作品体験やインタラクティブ作品をいかにアーカイブすべきかゲーム・メディアアートの保存方法を探る
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ユーザーエクスペリエンスとは何か
高橋:ゲーム、メディアアートともに何をどこまでどのようにアーカイブするべきなのかという課題がまずあります。それぞれの作品を楽しんでいるユーザーエクスペリエンス(UX)の定義から議論したいと思います。
松永:体験やエクスペリエンスと言ったときにおそらく2つの意味に区別できて、ひとつはそれぞれの鑑賞者が主観的に何を経験するのかというレベルです。内面でどういう感情、知覚、認識するのかという話。一方で、例えば視線がどういう風に動いたとかいうデータなど、主観的なレベルではなく客観的に記述できるものと分けて考えるべきかと思います。
アーケードゲームからみる体験のアーカイブの課題
高橋:今回の議題について、ゲームの中でもビデオゲームとメディアアートの共通する課題はたくさんあると思います。ビデオゲームの中でもとりわけハードウェアの比重が大きいアーケードゲームについて鴫原さんからお話をいただきたいと思います。
鴫原:ゲームのハードのアーカイブに関しては、アーケードゲームが恐ろしく難易度が高いです。放っておくだけでどんどん劣化していきます。特にレースゲームのような大型筐体は単にステアリングとかギアボックス、ペダルのような入力デバイスだけではなく、駆動部分がどんどん劣化していき、定期的に整備をしておかないと動かなくなってしまう問題があります。最近はアーケードゲームもネットをつなぐことが前提のものがほとんどになっていて、人気がなくなりオンラインサービスが終了すると、二度と元の稼働状態にはなりません。オンラインサービスが終了した後もどうやって動態として保存するのかという議論はまだ全然できていない段階です。
久保田:やり方はわかっていてもできないものと、やり方自体がわかってないものを切り分けることが必要だと思います。人材・資金・施設がないという問題などは前者かなと思います。あえて問いたいのは後者で、どこでどういうプレイをしたか、例えば1970年代のゲームが70年代にどのようにプレイされていたのか、今の子どもたちのプレイとどう違うかを分析しようと思ったら、そもそも何を残しておくべきかというところから考えることが重要になると思います。いわゆるそれはコントローラー操作の記録だけで対応できるものなのでしょうか?
松永:ゲームのプレイには、ボタン操作や画面表示の記録だけでは拾えない面が明らかにありますが、それがゲーム実況動画の記録で拾えることもあります。具体的には、プレイヤーがどのタイミングでルールを把握したか、何をやればいいのかがどのタイミングでわかったとか。あと今何を考えているか、何を感じているかなど。認識、感情の動きなど操作以外のものを言葉で残すというのもありかなと思っています。
田中:研究側ではなく現場の人間としては、一番優先したいのは現場のUXなんですね。例えば『あなたでなければ、誰が?』という、体を使って質問に答えていくインタラクティブ作品を最近つくったのですが、本当は体験者の属性の情報を回答と紐付けたい。ただ体験の前にひたすら属性をとることが、本質的な体験を損ねてしまうというのがあり、やりませんでした。ただ、個人に紐付かない相対的な数だけのデータでは、そこにある一番大事にしていた身体性や個と全体の関係の部分がアーカイブできないというジレンマがありました。
「批評」とインタラクションの相性
久保田:1990年代のアートシーンでは、インタクラションが大きなテーマだったし、多くの人がインタラクションとは何かを考えたにも関わらず、21世紀になってもそれに対する批評があまり進んでいない。絵画にせよ音楽にせよ何にせよ、さまざまな観点からの深い批評が成立していますよね。インタラクティブアートは、まだその土壌ができていないと思うんですよ。
松永:ゲームにも同じようなことが言えると思っていますが、ただその理由がインタラクティブだからなのか、単に歴史が浅いからなのかが気になっています。インタラクティブな芸術の場合は、経験の対象が人それぞれ違うという問題がある。一方で、例えば音楽であれば、演奏は都度のパフォーマンスで異なるとしても、経験の対象自体はそれなりに共有できる。その点で、批評のベースが成り立っている。
久保田:かつてはリアルタイムだったものが、録音技術によって何度も聞き返すことが可能になり、いろんな人が議論できるようなったように、インタラクションもアーカイブできれば何度も鑑賞できるようになり、それが審美的だけでなく、批評的な意味を持つのではないかと思うんです。インタラクティブアートにおける作品の同一性など、まだまだ考えなければならない点も多いのですが。
鴫原:ゲーム批評の肝になるのが、レビュアーのゲームの腕です。同じゲームでも、レビュアーの腕によって評価の良し悪しがかなり変わってきます。また、ウェブメディアでのゲーム批評はページビュー数もあまり伸びない。ゲームに関しては、そもそも読者が批評の記事を求めていなくて、ゲーム実況動画が十分に楽しんでみられているのであれば、批評が発達する土壌はないのかもと思います。
インタラクティブ作品の予期せぬ体験者・ユーザー
高橋:アートとゲームの現場をよくご存知の田中さんと鴫原さんに、それぞれの作品が受容される文化、コミュニティがどのように形成されていくのか、その場を記録するのはどこまで可能かについてお聞かせいただきたいのですが。
田中:東京ミッドタウンにある21_21 DESIGN SIGHTで開催した「ルール?展」の場合は、ソーシャルメディアにハックされるという、企画者としてまったく意図していなかったことが開幕後すぐに起こり、体験が大きく変わってしまいました。特定の層が集中して来場したことによるものです。SNSと相性の良いインタラクティブ作品では多いことかもしれません。また、コロナによってルールがみんなにとって親しみやすいものになって、ルールが「消費」されるという謎の状況も起こりました。そのことについては分析していきたいと思います。アーカイブすべきは、その状況も含めたものだと思いますが、別のタイミングで、より広いオーディエンスに体験してもらう機会も作りたいという思いもあります。
出典:21_21 DESIGN SIGHT企画展「ルール?展」
久保田:インタラクション作品をやるというのは、やっぱり制作者ができること、想像することを超えていったときも含んでいると思うんですよね。だから、悪く言ってしまうと、体験者が想定通りのインタラクションを強いられる場合は、自身の体験を搾取されたことにもなりえる。だから「ルール?展」がバズったのはある意味良かったと思いました。とはいえ、予想外のことが起き、事故や怪我が起きては当然いけないわけで、社会的な制約がある中での、インタラクションの面白さと難しさの両方があるというのが現状ですよね。
田中:インタラクティブな作品にアレルギーがあるのは、アート業界特有な感じもしていて、全然違うジャンルの人の方がすっと入ってきていただけるところがあると思います。
久保田:アート業界における作家のヒロイズムみたいなものはとても危険だと思います。「作家様」のような、作家が上にいて観客は下だよ、といった見方があるから、インタラクションが尊重されにくいんじゃないかと思うんですね。そうした見方は考え直す必要があるかなと改めて思っています。
鴫原:ゲームに関しては、ゲームのルールがあるので、その範囲内でいろいろな遊び方をするプレイヤーが出てくるし、ゲームのストーリーについても様々な解釈で議論をして楽しんでいます。「作家様が」という話がありましたが、ゲームに関してはそういうことが全くなくて、誰が作ったから絶対に面白いみたいなことも考える人はほとんどいない。先入観なしに遊ぶのが個人的な長年の印象ですね。1980年代のファミコンブームの際に専門誌には必ず裏技を紹介するコーナーがあって、プログラムミスによる想定し得ない現象も含めて全部裏技としてにぎわっていました。本来はバグですからメーカーやプログラマーとしては恥ずかしいミスですが、結果的にプレイヤーがそれを見つけて、本編とは違ったところで、かえってゲームとして面白くなっちゃって、いいじゃんということでメーカーが追認してしまうようなところもあります。
松永:ただ、受け手側が自由にプレイしてよいという価値観は、批評とかなり相性が悪いと思います。批評は伝統的に理想的な鑑賞者を前提としています。理想化された鑑賞者にとってその作品がどう見えるかという観点で批評家は評価するわけです。そこには、こう鑑賞すべきという規範が暗にあるわけですが、そうすると、自由に遊んでいいんだ、自由に鑑賞していいんだという考えとは相性が悪い。そういう自由な鑑賞を許容する文化のよさもわかりますが、それだと批評の方をあきらめないといけないかもしれない。
久保田:規範と逸脱は相反するけど常に両方なくちゃならない。規範としてのプレイをしている時に発見するものもあるし。プレイしながら発見する逸脱というものもある。それらを批評家はやっぱり適切に提示しないといけない。さきほどの特権的な作家の視点も、それは一つの意見として尊重するけれど、絶対ではない、ということでしょうか。
何を残して、何を残さないか
松永:賞を出すというのは公共的な価値づけだと思いますが、そうした公共性がどこまで必要なのかは問題としてあると思います。それは保存の話にも関わっていて、例えば国宝や重要文化財はわかりやすく選択的な保存ですが、価値の選別が前提としてあるわけですね。全部残せるならいいけど一部を選択して残す場合は、やっぱり何らかの価値づけが必要で、しかもそこに公共性が求められる。
久保田:アーカイブには、「何をアーカイブしないか」という問題が常につきまとってくる。そのことに対して常に自覚的でないと、アーカイブ自体がポリティカルなものになってしまう。
松永:ある程度みんなが共有できるような歴史はありえると思います。それは当然複数あってもいいんですが、これとこれを残す理由と正当性がちゃんと言えるような物語を作っていくという方向はアリかなと思っています。
久保田:なぜこれが残されたのかの、「なぜ」の部分が書かれていれば、そのなぜを疑うことも可能になる。そういうことは大事ですよね。状態を遡れるようなアーカイブにしていくというのは、重要なやり方だと思います。
松永:ただ、オルタナティブな物語の可能性を残すために、やっぱり全部残していかないといけない気もするんです。選別されたかたちで一部のものしか残らないと、やっぱり特定の物語によって特権化されたものだけが残るってことになってしまう。やはりそれはまずい気がしますね。リソース的に難しいでしょうけど。
久保田:最近話題のブロックチェーン技術も、ある意味すべての履歴を残すことなので、その仕組みがアーカイブにも使えるかもしれません。作品のあらゆる来歴が少なくともデジタルデータとしては残っていく。ビットコインの面白いところは、今まで法律や契約で縛ってきたかなりの部分を技術で実装しようとしたからで、モラルや規範のある部分を適切に技術化していくことによって、社会の暴走とか分断を、少しでも食い止めることができるように思います。
高橋:最後に皆様から一言お願いします。
鴫原:アーケードゲームは、どんどん劣化してしまい、劣化を防ぐためのメンテナンス技術はかなり熟練の技で、長年のゲームセンター店員やオペレーターないしはディストリビューター、業者がノウハウを持っています。その知見を何らかのかたちでデーターベースにしておいて恒久的にメンテナンスができるような仕組み作りができたらいいなと思います。あと、アーケードゲームの配線図もスキャンデータでとっておいてトラブルが起きたときにすぐ誰でも見て参照できるようにするとか、そういったシステムができるといいなと個人的に思っています。その辺、私もゲームセンターに勤めていた経験がありますので、その経験もフィードバックしつつアーカイビングのお手伝いをちょっとでもできればなと思っております。
田中:インタラクションを鑑賞することについてもっとお話したかったです。自分のダンスのプロジェクトでは、一度の公演で4度同じダンスを上演します。繰り返し見るってすごく大事なことだと思うんです。どういう状況で見るのか、誰と見るのか、環境や条件で鑑賞や作品の受容は本来まったく変わってくるものなんですよね。そこに面白さを感じているので、何回も見るということを自分の活動では軸の一つにしています。
能楽師の安田登さんが、「能は100回見てようやく『少し分かったかもしれない』と思うものだ」とお話をされていて。ただ、みんな新作が好きだし、新しい体験を求める傾向があり、インタラクティブ作品はそうした恩恵を受けている分野かもしれません。しかし、その新しい一回きりの出会いとはまた別の面白さが、その作品に何回も触れることで生まれうるということを、多くの人が感じられるような機会を作りたいなと思っていて。それが結果的にアーカイブの価値を伝えることに繋がるんじゃないかなとも思うんですよね。
個人が一回性だけを求めていく社会では、アーカイブは必要とされないだろうし。そうしたことを自分のできることとして考えていきたいなと思います。
松永:文化行政には、文化についての哲学みたいなのものが必須だと思っています。そもそも文化とは何か、なぜそれを残していかないといけないのか、具体的にどの文化を残すのか、なぜ他の文化ではなくその文化を残さないといけないのか。そういう問いにちゃんと答えられるような考え方を持っておくべきだと思います。実際に中で仕事をしている人たちは持っているのかもしれないですが、もしあるのであれば明示すべきだと思います。
なぜ残すのかというときに、文化というのは価値があるものだという前提があると思いますが、その価値とはどういう価値なのか。公共性について言えば、例えば国として残すということがなぜ必要なのか。NPOとか個々の企業に任せる、あるいはファンの集団に任せるという選択もありえるはずですが、にもかかわらず公共事業として何らかの支援をする理由は何なのか。文化の歴史を構築することにどんな意味があるのか。どれも文化行政に関わる人たちが議論すべき論点だと思います。
今回、いろんな立場からそうした話が出たので、非常にいい機会でした。今後もこうしたトピックについて議論していくことが大事かなと思いました。
久保田:アーカイブはきちんと作れば作るほど重要なものになるけど危険なものにもなりうるわけで、だからこそ、なぜそうしたのかということが明示的になっていないと、暗黙のうちに価値の固着化につながってしまう。でもアーカイブがないと、そうした議論すらできなくなってしまうから、さらに刹那的になるわけですね。
SNSのようなフロー情報しか見なくなると、大きな流れが見えにくくなってしまうと思うので、反復の仕方やストックのための議論をしていくことが重要だと思いました。それこそゲームならプレイ動画かもしれないし、インタラクションをどのようにストックしていくのか、ということかもしれない。
今日もいろんな意見を伺いました。今後もこうしたハイブリットな場で、いろいろ考え続けていきたいなと思いました。
執筆・編集
山内康裕
撮影
坂本麻人(Whole Universe)
会場協力
キハラ株式会社