「美術フォーラム21」2011年VOL.24では、ジャクリーヌ・ベルント氏(京都精華大学教授)の編集により、「漫画とマンガ、そして芸術」という特集が組まれている。
「疎遠な関係にある『マンガ研究』と『芸術研究』を交流させること」をめざし、マンガ、美術、国文学など、さまざまな分野の専門家があつめられており、「マンガ」と「美術」の関係を再考するための、刺激的な論考が数多く掲載されている。
巻頭の諸論考では、「絵巻」「奈良絵本」「黄表紙」など、「マンガ」の祖先としばしばみなされてきたジャンルについて、国文学の専門家らがもう一度その関係を洗いなおしたり、北沢楽天という、これまた「マンガの祖」のひとりとして言及されることのある作家について、その「漫画」という言葉のつかい方が詳細に辿りなおされたりする。
もはや「芸術」を参照する必要性を失った「マンガ」の側からではなく、「芸術」あるいは「美術」の側からのこうした参照は、自らのよって立つ制度や共同体への反省をふくまざるをえないだろう。
その意味で、くしくもこの特集と同時期に回顧展が開催されている美術批評家の石子順造は、その活躍した時代が、60年代後半から70年代という「マンガ」が「芸術」を参照する必要性がまだあった時代と重なる点もふくめて、もう一度「再発見」される価値のある批評家だと言える。
その石子を論じた加冶屋健司氏の「石子順造の知覚的転回——マンガ批評を中心に」や、石子と深い関係にあったマンガ家、つげ義春をあつかった吉岡洋氏の「自生する前衛——つげ義春をめぐって」は、制度としての「芸術」、あるいは制度内の制度としての「メディア芸術」を考えるために必読の論考だ。
あるいは、高橋瑞木氏の「マンガ展の困難について」と金澤韻氏の「美術館での漫画展——『横山裕一 ネオ漫画の全記録:わたしは時間を描いている』展についてのレポート」からは、制度としての「芸術」をささえる基盤のひとつとしての「美術館」が、その枠内で「マンガ」をあつかうことで生まれた、「美術館/展示」というシステムにたいしての内省を読みとることもできるだろう。
そして、先日紹介した『マンガの遺伝子』の一章(第九章 マンガ家マンガは果てしない!)とおなじテーマをあつかっている橋本順光氏の「『芸術家マンガ』試論——マンガの自意識と芸術家像の変容」は、「芸術」の制度についてだけでなく、「マンガ」という制度の成立を考えるうえで興味深い。
「マンガ」が制度としての「芸術」を参照する必要性がなくなったのは、「マンガ」という制度が確立したからにほかならない。しばしば「マンガ」の側でも紛糾する「起源神話」の問題は、制度という問題を抜きにしては語れないだろう。その意味で、本特集は「マンガ」という制度を考えるためにも必読である。
そのほかにも、実作者の側から証言する竹宮惠子氏の「一九七〇年代の少女漫画における芸術性への志向とその目的」や、フランスにおけるマンガ(バンド・デシネ)の制度成立を辿る古永真一氏の「一九六〇年代フランスのマンガ文化——第九芸術への道」、あるいはアニメーション論、作家論など、とても読み応えのある編集になっている。
「美術フォーラム21 特集:漫画とマンガ、そして芸術」
http://www1.odn.ne.jp/daigo-shobo/contents/bf21.html