時は1996年、「The Death of Computer Art(コンピュータアートの死)」という過激な題名の文書が発表された。その影響は極めて大きかった。「デュシャンランド(Duchamp-land:現代アートの巨匠Marcel Duchamp)とチューリングランド(Turing-land:現在のコンピュータの理論的な原型を作った数学者Alan Turing)の間に、コンバージェンスは起こらないだろう」という見解が提示されていたからである。

デュシャンランドとチューリングランドとは、ディーズニーランドをもじった皮肉な表現であり、それぞれ、現代アートの世界とコンピュータアートの後継者としてのメディアアートの世界を例える言葉である。この見解によると、ISEA、Ars Electronica、SIGGRAPHのアートショーなどを舞台とするチューリングランドに期待してはいけないのは、デュシャンランドで受け入れられるような「アート」である。なぜならデュシャンランドが求めるのは「アート」であり、ニューメディアの新しい美学的可能性に関する「リサーチ」ではないため、両者の間にコンバージェンスは起こらないはずだと、著者は最後にもう一度釘を打つ。

実はこの著者は、『The Language of New Media』(The MIT Press, 2001)をはじめとする著作活動で、メディア理論に非常に高い影響力を持っている研究者のレフ・マノヴィッチ(Lev Manovich)氏だった。

それから10余年後、マノヴィッチ氏に代表されるような見解に対する反論を全面に披露したのが、『Rethinking Curating: Art after New Media』(Beryl Graham and Sarah Cook, The MIT Press, 2010)である。著者は、以前、このメディア芸術カレントコンテンツにて紹介された『A Brief History of Curating New Media Art:』と『A Brief History of Working with New Media Art』(両方ともSarah Cook, Beryl Graham, Verina Gfader and Alex Lapp編, The Green Box, 2010)を発表した研究者・キュレータである。(それぞれ、キュレータとアーティストのインタビュー集)タイトルとインタビュー集という形式からも伺えるように、これらの書籍が現代美術の話題の書籍『A Brief History of Curating』(Lucy Lippard著, Hans Urlich Obrist編, JRP|Ringier, 2008)を意識していることとは対照的に、『Rethinking Curating: Art after New Media』は、より賢い戦略に基づいているようにみえる。その理由は、アートに関するものでも、ニューメディアに関するものでも、ニューメディアアートのキュレーションに関するものでもなく、ニューメディア以後のアートをキュレーションすること、すなわち、キュレーションの再考に関する本であるという観点から書かれたからである。

過去、一部のメディアアートが、主流アート界のアンチテーゼとしての立場をとったり、「次」、あるいは「未来」のアートを自ら名乗ったりしたことに対して、メディアアートの歴史と現在が、社会文化という広い文脈の中で、徐々に現代アートの展示と企画に及ばしてきた影響を丁寧に検証していくことは現実的かつ生産的な作業だといえよう。

いま顧みると、メディアアートの歴史は、美術館という制度との関係からするとあまり誇れるものではないかもしれない。メディアアートを歴史化していく中では欠かせない伝説的な展覧会、アメリカ・ユダヤ美術館での「Software」展(1970)の直後に、ディレクターが職を失ったことが象徴的な例である。残念なことに、2000年代に入ってからも事情はあまり変わっていないようで、2001年のアメリカ・サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA)の「010101」展、2003年のアメリカのウォカー・アート・センターの「Translocations」展、2008年イギリスICAの「Live and New Media Art」の担当者たちは、職業的な不利に出会うことになったのである。

『Rethinking Curating: Art after New Media』では、これらの事例を挙げながら、歴史的には、メディアアートのキュレータたちは心ならずも補助的な(involuntarily adjunct)立場になるしかなかったと指摘している。実際、フランス、ポンピドゥーセンターでの「Les Immateriaux(非物質)」展(1984)のジャン=フランソワ・リオタール(Jean-Francois Lyotard)氏、イギリスICAでの「Cybernetic Serendipity」展(1968)のヤシャ・ライハート(Jasia Reichardt)氏、そして、「Software」展(1970)のジャック・バンーハム(Jack Burnham)氏、三人とも客員キュレータに近い立場だったのである。

ところが、この事実を、少し肯定的に捉え直すことはできないだろうか。すなわち、メディアアートの本質的な力というのは、芸術を取り巻く既成制度のような内側からの働きかけではなく、その外側からのベクトルで主流芸術に向かって働きかけてきた点だと理解することはできないだろうか。またこの異質な力が、長い歴史と堅硬な経済構造を持っているが故に自己完結しがちな既成制度に、社会全般との接点を提供し、意味深い刺激を与えてきたと、そしてこれからもそうしていくだろうと考えることはできないだろうか。

当然ながら、今後、この関係性をより発展的なものにしていくためには、「デュシャンランド」と「チューリングランド」の間——かつてニューメディアと呼ばれたアートによって変わってきた地形、あるいは両者の間に「共有された場」を少しずつ広げていくための努力が必要であろう。科学技術史をもうひとつの軸とするメディアアートの歴史は必然的に学際的であり、そのため、芸術批評の語彙では語りきれない領域まで広がっているからである。そのようなメディアアートを現代アートのコンテクストとの接続させるためには、情報の交換と共有を通した相互理解が先行しなければならない。著者たちが、ホィットニー美術館のキュレータ(adjunct curator)のクリスティアンヌ・ポール(Christiane Paul)氏の言葉を借りて、今後の課題として強調している「翻訳」作業とは、このことを意味していたのではないかと思う。

書籍のウェブページ

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