2014年1月17日から3月1日まで、ドイツのデュッセルドルフにあるコンラッド・フィッシャー・ギャラリーにて、ユルゲン・シュターク氏(1978年−)の個展「ZWEI」が開催されている。

コンラッド・フィッシャー・ギャラリーは、1967年のカール・アンドレの個展をこけら落としにデュッセルドルフでオープンして以降、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、アルテ・ポーベラなど当時の前衛芸術を単なる展示に留まらないサイトスペシフィックなプロジェクトを国際的に展開しようとした、実験的なギャラリーであった。フィッシャーはキュレーターとして、1960−70年代にはアート・マーケットや美術館制度へのアンチテーゼを投げかける展覧会企画にも携わった。現在は、著名なコマーシャル・ギャラリーの一つではあるが、設立当時の精神を引き継ぎつつ、現代美術の若手作家も紹介する。デュッセルドルフ在住で、ブレーメン芸術大学で教鞭をとる竹岡雄二氏もベルリンの同ギャラリーで個展を開催中だ。

シュターク氏は、写真技術を3年間学んだ後、デュッセルドルフのアート・アカデミーでトーマス・ルフのクラスを卒業した。複製可能な写真作品がエディションで流通することの矛盾に疑問を抱き、「オリジナル」とは何かというテーマを出発点として、「言語」「翻訳」「複写」「非物質性」などをキーワードに、イメージを言語へ変換させること、消え行くものや個々人の主観的な真実をテーマに作品を制作する。

同個展では、3つの作品「Tableauxシリーズ」2013、《Family》2014、「Scriptシリーズ」2013が展示されている。「Tableauxシリーズ」は、薄い木片の上にネガフィルムを置いて太陽にあてて日焼けさせた、文字通り光(Photo)で描かれた(Graph)作品。《Family》は、韓国人家族が自分以外の親族について説明する音声を翻訳なしで展示するサウンド・インスタレーション。

そして、筆者が注目する「Scriptシリーズ」は、同じ母国語を話す複数の2人ペアによるパフォーマンス作品。ペアのうち1人は展示スペースの様子をリアルタイムで口述し、それを聞いたパートナーはキャンパスに文字で記述する。特殊な素材のキャンパスとインクであるため、数分経過すると書かれたテキストはゆっくり消え始め、文字が消えるとその上に再び記述していく、ということが淡々と数時間に渡って繰り返される。実況中継では目の前で起きていることに加えて、そのことから各人が想起した記憶や印象が織り交ぜられ、観客は必然的にその記述の主人公として取り込まれてゆく。パフォーマンス毎にペアの言語が異なるようだが、筆者が訪れた際には、日本語、英語、ギリシャ語、ロシア語、フィンランド語であった。ここでは、視覚/音声/文字情報が毎変換ごとに変換主体に依存しながら変容し、結局、わずかな痕跡以外は何も残らない。

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「Scriptシリーズ」(写真撮影:筆者)

どれも、シンプルな表現形態ではあるが、そのテーマは現代のマス/ソーシャル・メディア情報環境を表象する作品だと考える。たとえば、「Scriptシリーズ」はTwitterやLINEなどで交わされる個人的で短命なメッセージを想起させる。ジークフリート・ジーリンスキー氏は、ソーシャル・メディアや動画共有プラットフォームの登場によって、瞬時に記録の共有と閲覧が可能になり、その生成と消費の回転スピードが加速する現状を、過去と未来が直結した現在の不在と指摘した。さらに、そのことによってアーカイブの意味や役割も変容し、「An-Archive(無アーカイブ)」とジーリンスキー氏が提示する概念が本作品に凝縮されているように思える。「Tableauxシリーズ」における極めてプリミティブな手法で転写するという原点回帰のような態度は、現在の視覚過多な情報流通に対するアンチテーゼとも捉えられる。《Family》も同様に、より個人の内面に立ち入った非視覚的な家族写真である。

デジタル技術が可能にした、半ば無制限の記録の可能性とその共有と閲覧の即時性によって、我々は記録/定着/転写するためのテクノロジーに対して疲弊し始めているのかもしれない。同時に記録媒体とフォーマットの多様化は記録される対象の種類も意味も変容させてきた。記録、そして、それを残すこと、閲覧することが特権的であった時代とは正反対に「消滅」させることの意義とその快感を考えさせられる。そこには、神聖化や伝説が形成される隙のない、転生の連続がある。

ユルゲン・シュターク個展「ZWEI」コンラッド・フィッシャー・ギャラリー

http://www.konradfischergalerie.de/