任天堂の前社長で、相談役の山内溥氏が2013年9月19日、肺炎のため85歳で死去した。早稲田大学在学中の1949年に、先代社長で祖父の積良氏の跡を継いで、弱冠22歳で社長に就任。2002年に取締役相談役に退くまで半世紀余り社長を務めた。その間に「ゲーム&ウォッチ」「ファミリーコンピューター」「ゲームボーイ」などのヒット商品を次々に世に送り出し、それまで花札・カードゲームのメーカーだった任天堂を世界的なゲームメーカーに成長させた。また世界的なゲーム産業創出の礎となった。

テレビゲーム産業は1970年代後半にアメリカのアタリ社によって誕生し、日本に輸入されて独自の進化を遂げると、はじめに業務用、ついで家庭用ゲーム機を通して全世界に広まった。ここで大きな役割を果たした企業の一つが任天堂である。1985年に発売された「スーパーマリオブラザーズ」は全世界で4千万本を数える大ヒットゲームとなり、1980年代後半には海外版ファミコン「NES」で北米に進出。当時、ゲームソフトの粗製濫造などで壊滅状態だったアメリカの家庭用ゲーム機市場を建て直し、国産ゲームが世界を席巻する呼び水となった。

1990年代後半には据え置き型ゲーム機でプレイステーションとのシェア争いに敗れるが、「ポケットモンスター」の大ヒットで携帯ゲーム機市場を掌握した。現社長の岩田聡氏に社長業を譲り、取締役に退いた後も、2004年に発売された「ニンテンドーDS」では、二画面のゲーム機というコンセプトを提案するなど、晩年に至っても大きな影響力を及ぼした。また当初からゲームビジネスにおけるソフトウェアの重要性について言及するとともに、独創性を重んじる社風を築き上げた。

囲碁の実力者として知られるが、テレビゲームはほとんどプレイしなかったという。その一方で人材を見抜く力は卓越していた。「ゲーム&ウォッチ」「ゲームボーイ」の開発を主導し、「十字キー」を発明した故・横井軍平氏や、「スーパーマリオ」の生みの親として知られる宮本茂氏など、これと見込んだ人材に大きな権限を与え、自由な製品作りを任せた。現社長の岩田氏も、もともと外部のゲーム開発会社の経営者で、外部の人材を次期社長として迎え入れた形だ。鳥瞰力と人材登用力、そして大胆な経営姿勢で知られる名経営者だった。

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