第18回文化庁メディア芸術祭受賞作品展の最終日である2015年2月15日に、テーマシンポジウム「想像力の共有地〈コモンズ〉」が開催された。シンポジウムは第1部「美術・歴史・日本―自作を語るための歴史とは」と第2部「メディウム(=メディア)からはじまる新時代の〈批評〉」で構成されたが、本レポートでは三輪健太郎氏、塚田優氏、gnck氏、モデレーターとして石岡良治氏が登壇した第2部のみを取り上げる。「メディウム(=メディア)からはじまる新時代の〈批評〉」というタイトルが示すように、三輪氏が1986年、塚田氏、gnck氏がともに1988年生まれと20代の研究者・批評家によるシンポジウムであった。3人の舵取り役を行った石岡氏は1972年生まれの40代である。

まずは表象文化論を軸に批評活動を行う石岡氏から「アート」「エンターテイメント」「アニメ」「マンガ」と異なる4つの領域が「メディア芸術祭」という名のもとでひとつにまとめられていることが触れられ、そうした状況のなかで「メディア」の単数形である「メディウム」をどのように考えていくのかという問題提起が行われた。

はじめに、マンガ研究者の三輪氏より今年度マンガ部門の受賞作に見られる特徴として「メディアへの自己言及性」及び「自伝的作品」という2つの点が見られるという指摘がなされた。優秀賞の島本和彦氏の『アオイホノオ』が自伝的作品であり、作品内で作者と同時代のあだち充氏、高橋留美子氏のマンガへの言及がなされている点や、初期の作品『炎の転校生』で描かれたマンガ内広告が、テレビの特撮・アニメものの「Aパート・アイキャッチ・Bパート」という構造を借りて展開されている点が示された。また、優秀賞の李昆武氏/フィリップ・オティエ氏/訳:野嶋 剛氏『チャイニーズ・ライフ』、審査委員会推薦作品の東村アキコ氏『かくかくしかじか』とエマニュエル・ギベール氏/ディディエ・ルフェーヴル氏/フレデリック・ルメルシエ氏/訳:大西 愛子氏『フォトグラフ』の3作品も自伝的作品として挙げられた。特に『フォトグラフ』はマンガと写真の組み合わせで成立しており、マンガと写真それぞれのメディウムの特性を浮き出させているメディウム横断的な作品であるという指摘がなされた。

次に、視覚文化評論家の塚田氏から「アニメ」に関する発表がなされた。塚田氏は鑑賞者のアニメ受容の問題として「聖地巡礼」を取り上げた。「聖地巡礼」は地元の人にとっては普通の風景であっても、そこを舞台にしたアニメを見てファンになった人が「普通の風景」を「聖地」として訪れるという行為である。

塚田氏は埼玉県北葛飾郡鷲宮町(現在は久喜市に合併)を舞台にした「らき☆すた」を例に出しながら「聖地巡礼」というムーブメントの説明を行った。その後、「聖地巡礼」の背景にあるのは、デジタル技術によってアニメの「背景」が取材写真から精緻にトレースしてつくられるようになった点が挙げられた。しかし、それでは「技術決定論」になってしまうとして、塚田氏は「複製」という概念を「聖地巡礼」を理解するために導入する。アニメのキャラクターはもともと記号・要素を組み合わせで成立しており、それがキャラクターの複製可能性と結びついていた。その複製可能性が現在では「キャラクター」だけではなく「背景」まで及ぶようになった。塚田氏は最後に、アニメは画面すべてに「複製可能性」を組み込んでおり、それが鑑賞者に「キャラクター」だけでなく「背景」にも欲望を喚起させると発表をまとめた。

最後に、キャラ・画像・インターネット研究を行うgnck氏から「ウェブイラスト」に関する発表がなされた。gnck氏はJNTHED氏の作品の説明を行いながら、彼の作品は「メディア芸術祭」のどの部門に位置づけてもおさまりが悪いと指摘する。そこからメディア芸術祭の「芸術」とは何を指しているのかを考えると、表現全般を「芸術」と呼んでしまうこともできるし、「美しい」ものを「芸術」とすることもできるが、それでは「自然」も入ってきてしまう、と問いかける。そこから、gnck氏はJNTHED氏の作品を価値付けるための独自の基準を言語化することが自分の仕事だと考えるようになり、さらに「ウェブイラスト」を成立させているメディウムとして「デジタル画像」へと考察を進める。そして、画像を拡大したときに見えてくる「ジャギー」がデジタル画像特有の(物質的)質感として見出され、一見「滲み」のように見えるシャギーがウェブイラストの「像」を形成していると同時に、デジタル画像の「痕跡」としてそこに存在していることが示される。そして、その「痕跡」がコンピュータの演算からできていることに自覚的になるべきだ、と語った。

3者の発表を受けて石岡氏は「メディア芸術祭は制作サイドに立っているが、制作プロセスを言語化している批評も制作に与しているのではないか?」という質問を3者に投げかけた。この質問に対して、三輪氏はメディウムを新しく読みかえていく使命をもっているのが批評であり、過去のマンガ批評を引き継いでいくことが大切であると返した。この三輪氏の返答は「マンガ」が制作・批評とともにその領域が自立するほどに充実してきたことを示している。充実したマンガ批評の土壌があるからこそ、三輪氏はマンガをテレビや写真という他のメディウムと対比でき、そこからマンガ批評を更新していると言える。そして、他メディウムとの交流から生じる批評の更新が間接的に制作側に影響を与えることがあると考えられる。

gnck氏は「何かが成立する瞬間を問題視している。鑑賞者としてどのように感じたのかということを精緻に言語化していき、その上で『もっとこうした方がいい』ということも言っていく」と答えている。gnck氏は、批評の対象としているものが、外から見たら何でもありに見える「メディア芸術祭」においても居場所を見つけることができない表現を扱っているからこそ、言語を用いて批評対象のメディウムの輪郭をかたちづくろうとしている。「メディア」のなかでも居場所が曖昧であるがゆえに、gnck氏は「メディウム」への意識が高く、複数の「メディウム」を取り込みながら批評を行い、制作サイドに直接的に介入していくのだろう。

塚田氏は「批評というのは画面のレベルと需要者の中間にあるもの」と答えている。この答え及び「聖地巡礼」に関する塚田氏の発表によって、アニメというメディウムの位置づけが明確になった。今後、批評が蓄積されていくにつれ、他のメディウムと対比するアニメ批評も豊かになっていきそうだ。

やけに落ち着いた20代の三輪氏、塚田氏、gnck氏の各発表と40代の石岡氏の速射砲のような語りのモデレートによって、マンガ、アニメ、キャラ・画像・インターネットという各メディウムの批評を取り巻く状況が明確になったシンポジウムであった――2つの世代のあいだに位置している30代で、インターネットにおける表現をしながらもインターネットに対して明確なメディウム概念をもつことができない研究者の感想である。

テーマシンポジウム「想像力の共有地〈コモンズ〉」
http://j-mediaarts。jp/events/symposium#12_1