平成28年度「メディア芸術連携促進事業」:連携・協力の推進に関する調査研究 「超」領域展覧会の企画立案: 「少女マンガ誌・およびふろくにまつわるオーラルヒストリー」(第4回調査報告研究)

1.調査研究の目的

「超」領域展覧会の研究目的は、マンガ、アニメ、ゲーム、メディアアートの4領域の史資料やコンテンツ等の「共同利活用を実現する」ため、特に史資料やコンテンツの利活用のモデル(案)として、連携展覧会(領域横断・資源シェア型)が効果的であることを実証する「モデル展覧会(案)」の立案を行うことにあります。

昨年度事業として実施した「少女雑誌ふろくの歴史・展示」研究では、戦前から刊行されている代表的な少女マンガ雜誌や、戦後刊行され現在も継続し、60年の歴史を持つ集英社『りぼん』とその「ふろく」に着目して、それらが果たしてきた社会的な意義、読者への影響などを読み解く「展覧会」を開催するための準備作業を行いました。

今年度はこの成果を基に、少女マンガ誌史上最高発行部数である255万部を達成した、1990年代の『りぼん』編集者や関係者への聞き取り調査を行い、オーラルヒストリーとしてのとりまとめを行っています。昨年と今年の研究成果は、2016年12月から2017年2月まで京都国際マンガミュージアムで開催され、2017年6月まで明治大学米沢嘉博記念図書館にて巡回している「LOVE♥りぼん♥FUROKU 250万乙女集合!りぼんのふろく展」の展示内容にも活用されています。

2.調査結果の公開

聞き取り調査は以下の方々へ実施しました。

りぼん編集長 冨重 実也氏
りぼん副編集長 後藤 貴子氏
元りぼん編集者/児童書編集部 編集長 江本 香里氏
元りぼん編集者(現在は集英社を退職) 岩本 暢人氏
元りぼん編集者/学芸編集部企画出版 編集長 小池 正夫氏
元りぼん編集者(現在は集英社を退職) 宇都宮 紘子氏

 貴重な研究成果が得られたため、聞き取り調査の記録を公表することとしました。公表は、とりまとめが完了した順に実施していく予定です。

調査記録の公開に際して

1955年の創刊以来、日本の少女マンガ誌およびふろく文化を牽引してきた一つに『りぼん』があります。本誌は特に1980年代後半から1990年代前半にかけては発行部数が上がり1994年には少女マンガ誌史上最高発行部数となる255万部を達成しました。その記録はいまだに破られていません。当時の『りぼん』では、読者のことを「250万乙女」と呼び、作品のキャッチフレーズなどに採用していました。

さて、かつての「250万乙女」は今や30代。仕事に子育てに活躍している女性が主です。なぜ今のアラサー女子がこんなにもパワフルなのか?そのパワーの根源に『りぼん』は存在するのではないでしょうか?250万という膨大な数字が現在の女性たちとリンクしないはずはありません。『りぼん』は読者に明日を前向きに切り開く様々な術を教えてくれました。もちろん、この世代や『りぼん』に限ったことではありませんが、今回はこの250万乙女の原風景はいかにして作られたかに迫りたいと思いました。

今回のオーラルヒストリーで対象としたのは、80年代から現在までを対象に、『りぼん』を作った編集者たちの話です。特に、ふろくについては、70〜80年代までの研究蓄積は先行研究本や展覧会で語られることはありましたが、それ以降の年代については、ほとんど語られることが少ない分野になります。

なお、このオーラルヒストリーの内容は、京都国際マンガミュージアムで2016年12月から2017年2月まで開催され、2017年6月まで明治大学米沢嘉博記念図書館で巡回中の「LOVE♥りぼん♥FUROKU 250万乙女集合!りぼんのふろく展」の内容の参考にもさせていただきました。オーラルヒストリーと合わせてお楽しみいただければ幸いです。

倉持佳代子
京都国際マンガミュージアム
京都精華大学国際マンガ研究センター

調査記録4 岩本暢人氏

  岩本暢人さんは、『りぼん』編集部に21年在籍し、少女誌としての『りぼん』を象徴する作品といえる水沢めぐみ先生の「姫ちゃんのリボン」を連載のはじめから海外展開にいたるまで担当なさっていました。また、『りぼん』の最盛期を副編集長としてずっと支えられました。つまり、『りぼん』が一大メジャー誌に変化するころをずっと伴走した人物です。

 第4回目では、岩本さんの『りぼん』在籍時代を追うことで、70年代末から90年代末の『りぼん』編集者のお仕事を掘り下げます。

少女マンガ誌・およびふろくにまつわるオーラルヒストリー 第四弾

実地日:2016年10月19日(水)

対象者
■岩本暢人(元りぼん編集者)1977年集英社入社
りぼん在籍期間:1978年秋頃〜1999年6月
インタビュア
倉持佳代子、ヤマダトモコ
構成
ヤマダトモコ

■77年から80年代前半 口絵・読者ページの仕事

集英社に入社なさってすぐのお仕事が『りぼん』だったのでしょうか。

<岩本>

 僕は1977年入社で、その春にまず『週刊マーガレット』(以下『週マ』)に配属されました。そして、1978年の秋頃に『りぼん』に移りました。だから『週マ』に1年半ぐらいいました。当時土田よしこ先生が「つる姫じゃ〜っ!」(1973-79年)をやっていらっしゃいました。土田先生は『週マ』でも『りぼん』でも連載なさっていて、「つる姫」を担当しましたね。その後、1999年の6月に文芸の翻訳書に移るまでずーっと『りぼん』にいました。その後は文芸で一昨年の2014年に定年になるまでいましたね。

岩本さんの着任当時の編集体制を教えてください。

<岩本>

 編集長が渡辺浩志さん、副編集長は倉持功さんでした。主任がNさん。それからYさん、Uさんがいました。女性編集者の宇都宮さん(第5回オーラルヒストリー公開予定:宇都宮紘子さん)が『別冊マーガレット』(以下『別マ』)にいて、後から来ました。女性のマンガ編集者は、当時は本当に珍しかったです。全部でスタッフは8人はいたと思いますが……。『週マ』は、マンガと実話と校了班で分かれていたのかな。3班あり人数が多かったので、それに比べると『りぼん』は少ないなと思った記憶があります。月刊誌ですからね。ただ月刊誌とはいっても、ふろくなどもやっているから大変は大変でした。

1981年の1月号から始まった「がんちゃんのぺちゃくちゃランド」のがんちゃんは岩本さんのことですよね。それまでは「はーいお元気」というコーナーでした。いきなりポップな絵になりましたよね。

<岩本>

 がんちゃんは僕ですね(誌面をみながら)。この絵は麻久里しずさんですね。誌面で紹介されている歌に全然流行っているのがない(笑)。近田春夫なんか誰も聞かないっていうの。しぶいよね。
新人は、女性系では『セブンティーン』含め、すべてだいたい読者ページを担当することになっています。僕も、『週マ』でも『りぼん』でも読者ページをやりました。

それまでもキャラクターとしては登場していなくても、読者ページを担当されていたのでしょうか。

<岩本>

 僕は最初のうちは口絵が多かったです。口絵は随分たくさん作りました。口絵も新人の仕事です。わりとすぐにマンガの担当も並行して持つようになりました。口絵のプレゼントなどの特集ページは、後のキャラクタービジネスにつながっていきますよね。当時は、当然のようにスタイリストなんていないので自分で選んで買ってくるのです。

予算やテーマ、たとえば「今回の懸賞はニットにしましょう」というような枠は誰が決めるのでしょうか?

<岩本>

 口絵会議で決めます。予算もテーマも。

お店に行って最終的にセレクトするのが担当者なのですね。大変ではなかったでしょうか、女の子のものですし。

<岩本>

 『週マ』の時は戸惑いました。今もあるダンス衣装のお店「チャコット」に行ったりしましたね。バレエがテーマのときは、トウシューズの小物を探して買ってきたりしてね。今でも覚えていますけど、トウシューズを撮影するのに、靴のセンターにある折ったしわを消さなくちゃいけないわけです、写ってしまうから。それで家庭科以来やったこのないアイロンがけをしました。わからないから熱くなっているところを手で持っちゃって「あちちちち」みたいな。アイロン台なんて思いつかないですよね。23ぐらいから25、6歳までチャコットに行ったりしていました。でも慣れれば全然平気です。

お店に男の人が来て、女の子のものばかりたくさん買っていくわけじゃないですか。

<岩本>

 それは、商品を買う前に最初に言いますよね(笑)。他は東急ハンズに行ったりしました。それからファンシーショップには必ずみんな行かされました。市販のものをヒントにアレンジして特製品、毎月の懸賞を考えたりするためや、全員プレゼント(以下、全プレ)のヒントになる商品がないかを探すためです。あるいは今流行っている素材を知るために。全プレは素材の制約があんまりないからね。今はふろくも素材が自由になり、布をつけることができるようになりました。それに一点にコストがかかるようになって変わりましたよね。

少女マンガにはお仕事に就く前に触れる機会はありましたか。

<岩本>

 僕は妹がいたから、楳図かずおさんの怖いマンガとか、里中満智子さんのマンガとかを読んでいましたよ。少女マンガは読んでみるとおもしろいですよね。あと僕の世代だと早稲田大学に「早稲田おとめちっくクラブ」というのがあって、アイビーマンガというのも大学の時知っていましたね。まさかその後、おとめちっく三羽ガラスの1人、田渕由美子先生の担当をするようになるとは思っていませんでしたけど。

口絵のあとに、読者ページを担当なさったのが1981年頃なのでしょうか。

<岩本>

 そうですね。読者ページはね、もう勝手にやっていましたね。

冨重さん(現・『りぼん』編集長・第1回オーラルヒストリー)が、入りたてのころ先輩や上司のチェックが全然なくて自由だったとおっしゃっていました。

<岩本>

 当時は見ている暇、なかったですよね。それは締め切りがきつくて押しちゃって編集も徹夜でってなっているけど、校了紙が真っ赤になっちゃっても「ちゃんと直してくださいね」でおしまいでしたから、最後に泣くのは印刷屋ですよね。部数にものをいわせていたところがありましたね。よくないですよね。

冨重さんが入られた93年は255万部に向かっていく一番大変なころですものね。

■88年から92年ごろ ふろく担当者の仕事

「ふろくファンルーム」もご担当されていましたか? 「がんちゃん」が、ふろくファンルームのキャラクターとして登場していたと思います。

<岩本>

 ある時から、ふろくも担当するようになって、宇都宮さんとYさんと3人でやっていました。Yさんがいなくなってからは宇都宮さんと2人でやりましたね、多分。

その後、Uさんが「トマトちゃん」というニックネームで入られて、それから江本香里さんの「かおりん」(第3回オーラルヒストリー)です。

<岩本>

 そのあたりはあまり覚えていないです。

ふろくが出来るまでの、当時の編集部内での流れを教えてくださいますか。

<岩本>

 まずふろく担当者が各社から説明を受けます。ふろくをプレゼンする会社が3社か4社あって企画会議です。常連が、大日本印刷と凸版印刷、それから松下印刷。当時のふろくのことを調べるなら特に松下印刷ははずせません。他にはグラビアを専門にしているところとか、印刷専門じゃないところもありました。その会議でプランがいっぱい出てくるんです。案を考えていたのは、ほぼ全員女性だったのじゃないかな。大学に入りたてくらいの子にリサ―チしたり。そこからセレクトして全体のふろく会議にかけます。

僕がふろく担当だったときは、その全体会議で説明していました。全体会議は編集長も出ますが、僕のころはまだ社長 -当時は代表取締役だから代表と言っていましたが- も出席していましたよね。でも言うことは決まっていました。「ここ、赤にしたら」とか。それで最後に、はんこを押すんです。認めたって。でも、気に食わないと逆さまに押したりしてね。おもしろい人でしたね。

雑誌全体の中でふろくは、何パーセントぐらいの予算を使うのでしょうか。

<岩本>

 パーセンテージは全然覚えていないですね。原価で80円ぐらいは使っていたという気がするけど。いや、それは全プレの原価かもしれない。……ああ、そうだ。編集部で案が決まると、先ほど話した全体の会議にかける前に、ふろく営業打ち合わせというのがありました。販売よりも前に、資材と制作のみんなと原価の話をします。こんな高いのつけちゃダメだとか、この素材はこっちに落とせばもっと安くできるとか。その時に制作のAさんという人が一緒にやってくださいました。その後に代表への説明ですね。代表がはんこを押すまで説明するのですが、それは儀式で。

その営業打合せで、ふろくの現実的な落としどころが決まったのですね。

<岩本>

 そうですね。原価は印刷屋から上がってきているけれど、当然ながら抑えれば抑えるほど他にまわせるわけだから、このシールはこの紙どりじゃなくて別の取り方をすれば何銭か安いよ、という話をしますよね。だから原価計算のことなどは彼らのほうが詳しいです。僕はもう忘れてしまいました(笑)。

ふろく営業打合せにはどなたが出席するのでしょうか。

<岩本>

 ふろく担当者と、副編集長は行ったと思う。編集長は出ていたかな。とにかくふろくは会議が多くて最初の企画会議だけで半日仕事で疲れるんですよね。向こうは真剣に売り込みをかけてくるわけですからね。

その最初の企画会議にも副編集長は出ているのでしょうか。

<岩本>

 出ていないですね。ふろく担当者だけだったと思う。ただ副編でふろく担当だという場合もあるから、そこでは役職は関係ないですよね。

それに加えて全プレの会議もあったということですよね。

<岩本>

 全プレ会議もありましたね。作るものが1個だから、業者が6社とか7社とか来て、会議をするともうそれで1日終わっちゃう。伊勢丹や西武の外商とかも来るようになって。企業の外商が名を入れたタオルを作って配ることの延長線上にあるんでしょうね。それが出来るならトレーナーだってポーチだってできるということでしょう。とにかく各社もう本当に熱心で。

先日冨重さんにお聞きしたら、250万部時代は、10万以上は余裕で応募が来ていたということでした。

<岩本>

 全プレは今考えるとすごいビジネスですよね。その内、中国製作とかが始まりました。ふろくも、僕がまだ『りぼん』にいるときに一部中国で作っていましたね。

思い出に残っているふろくはありますか。

<岩本>

 会社に入った時に、「感想文を書いて出しなさい」ということで、自宅に全雑誌が送られてきました。その時のふろくだったかもしれないけど……「こんなでっかいのがつくんだ」と思ったのが、たしか銀のバスなんですよ。陸奥A子先生の(「陸奥A子のチャーミング・ラック」1980年10月号ふろく)。

それはたぶん入社なさってから少し後のものかもしれません。

<岩本>

 じゃあ、あとで記憶がすり替わったのかな。ともかく自分が担当したものではなくて。陸奥先生は担当したことなかったですから。以前のふろくを引っ張り出してきたりしたときにみたのかもしれない。編集部に、ふろくのネタ探し用に以前のふろくが全部取ってあったんです。とにかくこんなに大きいのが紙でできるんだってすごく記憶に残っています。やっぱり大きいものは印象に残るからね。

90年代に入っても大きなラックって定番のふろくとしてありますよね。

<岩本>

 自分が担当していたものだと、あまりにたくさんありすぎて。思い出というか、もう何と言っていいか。とにかく一生懸命つけていたという感じですね。

たとえば、トランプは大変なんですよね。何が大変って色校正が大変で。校正はふろくだけじゃないから、僕はもう人の3、4倍の校正をやっていますからね。もっとやっているかもしれない。本当に校正はいっぱいやりましたね。今はデータ入校になってきているけど、当時はみんな原画を見て、赤版をおさえるとか全部文字で指定するわけです。文芸に行ってからの色校なんて僕にとっては無いようなものでした。文芸では蛍光ピンクなんて使わないわけだし。ルーペなんて使わないですから。

ルーペを使っていらっしゃいましたか。

<岩本>

 使っていましたよ。僕のルーペはすごく倍率が高いから普通の人はピントが合わなかったですよ。

色校正の時は、原画の色にあわせるのでしょうか、それともふろくのデザインや指定にあわせて少し変えたりするのでしょうか。

<岩本>

 それは、絶対原画優先です。今は、コンピューターで色を調整したりできるかもしれませんが、僕らの頃は、とにかくなんていったって原画の質感と色味を出すというのが優先。

シールなどもつけていましたよね。新しく描くのが大変だから、以前描いてもらった次号予告を後でシールにしたりしました。ただその方法だと色校やサイズ指定をするにも元の原画の大きさがバラバラでね。その上、それをキチンと返さないといけないからね。

シールが一度に100個付く時とかがありましたよね。そんなご苦労かあるとは読者側からは思ってもみませんでした。

<岩本>

 それで……シールで占いがついていたりするのがあるじゃないですか。

はい。

<岩本>

 勝手に内容を考えたりしていましたよね。

そうじゃないかなとは思っていましたが(笑)。シールをめくると占いが書いてあったりしたあれですよね。

<岩本>

 多少の良心の呵責はあったんですけど、でも……。全部語尾にエクスキューズを入れて……「〜かも」とか。

まさにそれで一喜一憂していました。

<岩本>

 それは悪いことをしましたね。

ラッキーカラーは「ピンク」と言われたらピンクを着ていましたよ。なんてことでしょう(笑)。

<岩本>

 本職の方の原稿をいただく場合もありましたよ、もちろん。

星座占いもありましたよね。まさかあれも……。

<岩本>

 星座占いはちゃんと原稿をもらっていました。今はもう僕は『りぼん』を読んでいないけど、今もあるなら今はちゃんとやっていると思いますよ。

占いのふろくもすごく定番でしたよね。

<岩本>

 そう人気があった。だから、おみくじだったりシールの裏とか、いろいろ手を変え品を変え、とにかくいろんなことを考えたり、考えてもらったりして占いものはつけていましたよね。

読者のニーズはどういうふうにリサーチなさっていたんですか。

<岩本>

 ふろくに関しては、先ほど話した企画会議。ふろくプレゼンテーションありきです。

プレゼンされたいくつものものから選ぶときに、心がげておられたことはありますか。

<岩本>

 うまくふろくに結び付かないかもしれませんが、編集者に絶対に必要なのは、今の時代に何が流行っているかを肌で感じておくことかなと思います。失敗したりしながらね。
テレビドラマに「北の国から」があって、青年マンガには「博多っ子純情」っていうヒット作があるから、少女マンガでも方言マンガってありなんじゃないかと、谷川史子先生に長崎のお祭りの「長崎くんち」を題材にした作品(「祭・長月」『りぼんオリジナル』1987年夏の号掲載。デビュー2作目)を描いてもらって失敗したり。

「瞬きもせず」(87-90年『別マ』紡木たく)などもありますし、今現在、少女マンガで地方ものや方言ものは定番になってきています。目の付けどころはよかったのではないでしょうか。

<岩本>

 でも『りぼん』では反応無かったですよね。集英社の社訓に、創意とか協調とかという言葉が入っていますが、協調しない編集者は山ほどいるので、どちらかというと創意が大事かなと(笑)。創意って何かというと、流行を鋭敏に感じとる心や、素材の旬をつかむとか、値段の縛りがあっても、何かの工夫で使うことができるようにするとかそういうことです。
旬といえば、ふろくには季節ものが多いですよね。豆まきだったり、クリスマスだったり、バレンタインだったり。世間で騒がれる前に、ふろくではハロウィン・グッズをつけていたはずです。そうした日本の風俗習慣というのをすごく着実になぞっていますよね。よく言えば習慣を教えている、悪く言うと刷り込みをしている。だから怖いんですよそういう意味では『りぼん』を作るのは。

小さい女の子が読者ですから、確かに責任重大ですよね。

■90年代前半 マンガ編集者の仕事

担当なさったマンガ家さんについてお聞かせください。

<岩本>

 『週マ』だと、編集者のOさんから弓月光先生の担当を引き継いだとか、土田よしこ先生は、Kさんから引き継いだとかは覚えているのですが……。『りぼん』は結構担当を頻繁に変えるんですよね。なので、連載の途中から担当になることもよくあります。たくさんの方を担当しましたし、デビュー作も結構担当していますよ。矢沢あい先生、石本美穂先生、谷川史子先生のデビュー当時の担当は僕でしたね。でも、デビュー作って応募作を入稿するだけなので担当の意味はないんです。成功した連載を担当していたわけでもないですしね。

以前もご担当した作品を少しだけおうかがいした際、ギャグマンガの担当も結構されていますよね。みを・まこと先生「キノコ♥キノコ」、沢田とろ先生「てこてこはこべ」、田辺真由美先生「まゆみ!」、亜月亮先生もそうですし、山本優子先生も破壊的なギャグとラブコメが融合した方、一条ゆかり先生の「有閑倶楽部」もギャグコメディー的要素が強いですよね。『りぼん』は攻めたギャグ作品が多いという印象があります。

<岩本>

 ギャグ好きですよね。なにせ「つる姫じゃ〜!」の担当から始まっていますから。ギャグというかショートショートでは「なきむしメルヘン」の赤座ひではる先生もずいぶん長く担当していました。

赤座先生はお元気でいらっしゃいますか?

<岩本>

 元気元気。似顔絵もやりながら、元気にやっていますよ。

水沢めぐみ先生の「姫ちゃんのリボン」もご担当なさった作品なのですよね。

<岩本>

 僕が最初からちゃんと形になるまで全部担当したのは「姫ちゃんのリボン」だけといえますね。

「姫ちゃんのリボン」は1990年8月号から連載開始ですね。

<岩本>

 「姫ちゃん」は、最初のスタートの段階、キャラクターを決めたりする段階から、外国でアニメが流れるころまで担当しましたね。マンガって、紙媒体として6回ぐらい商売になるんですよ。まず、本誌掲載、それから今はあまりないけど総集編。あとはコミックス、文庫、コンビニ展開などのリミックスというのが最近あるでしょ。これで5回ですよね。同じソフトでそれだけ回すから、集英社は利益を上げることができるわけです。そこから派生して、キャラクタービジネスにいく。アニメをやって、グッズでしょう。「姫ちゃん」の場合、アニメ化と並行して連載の前からグッズ化の話がありました。「これは商品にして売りましょう」とか、朝からずっと打ち合わせしたりしていましたから。その後にアニメでしたよね。

グッズが先でアニメが後なのですね。

<岩本>

 そうですね。まずマンガに「魔法のリボン」を出しておく、アニメ化にはスポンサー集めなども大変です。連載初めて反応を見る。スポンサーもです。マーチャンダイジングで商品化してグッズを売って、それをアニメでも生かして、最終的にはヨーロッパなどにもアニメを輸出してね。

「姫ちゃん」は、岩本さんとしては最初からアニメ化を狙っていらしたのでしょうか。

<岩本>

 「次の水沢先生の連載でアニメにしましょうね」というところからはじめました。連載開始後しばらくして「セーラームーン」のアニメが始まって(1992年3月放送開始 テレビ朝日系列)、そのすぐ後くらいに放送開始したかな(1992年10月放送開始 テレビ東京系列)。「セーラームーン」に対抗していこうということでやったのだったかもしれない。

「りぼん漫画スクール」は担当なさっていましたか。

<岩本>

 僕は「漫画スクール」の担当はやったことがないですね。「漫画スクール」の担当者ってそのページを入稿する原稿を書く人間という意味です。もちろん投稿原稿は読みましたよね、本当にたくさん。『りぼん』は読者が作者、マンガ家になっていくのでとても大事です。

『りぼん』は若いうちにデビューする方が多いですよね。

<岩本>

 そうですね。水沢めぐみ先生は高校の時にコミックスが1冊出ていますからね。これはすごかったですよ。きっと当時でも。初めて会った時は早稲田大学にいて、そのあともずっと描いている。高学歴だからえらいというわけではないけど、すごいことですよね。

水沢先生のデビューは中学生でしたよね。中学生や高校生の作家さん相手で苦労なさったこと、こういうところに気をつけたという点はありますか。締め切りとテストが重なって大変、とか。

<岩本>

 実生活の処し方の相談にのることは僕はあまりなかったけど、一般常識や、知識がまだない場合があって。難しい言葉を使っているけどまちがっているとか、ことわざとか、そういうことを、本当に一般教養の先生として教えつつというところはありましたよね。今僕が頭に思い浮かべているのは、田辺真由美先生とかなんだけどね。何も知らなかったしね(笑)。

田辺真由美先生は今『ココハナ』で連載していらっしゃいますね。
今はご自身が再婚を目指す実録婚活マンガ(「まゆみ!2016再婚」)を描いていらっしゃいます。『りぼん』で連載していた「まゆみ!」でもおなじみのボーバーとかが出てきておもしろいですよ。

<岩本>

 ボーバーってお会いしたことありますよ。真由美先生のお婆さん。打ち合わせに行きましたからね。どのマンガ家さんでも打ち合わせに行くんですよね。

わー! リアルボーバーに会ったなんて羨ましいです(笑)。
『りぼん』はギャグと恋愛ものが多かった印象ですが、岩本さんとして意図的にこうした作品を求めていたとか、そういう意識はありますか?

<岩本>

 何かを載せないと決めていたことは無いですね。ただ、ある種『りぼん』らしさというのが伝統になってしまって、載せる作品の範囲がせばまってしまうという傾向はあったのかもしれません。でもそれは逆に言うと強みとして機能しているのかもしれない。もし『りぼん』の傾向が変わっていないとしたら、『りぼん』ではそれは正解で、もしかしたら変えないほうが強いのかもしれない。売れなくなると雑誌はいろんなことをやりますけど、問題は中身なんで。中身に一本線があればいいんですよね。

■92年から99年 副編集長の仕事

「姫ちゃんのリボン」の連載当初は、もう副編集長になられていたのでしょうか。

<岩本>

 なっていないです。副編になってからは、最初はまだ水沢先生などを担当していたかもしれないですが、後半は一条ゆかり先生しか担当していませんでした。予算とかいろいろなことを任されるし、色校とか、とにかく全部校了しなくちゃいけないから。「姫ちゃん」の連載当初は主任のころじゃないでしょうか。

副編集長になられたのは何年からですか?

<岩本>

 中森さんが『別マ』から来たときからです。中森編集長で僕が副編の時に255万部突破しましたね。

中森美方編集長は92年5月号からで、その前は山田英樹編集長です。

<岩本>

 山田さんの副編をやった記憶はないので、中森さんが編集長になった時に副編になったと思います。

岩本さんがいらした時期は部数としてはかなり激動の時代ですよね。部数の変動についてはどのように感じていらっしゃいましたか。

<岩本>

 (94年2月号 255万部達成時の表紙をみながら)このずいぶん控えめに表紙で宣伝していることからもわかるように、当時はそんなにはものすごい数字だと思っていなかったですよね。255万部なんて半端だな、どうせなら300刷ってくれればいいのに。もっと行くかもしれない、ってね。要するに、どこまで伸びるのかわからなかったですよね。今だったら少子化で、読者人口を結構細かくみているでしょうし、みることもできるでしょうけれども、当時はそこまで考えてないから。それに、部数が落ちようが伸びようが、実はあんまり気にしていなかったです。僕は『ちゃお』に逆転された時はもう『りぼん』にいないので、その時いた人は大変だったと思いますけど。

『りぼん』の255万部時代ってジャンプも600万部売れていましたから、やっぱり感覚がマヒしていたみたいなところがあったのでしょうか。

<岩本>

 部数バブルですよね。

現場の人数が増えたりはしましたか。

<岩本>

 正社員が多少は増えたかな。儲けていれば堂々と要求できますからね。増やすだけではなくて、女の子を取りたいとかそういう希望が通ったりしましたよね。

少女誌の編集部だから女性がやっぱり必要です、と言うと通った。

<岩本>

 そう。増やしてほしいとはずっと言っていましたからね。『りぼん』にはずっと女性がいたけれども。女性の編集者は、僕が入った77年には『週マ』にも1人いました。

正社員でしたか。

<岩本>

 最初は正社員じゃなかったけれども正社員になったと思う。そちらは今話した部数の関係では無くて、それよりもっと前の社会的な流れででしたけれども。

岩本さんにとって『りぼん』の編集部って、楽しかったですか。

<岩本>

 あのね、管理職、副編になっちゃってからはね、つまらない。やっぱりマンガ作ってないと。だからそれを離れちゃって、予算とか色校正ばっかりやっていると、つまらないです。

岩本さんがいないと『りぼん』の現場が回らないから長く異動がなかったのではないでしょうか。

■『りぼん』の成果

私(倉持)は、種村有菜先生が出てきた時にそう感じましたが、時代時代で『りぼん』を変えた作家さんがいると思っています。

私(ヤマダ)は水沢めぐみ先生のデビューの時感じました。

<岩本>

 池野先生は違うの? 売れたという意味ではね、まず池野先生だからね。

私(ヤマダ)は、水沢先生で感じました。『りぼん』は変わっていくのだなと強く感じたというか。今思うと、中学生デビューの、幼いけど才能があふれる感じに圧倒されたのかも。『りぼん』は読者の年齢を下げようとしているのかなとも強く感じました。さらに柊あおい先生が出てこられて、可愛さの傾向が変わっていくのだな、というか。

<岩本>

 意図的に読者年齢を下げようとした時期がありましたね。集英社では、『りぼん』以外は競合せず年齢を下げることができないですから。下の年齢層が入りにくくなっていると感じたら下げて新しい読者に入ってきてもらって次の『週マ』『別マ』『セブンティーン』、それから女性誌全体に続いて行ってもらいたいわけですからね。

わかります。私(ヤマダ)は70年代後半からの読者でしたから田渕由美子先生や、小椋冬美先生などと一緒に成長したところがあります。なので当時ちょっと寂しくもあり、その流れが『りぼん』を卒業するきっかけにもなりました。でも、仕方ないなとも同時に思っていました。一条先生の「砂の城」など明らかに大人っぽくなりすぎていましたから。

<岩本>

 一条先生は特別で、タブーに挑戦するとかわけのわからないこと言っていて(笑)。ずっとそのままなんですけど。他には矢沢あい先生もそうじゃないですか。ターニングポイントというか。

「ご近所物語」とか「下弦の月」を描かれてますます内容が大人っぽくなっていき、一方で種村先生が出てきてそっちが主流になっていく。『りぼん』のお話の対象が明らかに自分とずれてきたと私(倉持)は感じました。そんな中、『Cookie』が創刊されたので、そちらに移行するみたいな流れはあったと思います。小学生を呼び込むという読者層は守ってきたということですね。

<岩本>

 やっぱり低年齢層を取り込むというのはすごく重要なことなので、そのため子どもっぽくなったり、いろんなことはあったかと思います。小学館で言えば学年誌のような位置づけなんですね、集英社における『りぼん』は。学年誌ももう1誌しかなくなっってしまいましたけど。

年齢を下げるだけでなく、折に触れてテコ入れしようということになったかと思うのですが、それは具体的にはどうやって決まるのでしょうか。会議などででしょうか。

<岩本>

 必ず毎号の反省会というのをやっていました、ずっと。そこで色々な話も出るし。それから、僕は本当は苦手だったのですが、必ず新年1回目の会議は年間目標と計画を出さなくちゃいけなくて。今年はこうしよう、こういうふうに変えよう、こうすれば売れるみたいなことをやっていました。口絵からふろくまで全部。このマンガ家さんに新しい傾向の作品を、というような話では無く。大局を見て、『りぼん』を伸ばすためにはもうちょっと革新的な新機軸を、というような会議をずっとやっていたし、やらせていましたね。

その中にメディアミックス展開を視野に入れるということもありましたか。

<岩本>

 それは当然。メディアミックスはある時からトレンドになってきたから、そのためにはおもちゃ屋さんと付き合わなくちゃいけない。バンダイさんとか。タカラさん、トミーさん。当時はまだタカラトミーじゃなかったので。それからテレビ東京などのテレビ局さん。

『なかよし』はメディアミックスに積極的な感じでしたね。『りぼん』は時代がそうなら乗っていくけれども、という感じに見えました。

<岩本>

 それはそのとおりですね。メディアミックスが主流になってきたというか、世の大勢がそうであったけど、それに全部おんぶにだっこしようとは思っていなかったですね。それもあっていい。だけどマンガを作ってコミックスを売っていけばいいんだという考えが主流でしたね。社内的にも、ダイレクトに編集部の成績に結びついていくのは、本誌の実売とコミックスなんですね。場合によってはコミックスも入れないんですけど。『りぼん』はふろくをつけるから原価が高いので、コミックスの売り上げが重要なんです。

マンガで勝負するんだというところがあったのですね。

<岩本>

 はい。それはそういう路線の作家さん、たとえば、矢沢あい先生とか谷川史子先生などがいたので。矢沢先生は、ちょっとメディアミックスは難しそうなイメージでしたけど「ご近所物語」がうまくいきましたけどね。谷川さんはコミックスの売り上げがよかったですよね。

メディアミックスで売れることは、社内的には応援はするけどそれがすごい評価の対象になるということはあまりなかったということでしょうか。

<岩本>

 売り上げ実績につながることが大事なんです。商売なのであたりまえなのですが、メディアミックスは話題性として派手だけど、じゃあいったい集英社的にいくら儲かったかという話になるとそんなに儲からなかったかもしれない。

当時は。

<岩本>

 そうですね。集英社ではやっぱり「Dr.スランプアラレちゃん」のころからどんどん変わってきたと思います。それでも最近の「ONE PIECE」みたいなノリではないですから。むしろ、メディアミックスは手間がかかる割には利益が少ないという実感のほうが強かったかもしれないですね。

『りぼん』を考えるときには、どうしても『なかよし』との比較になってしまいますが。多分全体に、『りぼん』は作家主義なのかもしれないですね。どちらかというと。

<岩本>

 意識的に一作を突出させようという傾向はないですね。やっぱり雑誌は総合力なので。

「セーラームーン」だとすごく壮大な敵と戦ったりします。主人公のことをすごいと思うけど共感という点では薄かったかも。一方で「姫ちゃん」は魔法を使うけど、身の回りの世界をなんとかしようとしているところがとても共感できたんですよね。ファッションもコスチューム的非日常を楽しむのが『なかよし』、日常から続くセンスのよさがあるのが『りぼん』という感じでした。

<岩本>

 壮大な敵と戦うファンタジーも楽しいんだよね。僕は文芸に行ってからよく冗談で、ある年代の日本の女性の恋愛観は少女マンガが作ったんだという話をしていて。『りぼん』だけが作ったわけじゃないですけど。少女マンガには、それぐらいの影響力があったと思っているんです。世界のどこの国にも、少女文化にマンガがこれほど影響を与えている国って無いですよね。じゃあふろくってなんだろうかと思う。ちまちましたいろんなものを作るという作業は、小さな世界にね、女の子を閉じ込めてしまったんじゃないだろうか。もしそうだとしたら、これは功罪の罪じゃないかと思ったりして。でもそうじゃないんだろうか。ここから世界へ飛躍したりしたんだろうか。わからなくって。

少女マンガが培った恋愛観、ロマンティックラブ志向は確かにあこがれとの落差といった場面で、現実に色々弊害が出ているかもしれません(笑)。でも、私(倉持)は『りぼん』のおかげで前に進んでいく強さみたいなのを確実に養ってもらったと思いますよ。周りのかつてのりぼんっ子も仕事に高い完成度を求めて続けている人が多い様な気もします。共感すること、日常を楽しむことを大事にしながら。

<岩本>

 小市民的な小ささに満足してしまうような大人が育っていたらいやだなって思っていたので、僕らのしてきたことが、現実的に周囲を見る姿勢を促していたのなら正解だと。共感することを通して女性が一生懸命働いてくださっているならよかったです。

身近なところをみつめて、ふろくを可愛くとかといった方向性で、結局250万部を達成するんですから、その当時の流れとしてはやっぱり女の子たちは『りぼん』だったということですものね。90年代の前半にりぼんが250万部になるのって、先ほどからのお話でもわかるように、メディアミックスによってなったわけではないですものね。

<岩本>

 それは絶対違いますね。

■これからの『りぼん』に期待すること

これからの『りぼん』に望むことや、未来の『りぼん』についてなど何かあればお願いします。

<岩本>

 伝統ある雑誌なので続いてほしいと言うしかないですね。マンガというジャンルも雑誌も無くならないとは思いますが、岐路に立たされています。けど、やっぱり続く限りはそれこそ恋愛観を主導、というのはおこがましいけれど、今の恋愛観を象徴するようなマンガが載っていて欲しい。ジャンルはいろいろあるけれど、やっぱり恋愛は基本だと思うので、恋愛するっていいことだという憧れ、少女マンガの本質的な部分を残しつつ、部数が出るといいですね。今、アニメで「君の名は」がヒットするように、それは変わらない普遍的なテーマなわけだから。

長年『りぼん』を支え、私たちの幼いころに楽しみと、その後を生きる力を与えてくださった『りぼん』を作ったお一人である岩本さんにお話が聞けてよかったです。今日は本当にありがとうございました。