東京・国立新美術館での『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲーム』展開催中に、JAniCA(日本アニメーター・演出協会)主催の三つのスペシャル・トークイベントが京都精華大学の協力で行われた。その中から第2回、去る8月14日に国立新美術館講堂で行われた『ニッポンのマンガ*アニメ*ゲームの源流をさぐる-サブカル*オタクのpre1989-』の内容を報告したい。
(写真左・すがやみつる氏、右・青柳誠氏)
「オタク的カルチャーの発展をマンガ・アニメからSF・ファンダム・パソコン・ゲーム・電子メディアにまで視野を広げ、その源流に迫る」ことを趣旨とした第2回のゲストは、共に1950年生まれの二人。人気マンガ『ゲームセンターあらし』の作者として知られるすがやみつる氏(京都精華大学マンガ学部教員)が進行役を務め、さらに「石ノ森章太郎ファンクラブ」会長を長く務める青柳誠氏がスペシャルゲストとして迎えられた。
どちらも『仮面ライダー』の作者として知られる故・石ノ森章太郎を師としてマンガの道に分け入り、すがや氏は「1965年発売の石ノ森先生の『マンガ家入門』を読んで、マンガ家になることを決意」。その後、すがや氏はプロ作家を目指す同人たちのマンガ創作サークル「ミュータント・プロ」に参加し、肉筆マンガ原稿を製本した同人誌『墨汁三滴』を作って、仲間内で郵送・回覧していたという。これはかつて石ノ森章太郎が結成したマンガ創作サークル「東日本漫画研究会」の肉筆同人誌『墨汁一滴』(1953年創刊)に習ったもので、印刷や製本が高かった当時は、肉筆同人誌が主流だったとのことである。また「ミュータント・プロ」からはすがや氏だけでなく河あきら、ひおあきら、細井ゆうじら、多くのメンバーが人気プロ作家となって巣立っていったが、『墨汁三滴』が1966年に創刊されたマンガ専門誌『COM』で「第1回同人誌特別奨励賞」を受賞したことからも、その実力のほどをうかがうことができる。
以後『スター・ウォーズ』が日本公開された1978年ごろ、アマチュア無線をやっていたすがや氏は高校時代からの友人の青柳氏に誘われ、SFテレビドラマ『スタートレック』のテレビゲームを楽しむためにマイコン(=最初期のパソコン)を購入。そこから「だんだんとパソコンとゲームのほうに道を踏み外し、マンガから遠ざかってしまった」そうだが、後に『ゲームセンターあらし』というヒット作を生むことになったのも、パソコンとゲームに関わればこそである。
一方青柳氏は「高校に入ってそれまで(親から)禁止されていたマンガが読めるようになり、手に取った『COM』の創刊2号で、石ノ森先生の『ジュン』が全部横割りのコマで構成されてい」た斬新さに驚き、以来石ノ森作品の大ファンになったという。そのころ東京・新宿の喫茶店「コボタン」で「石森章太郎原画展」が開かれたことから、そこに通ううちに同年齢の仲間ができ、さらに石ノ森章太郎邸を訪問する機会を得て、「生原稿を見せてもらううちに、その整理を兼ねるようにな」ったと語る青柳氏。そんないきさつを経て、まだマンガ家のファンクラブというものが珍しかった1968年に「石森章太郎ファンクラブ」』を設立したそうである。
また中学生の時に「日本SF大会に参加して、プロ作家とファンが直に触れあえるコンベンション(=大会)の面白さを知」っていた青柳氏は、SF大会を参考にマンガファンのコンベンション「第1回漫画大会」を、1972年に東京の四谷公会堂で開催。自分たちがその「第2回か第3回で『宇宙戦艦ヤマト』乗組員の制服を真似て着たのが、コスプレの先駆けだと自負しています」。さらに「漫画大会」では会場の一角でマンガ同人誌の即売会や交換会が行われ、この即売会が今あるマンガ同人誌即売会「コミックマーケット」に引き継がれることになったのだとか。
「再来年はファンクラブ結成50周年、石ノ森先生生誕80周年となるので、またなにかやろうと思っています」。今もファン活動の最前線に立つ青柳氏は「継続は力なり」と何度も語り、すがや氏との熱いトークに花を咲かせた。
(写真左・すがやみつる氏、右・青柳誠氏)