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 日本の実験映画を代表する作家の一人、伊藤高志のほぼ全作品を一挙上映する個展が開催された。今年、ドイツのオーバーハウゼン国際短編映画祭にて開催された伊藤の個展のプログラムを踏襲した内容となっており、国内での一挙上映は初の試みである。開催場所となったLumen galleryは、今年4月に、京都在住の映像作家や現代美術家によって開設された、映像専門のアートギャラリーである。個人映画・実験映画に特化したシネマテーク活動を展開しており、今回の伊藤高志映像個展は、かわなかのぶひろ映像個展、袴田浩之映像個展に続く、ルーメンシネマテーク第3弾として開催された。

 上映プログラムは年代順に構成されており、1990年代半ばを境に、AとBの2つに分けられている。Aプログラムは、学生時代の8mm映画に始まり、《SPACY》《BOX》《THUNDER》など、80年代〜90年代半ばに制作された、写真のコマ撮り撮影によるアニメーション作品を中心とした内容である。一方、Bプログラムは、90年代後半〜2014年の最新作に至るまでの中編作品で構成され、いわゆる実験映画的な手法から距離を取りつつ、人物の実写によって不条理な心理的世界を描いた内容が多い。両プログラム合わせて23作品計212分が上映され、伊藤の約40年間に及ぶ軌跡を振り返る貴重な機会となった。

Aプログラム(《能》1977年〜《ZONE》1996年、計17作品105分):映画の構造に自己言及する、視覚的実験

 Aプログラムの作品群における伊藤の関心は、一貫して「写真(静止画)と映画(イメージの運動)」の往還にあると言える。代表作の一つである《SPACY》(1981年)は、「いくつもの立て看板が並ぶ無人の体育館」という閉鎖的空間を舞台に、眩暈のような視覚的興奮をもたらす映像作品である。立て看板にカメラが近づくと、そこには同じ体育館を写した写真が貼られており、さらにカメラが接近すると、画面内の写真の矩形のフレームと映像のスクリーンとが重なり合った瞬間、両者の境目が融解し、「写真」の中に次々と入り込んでいくような錯覚に頭がクラクラする。無限に続く入れ子状の運動が、猛スピードで反復されることで、現実の空間とイメージ、虚実の境目が混濁し、空間の奥行感が麻痺するかのような魔術的効果がもたらされるのだ。この効果は、少しずつ距離やアングルを変えて撮影した写真をコマ撮りしてアニメーションをつくるという制作方法により、滑らかさを欠いた不連続なイメージの運動が提示されることで、いっそう加速される。そうした眩暈のような視覚的興奮をもたらす一方で、《SPACY》は、映画の原理的構造に対する自己言及性を備えた知的な作品でもある。画面内に「写真」のフレームが登場し、映像のスクリーンとの融合を見せることで、「これは写真のコマ撮りによるアニメーションであり、映画とは1秒24コマの静止画の連続である」ことを自己言及的に露呈させているのだ。そうした自己言及性のきわめつけが、ラストに登場する立て看板に映った、「カメラを構えるセルフポートレート写真」だろう。

 写真のコマ撮りアニメーションにおける空間の変容や歪曲は、《SPACY》以降も様々な手法で試みられ、例えば《DRILL》(1983年)では、画面中央の柱を軸に、左右で少しずつアングルを変えた写真が使用されることで、空間の遠近感が徐々にねじれていく。あるいは《悪魔の回路図》(1988年)では、池袋のサンシャイン60ビルの回りをカメラとともに高速回転しているような運動感覚が擬似的に体験される。こうした「日常的なものが不気味なものへと変容する」感覚は、プライベートな写真を素材に使ったり、自身の家族を被写体とした作品群にも通底している。

 歪曲、眩暈、遠近感の撹乱、虚実の境目の混乱、動かないはずのものが動き出すこと、その幻視。伊藤の作品は、そうした不穏さや亡霊的な気配に満ちている。「映画は1秒間に24回の真実、あるいは死」とはゴダールの言だが、少しずつ距離やアングルを変えて撮影した写真をコマ撮りし、1秒24コマの静止画からなるアニメーションとして再生することで、時間を凍結させられ、「写真」の中でいったん「死」を与えられて硬直したイメージが、擬似的な再生を迎えるのだ。であるならば、そうした伊藤の映像作品の中に、「ゴースト」的なイメージが繰り返し登場することは、ある意味当然と言えるだろう。《THUNDER》(1982年)や《GRIM》(1985年)では、16mmカメラを1コマずつ長時間露光するバルブ撮影という撮影方法を用いることで、鬼火やエクトプラズマのような発光体の軌跡がスクリーン上を自在に駈け廻り、家具や日用品はポルターガイストのように振動し発光し続け、平凡なアパートの室内が異形の蠢く異界へと変貌していく。

Bプログラム(《ギ・装置M》1996年〜《最後の天使》2014年、計6作品107分):人物の実写による、不条理な心理的世界の表現

 Bプログラムの作品群では、写真のコマ撮りアニメーションの実験的手法から距離を取り、美術作家の森村泰昌やコンテンポラリーダンサーなど、独特の身体性を備えた人物を被写体とした実写によって、不条理で狂気じみた心理的世界の表現へと移行していく。だが、今回の個展で両プログラムを通覧して感じたのは、写真のコマ撮り/実写、映画の視覚的構造への自己言及/ストーリー性や心理的世界、8mmや16mmフィルム/ヴィデオ/DV/BDといったメディアの違い、など様々な相違はありつつも、両プログラムを架橋する共通性である。それは、上述のような、生と死の境界が曖昧になり、両者が重なり合って存在する幻視の世界である。

 Bプログラムの中編映像には、背後霊のように変質的なまでにつきまとい、ファインダー越しに相手を見つめ続ける尾行者や窃視者がしばしば登場する。ストーリーの進行とともに、見る者/見られる者、自己/他者、死者/生者、現実世界/妄想の境界が曖昧に溶解していく。例えば、《最後の天使》(2014年)は、銃を持った男につきまとわれる女、一人暮らしの女に変質的に執着する女という、2組のカップルの間に流れる不穏な時間を同時進行的に紡いでいく。ラストでそれぞれに訪れる衝撃的な「抱擁」は、暴力と視線の行使者の反転とともに、自己と他者の入れ替わりを暗示するが、ここで「乗っ取る」存在が、変質的な尾行者なのか、過去の自分という分身的な存在なのか、妄想の中の出来事なのか判然としない。あるいは《静かな一日・完全版》(2002年)は、自分の「死」を演じた写真を撮り続けることで、自殺願望の成就を(繰り返し、だが擬似的に)味わう少女の物語である。

 また、そうした日常が静かに崩壊していくような感覚は、出演者の身体性によるところも大きい。ここではコマ撮りされた写真の連続/不連続が視覚的にもたらす振動ではなく、ゴミ捨て場やひとけのない河原といった、都市の中で見捨てられた場に佇むダンサーの身体が微細に震え、空間の中に振動や亀裂をもたらしていく。とりわけ、《甘い生活》(2010年)で喪服を着て街を徘徊する女(寺田みさこ)は、地霊のように佇みながら、手だけを虚ろに振動させ、空間に溶け込みつつ異物としての身体を生きるという立ち方が強い印象を残した。

映像メディア(史)の内包

 今回の個展は、「年代順に作品を上映する」という回顧形式であったが、同時に映像メディアの推移や発展史も含み込むものでもあった(これは、フィルムで制作された作品はフィルムで上映するというように、制作当時のメディアに忠実な上映であったこととも大きく関係している)。

 また、「年代順の回顧展」という枠組みが内包するメディア史のみならず、伊藤作品自体が映像メディアそのものへの自己言及を行っていることも特徴の一つとして挙げられる。《SPACY》や《WALL》(1987年)における写真のプリントの被写体化に加え、一眼レフや8mmカメラなどの撮影機材、アニメーション撮影用の作業台などがしばしば画面に登場し、「撮られて編集されたイメージを見る」体験についての再認と再考を絶えず迫ってくるのである。

撮影素材と機材の展示

 上映に加えて、隣接したGalleryMainでは、撮影素材と機材の展示も行われた。写真を一枚ずつ台紙に貼り付けた撮影用スチールの実物は、パラパラ漫画のように手でめくって見ることができる。また、複数の写真を貼り合わせることで空間のパースが歪んで見えるスチールや、蝶番のように動く撮影用の台なども展示された。CGや特殊効果を一切使わずに、魔術的な映像が気の遠くなるような労力と手作業によって生み出されていたことがよく分かる展示だった。

■開催情報

「伊藤高志映像個展」

会期:2015/10/29〜11/01

会場:Lumen gallery

(高嶋慈)