないんだという認識が、すごく弱かったのだと思いますね。だけど、今そういう作業というのはものすごく重要で、でもこれは短期的な利益は生まないから、やっぱり公共的な組織がそれをやっていくことによって、20年後、30年後には価値を生むかもしれない。その仕組みを作ることだと思いますね。

僕が一番よく知っているフランスでは、70年代から80年代に文化、現代アートも含んだ大文化プロジェクトを国が主導して進めて、たくさんの資料庫を作り、それから各地に文化局を作り、それから中央から官僚を派遣し、大量の文化マシンをつくって、補助金を豊かにするというような政策の在り方があったわけです。ただ、そこでものすごく大きな反省があるのです。よく言う「箱は作ったが、人がいない」というような状況で完全に文化官僚だけを増やした。ポストだけが増えていったというような。  それに陥らないようなシステムを作るためには、日本で「メディア芸術」というのが、新しく今本当に生まれてきているところだから、旧来のやり方じゃない新しい組織を作るひとつの材料として、失敗に終わったフランスの政策とか、70年代のアングロサクソン系のシステムを1回勉強し直して、何がだめだったのか、それを検証しない限り、日本も同じ過ちを繰り返してしまうように思います。

メディアアートがもたらす変化

僕はいくつかの大学で教えていて、マンガの研究をしたり、マンガを描いている学生にも教えていますが、そこには、いろんなことを僕に教えてくれる学生がいるんですね。こういう新しいことを話すのに40代、50代以上の人たちばかりというのもなんなので、ここからは僕の研究室の学生の一人、大久保美紀さんに話をしてもらって、僕はその後に話を付け足していきたいと思います。  彼女は今、パリ第8大学というところに留学していますが、ご承知のようにフランスでは今、日本のポップカルチャーの人気が高く、ジャパンエキスポなども開催されています。彼女自身もそういう文化に非常に深く関わりつつ研究しています。それでは、大久保さんから10分ほど話をしてもらいたいと思います。

大久保:こんにちは、大久保と申します。現在はパリのほうで研究をしていますが、今回の発表では、受け手にとってメディア芸術というものはどういうものなのか、一般の方の生活にメディア自体がどのような影響を及ぼしていったのかということを、ジェンダーとアイデンティティーを手掛かりに話をしたいと思います。

まず、メディアアートというのは、もはやひとつの社会的な現象であると言うことができると思います。そもそもメディアアートというのは一般的に、さまざまなニューメディアによってもたらされたアートで、技術的、形式的に新しいジャンルに数えることができる芸術の中のカテゴリーを作ってきました。これらのアートに出会ったとき、それを受け取る鑑賞者の方々の一般的な印象というのは、どういったものなのでしょうか。芸術家が考えたコンセプト、作品のアイデアの面白さに対して「このアイデアはすごい」とか、驚いたり感嘆したりするというのはもちろんのことですけれども、アマチュアの鑑賞者が、これらのアートがいわゆる芸術という伝統的な香りを離れて、もっと自由で、しかしテクニックやアイデアさえあれば、誰でも、私でも表現し得るものとして台頭してきたということを感じ取っているのではないかと思います。

そして、実際に鑑賞者がそれらを使いこなす上で、メディアが大衆の日常生活へ浸透していくというのは、自己表象、自分を表現するあり方とか、自分自身のイメージや自分自身への意識を多いに変化させたということが指摘できると思います。

もうひとつ私が強調するのは、一般的には芸術作品を作るメディアとしてはカウントされることがあまりないですけれど、携帯電話というものが及ぼした影響についてです。持ち運びができるという移動性、それから表現手段としてのテキストとイメージに高速な移動性を与えていると言えます。携帯電話によって、写真イメージは即座に交換され、修正され、インターネット上にアップされ、ダウンロードすることができるような時代になっている。いろんなアプリケーションが簡単に入手できますし、写真を加工するということも難しくない時代になっているということ。携帯文化についても、プリクラ文化と並んで、日本の中でイメージの交換やイメージ表現していくことについて、特筆すべきトピックになると思います。

メディアアートの時代というものを、ひとつの社会的、そして文化的な現象としてとらえたときに最も特徴的なものは、自己の存在がメディアの中に常にさらされるということに免疫ができているということだと思います。おのおのの役割を常に演じながら生きる劇場化社会という現象は、ポストモダンの芸術の時代から既に指摘はされてきた。これが現代、インターネット、携帯電話の普及した時代において、21世紀的な全く新たな段階に移行しているということを私としては指摘したいと思います。例えば、アバターやロールプレイングゲームなど、役になりきって遊ぶゲームのような身体において、あるいは、テレプレゼンス(ネットワークを利用した疑似対面型会議システム)のようなバーチャルな体験へ没入することを意味する新たなコミュニケーションのスタイルというものは、現代のジェンダー、性にとって、肉体の接触が必ずしも不可欠ではないことを伝えるばかりではなく、ジェンダーの概念それ自体を開放して、時には混乱させる、そういった身体の距離の感覚の変化を告げたのだと思います。

また、メディアアートが開かれた新しいジェンダー意識を作り上げたことも指摘したいと思います。「オタク」と呼ばれるマンガの世界のかわいいキャラに萌える青年たちというのは、リアルな女性との肉体的接触を必ずしも望んではいません。テレプレゼンスなどによる、身体の距離感の変化を通じて、ビジュアルで欲望を充足させることができてしまいますし、ポルノのコンテンツにしても変態的趣味のストーリーというよりも、日常的な、すなわち素人によって表現されるようなものとして、鑑賞者と表現者が入れ替わるような可能性を秘めたものが支持される傾向があるのも特徴です。


メディアの変化がもたらす作用

メディアの変化について語るときには常に、それによって自分自身の人生観とか性、つまりジェンダーとセクシュアリティーという両方の意味での性ですが、もはや後戻りできないような仕方で変化していると思うんです。

そのことを理解してもらうために、ひとつの実例として、BL(ボーイズラブ)というのを取り上げたいんです。BLというフィクションのジャンルがあるのですが、これはマンガとか小説とかが主なメディアです。これは基本的には、すごくイケメンの男性同士が恋愛するという物語が核になっているのですが、大事なことは、それは男性同士の恋愛だからといって、ホモセクシュアリズムとは関係がないということですね。

恋愛なんですけれども、この恋愛も括弧付きであって、従来の恋愛小説というのは、ロマンティックな文学がモデルだから、要するに霊と肉ですね。肉体と精神というものの相克というものが必ずどこかで関わってくるんだけれども、BLの恋愛は肉体と精神の相克は最初から存在しないような形式を持っている。要するに、それは純愛と性行為が背反しないのではなくて、全くひとつのものであるということです。BLで描かれるセックスというのは、セックスというと何か生々しい男性向けのポルノグラフィであるとか、あるいはかつて男性向けポルノグラフィをまねて女性のために作られたレディースコミックというジャンルとか、そういう露骨なものではなくて、むしろ何か観念的というか、記号操作のようなものとして描かれる。BLであるためには非常に厳しい基準があって、生々しく描いてはいけないんです。そういうことです。

僕も若い人たちに教えられて初めて「こんなことになっているのか」と驚いたんですが、3年ぐらい前にある大きな京都の書店に行って「ここがそのコーナーですよ」と言われて、おそらくその書店のマンガのコーナーの4分の1ぐらいの棚がBLで、これにはすごいショックを受けました。

もうひとつ『哲学男子』という本なんですけど、面白い例があります。これは何かというと、西洋哲学の有名な哲学者たちをマンガでそれぞれイケメンばかりでもないんだけれど、個性的に描いているのです。これは単に遊びで描いただけじゃなくて、ちゃんとその哲学者がどんなことを言ったかとか、簡単なバイオグラフィーとか、そういうことが書かれている、まあある意味で西洋哲学史の「入門書」であるわけです。

なぜこんなものが必要なのかと。これは現実の哲学とは何の関係もないんだけれども、この本を「こんなのがあるよ」と授業のある時間のときに見せてから、受講者たちの哲学という学問に対する興味の度合が100倍ぐらいになりました。「これこそ『メディア』だ!」と思ったんですね。つまり媒介者だと思ったんです。

僕が大学院ぐらいのときに、特に人文科学系の若い研究者の間で少女マンガを読むのが非常に流行したというか、よく少女マンガについて哲学者が論じたりしていた時代がありました。特に24年組と言われる、今は大学の先生になっているような世代の巨匠の少女マンガ家たち、大島弓子さんや竹宮惠子さんのマンガを読んで、それを何か難しく批評したりするのが流行しました。それは、まだ昔のマルクス主義の哲学者たちが、ポピュラーカルチャーやサブカルチャーに対して、それを擁護して、ハイカルチャーと対比してマンガを語るということに意味を見いだすというようなものなんだと思います。ただ、現在のこういったBLのようなマンガについては、そういった批評は完全に無効になっていると思います。

電子メディアの及ぼす大きな変化

「メディアはこうなっていくんだな」とか「古いメディアはこうして消えていくのだな」ということを世界観みたいなものに基づいて話を聞ければ、自分の理解がより明快になるんじゃないかなと思いました。そういった世界観についてお伺いできれば。

世界観という言葉でお尋ねになっていることに答えることになるのかどうかはわからないのですが、僕の考えていることを言いますと、20世紀の思想では基本的に言葉というものを大きく意識するようになりました、極端に言うと、すべては言葉なのだと。僕はもともと18世紀の古典的な哲学をやっていたのですが、そのころの哲学者たちは言葉というのをそれほど重要視しませんでした。言葉は観念を呼ぶための名前であるから、むしろ哲学者が面と向かうべきものは、実在と観念というようなものだったのです。しかし、20世紀の思想というのが言葉に注目し始めたというのは、これはメディアの発達とかと必ずしも無関係ではないと思うのですけれども、やっぱり人間が関係性をどのように考え表象するかということに注いできた知的な努力の歴史が、大ざっぱに言って、この100年くらいかけて培ってきた結果だと思うのです。

メディアということで、その世界観に関連して触れると、ちょっとこれは荒唐無稽と言われるかもしれませんが、僕が何となくバックグラウンドとしていつも考えているのは、人類が言語を獲得して、音声言語、話し言葉を獲得した歴史というのは、これはもう全然詳細についてはわからないのですが、おそらく数万年か、それを超えるような時間の中でのことです。それが人類の進化に大きな影響を与えたことは確実だとは思いますが、極めて大きな変化を人類にもたらしたかというと、僕はそうは思っていないのです。今現在、我々が「メディア」と呼んでいるものがもたらす変化についても、おそらく書き言葉の登場と同等ぐらいのインパクトがあるのではないかなと予想しています。  書き言葉というのは、新石器時代後期というか、場所によって違うけど、6000年、8000年、1万年ぐらい前に起こったことで、同時に我々の文明の基本要素である農耕・牧畜とか、車輪による運搬とか、国家共同体の形成とか、家族とか、そういったものが起こっています。ですので、書き言葉の時代に移行したことによってもたらされる社会変化と同等規模の変化が、おそらく現在の複製技術を含むメディアの登場によって起こると考えています。また、僕の考えでは、まだその変化の初期段階にいるような気がします。僕らが今「電子メディア」とか呼んでいるものだけではないような大きな変化が来るということですね。でもこれは全く根拠のない話で、ほとんどSFみたいな話ですから、これをベースにして議論をすることはできないと思うのですが、世界観という意味ではそのように考えています。

ときに、あまり大げさに考え過ぎて、ポストヒューマンというか、人間自体がもう変わってしまうみたいな考え方をもって、人間がサイボーグみたいに、機械みたいになっちゃうと。80年代とかには、人間の心が全部ソフトウェアになって機械の中で生きる、永遠の生命を得るみたいなことを言う人もいました。それは違うと思っています。今現在、そこまで大きな変化は起こっていないです。しかし、単なる新しい機械やガジェットやシステムの登場によって、社会生活がこのように変化しているというだけではなくて、変化の程度はもっと大きいと思います。人間のアイデンティティーとか、人間と自然との関係とか、人間が自分自身を他の動物、他の種と区別している根拠とか、そういうぐらいのところまでは影響を及ぼす変化であると考えています。


メディア芸術における芸術の意味

例えばニコニコ動画では、初音ミクを題材にした動画がたくさんあります。では、音楽を作った人、それに絵や動画を入れるとか、そういった関わる制作者が複数化する中で、「メディア芸術」が、一体どこまでを指すのかが気になっています。

初音ミクがメディア芸術かと問いかけたとき、「メディア」の方は問題ないと思うんですよね。引っかかるのは多分、「芸術」だと思う。それは、変な言い方ですが、東京藝術大学があるからなんです。つまり、専門家による審査ということが昔ほどは信用されなくなってきて、ファン投票みたいな方が効力を持ちつつあるということは確かなんだけれども、「芸術」という言葉を使い続けている限り、そこにはやはり何か別の世界があって、素人の人たちが数で選ぶのとは違うような、さすがと思えるような洞察力を備えた専門家集団がいるのではないだろうかということを、「芸術」という言葉は内包していると思うんですね。だから「初音ミクは芸術だ」と言っても、初音ミクはうれしくないと思うのです。ただ、「芸術」という言葉がそういう背景を持っているにもかかわらず、我々は使うことをやめることができない。できないのは、やはり僕らが「投票だけでは、まずいな」と思っているからじゃないですか。

その問題と、多分もうひとつは海外との関係性ですよね。もともと「芸術とはこういうものだ」という概念は、外側からいただいちゃったものでしょ。それに対して、日本国内にはすでに美意識があったわけですよ。それと、向こう側の考え方の間にずれがあるので、微調整するみたいなことで、ずっとうまくごまかしてきたような感じがある。

この建物もそうですが、金沢21世紀美術館はすごく評価が高いけれども、要約すると日本に入ってきた西洋の芸術概念を、とてもうまく消化したモデルだと思う。その消化の仕方が海外から見てもかなりユニークなわけです。海外ではこういう形では「Art」の概念を解釈しなかったからだと思うのです。

 

美術館って結局、観光として美術になったというか、芸術になったのも、観光とタイアップしてずっと19世紀から成立したことだと思います。ですので、芸術と言わなくて、「ここは観光施設だ」というようなことをもっと大ざっぱに言っていったほうが、僕はすごく生産的なような気がするんですよ。  そうすると、じゃあ芸術という名前はどこに行ったかというと、それは何か賞をもらうときにちょっと書いておけば、芸術祭賞みたいなので、それぐらいで書いておけばいいんじゃないかと。芸術は観光と一体化したある種の遺産です。今、文化遺産ってすごく流行っていますので、モダンアートから現代アートは遺産ですね。文化遺産。

ただ、島本さんのその議論でいくと、結局、最終的に美術館はいらないじゃないかというふうになりませんか? つまり、美術館がなくたって、そういう意味では観光資源とか、あるメディア状況の中でのクリエイティビティというのは、非常に広がった形であるのだから、わざわざ制度的な施設は不要なのではないかと。

美術館、僕はいると思います。ただ、その必要性というのが、創造の場としてというのではなくて、歴史的な機関、アーカイブとしての機関、単純にそれです。そこに芸術という価値をつけていくとか、創造性の価値をつけていくとか、そういうことが生まれてくるんじゃないかと。つまり、創造的な場をこの美術館とか何かに求めるというよりも、むしろ私たちがある物事に対して反省をしていく場みたいな感じがあるのではないかと思います。

同時に、最近の美術館新設にあたって必ず出てくるコンセプトは、ラボラトリーなのです。この21世紀美術館にも、ちゃんとアトリエや工房があって、アーティストのレジデンスとか、作家を滞在させて作品制作をするといったプログラムがちゃんと組み込まれています。かつての美術館、博物館のようにすでに終わったものを集めて並べるのではなくて、ある種の「センター」になっていこうとしている。そうすると、どういうことが起こるかというと、どう価値づけしていいかわからないものができてくる。つまり日常性と、美術館というある種の非日常性の往復なのか、あるいは日常性と非日常の間がなくなっていくのか、何か多分その辺の運営設計の仕方は、それぞれの美術館によって違うと思いますが、平べったく言うと、カルチャーセンター化しているような状態だと思います。かつては過去のものを守るだけで良かったのが、そういう周辺や環境まで、今は美術館が取り込んでいかなきゃいけないぐらい、都市環境の状態が厳しくなっているのだと思います。

メディア使用の自由と責任

私は金沢市に住んでいる一主婦です。主婦が昔から読むような『主婦の友』といった主婦雑誌について明治のころのバックナンバーを読んでいると「こんなものを自分の家で作ってたのか」と思うような記事がたくさんあります。今ほど、材料も揃えにくい中で、家庭の中のもので、いろいろと工夫して作ったりして、それが流行になったりもしているようです。当然、それはアーティストという感覚ではなく、家庭の中で作り、楽しんで、消えていく、そういった主婦カルチャーみたいなのがあったわけです。ただ、それらについて詳しく調べてみようとしても、もう資料が全然残っていないのですね。

ただ個人的にはそういったカルチャーは確実に周辺的なカルチャーへと吸収合併される形で、目に見える形では自然淘汰のようであっても、違った形で現代へと続いているのだというふうにも思ってまして、私はメディア芸術というのも曖昧で歴史的に捉え難い存在であってもいいんじゃないかとも思います。

確かにそういう文化のあり方もあるかと思います。いわゆる芸術論を議論するようなこういった場において、そういった観点でのコメントが出ること、その状況そのものが、メディア芸術のポテンシャルをうまく伝えているように思います。

私も子供を持つ主婦なのですが、私が住む石川県が携帯電話を中学生に持たせない条例を制定した全国で唯一の県だという誇りを持っています。石川県のこういった教育方針というものに、直接にはメディア芸術というテーマに関わるかはわかりませんが、どう思われますでしょうか?

石川県だけは施策としてそれを実現されたわけだけど、そういうのが良いと思っている人も、多分他の県にもたくさんいらっしゃると思うんですよね。つまり、子どもが携帯電話を所持することとか、ゲームの影響とか、漫画とかアニメもそうですけども、東京都が規制しようとしている、さっきのBLがまさにそうです。そういうものの影響をどこかでシャットアウトすべきではないかと考えている方々がいるということですね。携帯電話に関しては、世界的な携帯電話メーカーを有する北欧のある国で、学校における携帯電話利用はどうなっているんだろうという取材を昔、したことがあります。所持できるのですが、学校に来たらロッカーの中に入れて電源を切るという決まりが一般化しているみたいなんですね。それが報道されたときに、日本もこうすればいいのにと言う人もいた。日本はわりと野放図に、子どもが欲しいと言ったら買い与えてしまうから駄目だと。

全体としてみたら、学校に上がる前からの家庭内でのしつけとかも含めて、日本での子どものしつけというのは、西洋的な基準から見たら何かぐだぐだというか、すごく甘やかしているように見える。ただ、実態としては結構それぞれの家庭で考えながらやっていると思うんです。ぐだぐだなところもありつつ、欧米的なやり方での規制導入では解決できないところが、日本の家庭とか学校社会の中にあると思うんですよね。

だけどそういうところって、まさに藤幡さんが何回も指摘されたように、やっぱり外のモデルがあると日本では安心してしまいがちです。自分から「私の国はこうなんだから、私の県はこうなんだから、こうします」って自信を持って主張するのが難しい風土というのがあるのが一番問題だと思います。それを言い出した人がすぐバッシングされてしまって、「おまえ責任取れるのか」と言われるのが、日本の中ではわりと一般的な風潮だと思います。

これからは多様性をもっと受け入れるような社会になるべきだと思いますし、そこでは、いわゆる世間の言い分を気にしないで、自分の考えを話せるような社会のあり方に、僕は変わっていくべきだと思います。物事には必ず良い面と悪い面があるわけだから、それをちゃんと議論して、どちらを重要視するべきか、といったことです。

また、こうした新しいメディアにからむ問題は、常に技術が先行してやってくる。新しいから良いのだというような、進化型でやって来るので、結局それを扱ってゆく「リテラシー」が追いつかないわけです。例えば携帯電話などでも、使い方と目的のことについては特に教えもしないで、技術的な性能ばかりで商品を売っているといった状態が生まれてしまうわけです。


あえて「芸術」という言葉を使う意味

僕は基本的には、根本的にみんながアーティストであり、誰しもがアーティストであり、誰しもが表現者で芸術を生み出しているのだと思います。それは根本なんだと思うのです。今は何が起こっているかというと、一人一人が、ネットワークで全部同時的につながり出した。距離を超えて、あるいは言葉を超えて、それは多分その今日のお話にあったように、自己の概念すら変えるかもしれないようなことになっている。そういった状況の中で感じる違和感のひとつは歴史の問題であり、もうひとつは場所の問題です。

古いのかもしれないけれども、やっぱり歴史の中に僕らは生きている。そうすると、歴史の中で今私たちがやっていること、あるいは私たちの活動がどういう位置を持っていて、しかも過去をもう1回振り返れるっていうことが、ますます大切だと思います。スピードが速まってきて、同時性が非常に強まっているから、そうではなくて、あるその歴史性というか、過去にさかのぼる、あるいは過去と対話できるということが、より僕は重要になってきている気がするんです。

もうひとつは場所の問題で、今、若い人たちの活動で面白いのは、バーチャルなネットワーク上でいろんなことが起こっているのと同時に、わりといろんな郊外だったり地方都市だったり、いろんな所で実際の場所にこだわる活動がすごい勢いで広まっていますよね。メディア芸術的な動きと場所芸術というか、場所に対するこだわりというのが、もう一方ですごく出てきていて、多分これは背反するものじゃないと思うんですよ。多分どこかで関係していると思うので、そうすると、歴史性とか場所性ということを、やっぱりこだわりたい感じはすごく僕自身にはあるんですね。

今の吉見さんの話もよくわかるのですが、僕の言い方で換言させてもらうと、すべてがメディアになりつつあるんだから、もう「芸術」なんて言わなくてもいいじゃないかっていう気持ち、意見はあると思うんですよね。それはなぜかというと、芸術ということを言い出すと、権威を伴うわけですよ。
メディア芸術って、わざわざその「芸術」という言葉を使う意味は、僕にとってはふたつあるんです。ひとつは、その「芸術」という権威を付与することによって、ある種の代表者の資格というか、別にそれが一番優れているわけじゃなくて、今こんなものがあるよというのを誰か決めて、世の中に出していくと。それについてみんなが批評したりすれば、直接そこでビジネスが成立しなくても、あるいはファン投票のような評価システムがなくても、良質なコンテンツを残していくことにつながるかもしれないということです。それは権威の持っているポジティブな側面だと思います。

それから、もうひとつはお金です。何かの賞を与えられて有名になったら賞金がもらえたり、注目されて注文が来たりというようなことで、お金が動くわけですが、僕は日本の近代の「芸術」について語ってきた人たちは、あまりにも今までお金のことを軽視し過ぎてきたと思うんです。何か汚いものみたいに思ってきた。芸術というのはピュアで美しくて純粋だって、そんなことを思ってきて、世間知らずという意味でのナイーブさがある種の制約になってきたのだと思っています。そして今、そのツケが回ってきているとも思います。なので、「芸術」という言葉を使うことで、そのあたりのことにしっかりと向き合えるようになると思っています。

存在の証としてのアーカイブ

昨年、古い友人が亡くなりまして、そのお通夜に新幹線で東京へ向かっているときに携帯電話が鳴ったんですよ。で、パッと見ますとね、その死んだ彼からメールが来ているんですよ。後日わかったのは、故人のお兄さんが間違って操作していたのですね。彼はmixiもFacebookもやっていましたから、彼の書き込んでいたデータはそこに残っているんです。こういう事態というのは普通に考えると、削除すればいいという話だけですけども、個人的には非常に考えさせられましたので、アーカイブの話とも絡むかと思いますが、どのようにに考えたらいいものかということを、ちょっとお聞きしたいなと思いました。

実際かなりの著名な人が死んだとき、そのファンの人たちがそのブログを、本人は書き込まないけども、ファンの人たちが延々と書き込み続けて、それがある種のお墓の代わりのような機能を果たしているのですね。その気持ちはよくわかると思います。別に石の墓とかお仏壇とかそういうものよりも、やっぱり本人がずっとそこまで書き込んできた、ネット上のバーチャルなシステムなのだけれども、それを消さないでずっと存続させたいと思う、すごい切実な気持ちはよくわかります。

だから、そのブログが追悼集みたいな形になって、本当にそれを残したい人がいれば多分どこかでネットワーク上で存続していくわけですね。そのシステムを作るのは重要だと思います。そういったシステムが既に確立されているのか、僕はわからないですが。

かつてはそれぞれの地域の場で何か積み上げていく情報や記憶は、昔であれば、それは口伝のような形で続きつつも失われてしまったり、さきほどの主婦の方の話のようにメディアに残されることなく、消えていくようなことがほとんどだと思うのですが、今はこういうネット時代で、何かを残したい人にとってはすごくいい時代になったんじゃないかなという感じがします。

大久保:今ブログを主婦の方もされるようになったことで、例えば「お弁当、今日こんなのを作りました」だとか、「こんなパッチワークの大きい作品を作りました」というのを載せていくと、その人自身もアーティストのように提示していくことができるし、アクセスした人が「これいいね」と評価して有名になることもあります。やっぱりそういった状況はすごいと思います。

今日の話は、メディアの変化が、ジェンダーとか、セクシュアリティーとか、私たちの身体感覚をどう変えていくかという話が大きな柱だったと思うんですけども、同時に最後に出たように、メディアは時間の意識とか、死者に対する意識とか、過去に対する意識というものを変えていると思うのです。きっとその中でアーカイブの話が出てきている感じがするので、これは多分ミュージアムとか、それから芸術について、新しいものだけではなくて、むしろ過去をどういうふうに読み解くか、どう共有化するかということが、すごく大きなテーマになってきている気がします。そういう話が今後のオープントークの展開を示唆しているようにも思えます。