本年度3回目となる「文化庁メディア芸術祭を語る」。今回はアート部門審査委員の三輪眞弘さんと、エンターテインメント部門審査委員の久保田晃弘さんをお招きしました。コンピュータによって計算された手順を人間が演奏する「逆シミュレーション音楽」を提唱し、「人間が演奏するもの=音楽」という既存の音楽史観からの飛躍を目指す、作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授の三輪さん。人工衛星やデジタル・ファブリケーションなど、最先端の技術・設備をクリエイターたちが広く共有し、これからの表現を目指す、アーティスト/多摩美術大学教授の久保田さん。テクノロジーやアートの歴史を踏まえ、その領域拡張を目指すお二人に、エンターテインメントとアートの領域の近さと遠さ、今年のメディア芸術祭の受賞作品についてなどお話いただきました。

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[プロフィール]

三輪 眞弘(作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授)
1958年生まれ。国立ベルリン芸術大学、国立ロベルト・シューマン音楽大学で作曲を学ぶ。現在、情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授。コンピュータを用いたアルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる手法で数多くの作品を発表。オペラ『新しい時代』、オーケストラのための『村松ギヤ・エンジンによるボレロ』、近著『三輪眞弘音楽藝術 全思考 一九九八 - 二○一○』(アルテスパブリッシング、2010)や、CD『村松ギヤ(春の祭典)』(2012)などの発表、「フォルマント兄弟」としての講演やイヴェントなど、活動は多岐にわたる。


久保田 晃弘(アーティスト/多摩美術大学教授)
1960年、大阪府生まれ。多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授。東京大学大学院工学系研究科博士課程修了。工学博士。衛星芸術(artsat.jp)、バイオアート(bioart.jp)、デジタル・ファブリケーション(fablabjapan.org)、自作楽器によるサウンド・パフォーマンス(hemokosa.com)など、さまざまな領域を横断・結合するハイブリッドな創作の世界を開拓中。主な著書に『消えゆくコンピュータ』(岩波書店、1999)、『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』(共著、大村書店、2001)、『FORM+CODE──デザイン/アート/建築における、かたちとコード』(ビー・エヌ・エヌ新社、2011)、『ビジュアル・コンプレキシティ──情報パターンのマッピング』(監訳、ビー・エヌ・エヌ新社、2012)、『ジェネラティブ・アート―Processingによる実践ガイド』(BNN新社、監訳、2012)、『Handmade Electronic Music―手作り電子回路から生まれる音と音楽』(オライリー・ジャパン、監訳、2013)などがある。


 

アートとエンターテインメントの違いは?

久保田
研究会などでご一緒することは何度もありましたが、パブリックな場でお話するのは、じつは初めてなんですよね。

三輪
ドキドキしますよね(笑)。じつは久保田さんと先に打ち合わせをしておいたほうがよかったかな、なんて思ってるんですよ。というのは、久保田さんはエンターテインメント部門の審査委員を担当されていて、僕はアート部門の審査委員をしています。毎年言われていることですが、2つの部門の境界ってわかりにくいですよね。応募する人も、どちらに応募しようか悩むと思うんです。ですから、久保田さんにエンターテインメント部門の審査基準をお聞きしたくて。

久保田
それは確かにお互いに気になるところですよね(笑)。

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三輪
今年で言うと、もっと楽しさ満載のチョイスになるのだろうかと思っていたら、かなりシリアスな作品がエンターテインメント部門の受賞作品に選ばれている。一方、アート部門には大掛かりなプロジェクトの応募が多くあったんですが、「これはエンターテインメント部門で審査されるべきではないか」と思うものもあって。

久保田
これは審査委員の総意ではなく僕個人の意見ですが、いつも考えているのは、「面白い嘘よりつまらない現実を」ということなんです。最近『ゼロ・グラビティ』という映画が話題になりました。あれは現実には起き得ないことも多く描かれているけれど、多くの人がリアリティを感じていますよね。僕はそこにアートとエンターテインメントの境界を考える一つの視点があると思っています。もちろんそれは、面白い嘘=エンターテインメント、つまらない現実=アート、といった単純なものではなくて、その狭間を問うこととが重要だと思います。

三輪
狭間ですか。

久保田
エンターテインメント部門で大賞を獲った「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」は、F1ドライバーの故アイルトン・セナが樹立した(当時の)世界最速の走行データをベースに、実際に鈴鹿サーキットで光と音を使って再現するというものですよね。光と音という虚構を使いつつも、それが見ている人にリアリティのある感動を引き起こす。そこには嘘と現実の狭間がある。たぶん、このプロジェクトを行ったクリエイターたちは、けっしてアート作品を作ろうとは思っていないと思うんですが、そこにはアートとエンターテインメントのどちらの要素も含まれていると思います。

三輪
そうですね。

久保田
しかしあえて言えば、アートは現実に属するものだと僕は思う。だから必ずしも面白くある必要はない。でも最近は、メディアアートに対して魔法のような楽しさを求めるような空気が強くあります。でも、東日本大震災が起きてアートはその存在理由や社会的役割を問われたわけですよね。そのなかで、虚構ではなく、もう一度人間のリアリティや表現を考えてみようという動きが起きたことは大事だと思う。面白い/楽しいという軸ではなく、アートが現実に対してどういうふうにアプローチをしていくか。それが重要です。

三輪
昔はつかのまの夢を見るという要素が芸術に含まれていましたよね。でも、テクノロジーでいくらでもそれが増幅できるようになると、僕たち自身「はたしてそれでいいのか?」という疑問を持つようになる。アートに足りないものは、夢のような世界への没入ではなく、むしろその逆にある現実なんだろうと思います。

久保田
メディアアートが現れはじめた頃と違って、今はインタラクティブな映像効果を使ったパブリックアートなど、日常生活の至るところにエンターテインメント的なものが溢れているじゃないですか。昔だったら、コンサートに行くことで日常と違う貴重な体験ができたのが、今ではどこにいても娯楽が降り注いでくるから、受け手は「もうやめて!」っていいたくなる。そうした状況で、エンターテインメント部門は何と直面しなきゃいけないかっていうことは、今回の審査でも非常に考えましたね。


キーワードは「データ」

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三輪
今回の受賞作を見ると、その思いが伝わってきますよ。久保田さんは、あえてアートとエンターテインメントを分けようとはしていないような印象も受けました。

久保田
エンターテインメントの状況がこの10年間でずいぶん変わりましたから、そのなかで近づいたり離れたりしてると思います。今回の審査で自分のなかでキーワードにしていたのは「データ」なんです。エンターテインメント部門で優秀賞の「スポーツタイムマシン」は、自分が走る様子を記録した3Dデータを使って、親子や動物と競争できる。スマートフォンが普及したことで、さまざまな活動のデータを記録することのできる社会環境になりましたが、それをエモーショナルな部分にうまく転化してるという意味では、すごく重要な作品だと思います。データに対してどういうアプローチをとっていくかというのは、ひょっとするとメディア芸術よりも広い、今の時代を考えるうえでのキーワードかもしれません。アメリカのように国をあげてどんどんデータを使おう、逆にヨーロッパであれば個人のプライバシーは守るべきだ、といったいろんな意見が世界中にあるわけで、そういうリアリティも考えていかないといけないですね。

三輪
かつてない規模に膨れ上がったデータやアーカイブが世界に対する僕らの見方や、過去から未来へと続く時間を激しく揺さぶるわけですよね。

久保田
エンターテインメント部門の大賞は、去年が「Perfume "Global Site Project"」
、一昨年は「SPACE BALLOON PROJECT」でした。両方とも「反魔法」というか、手の内をオープンにすることでリアリティを得ているわけです。今年の「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」も同じような視点を持っていますが、しかし今流行の「ビックデータ」とはちょっと違って、むしろ「超スモールデータ」を扱っている。たった1周の走行データに過ぎないわけですから。でも、それを加工したり拡張することで、大きなメディアに展開できるということを、すごくわかりやすく説明してくれている。そういったエンターテインメントとリアリティの関係を、メディア芸術祭ではメッセージとして強く発信していきたいと考えています。


アイルトン・セナがタイムレコードを記録したレースのデータを用い、それを光と音に抽象化した「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」は、抽象度の高さ、テーマのシンプルさという意味でアートが目指すものとも共通していると思います。三輪さんにお伺いしたいのですが、だとすると今回のアート部門ではどのような基準で受賞作を選んだのでしょうか。

三輪
例えば、研究所や団体の助成を受けた、すごく大掛かりで完成度の高い作品は、その作品がもたらす効果たるやすごいものですから、私たちを夢の世界に連れて行ってくれるようなものとなり、「なかなかこれは落とせないかも」と普通は考えると思います。ただ、僕個人のアートを考えるもう一つの基準として、「作品が誰に向いているのか?」というものがあります。ざっくり言ってしまうと、エンターテインメントは現在生きてる人に向けている。でも、アートの場合にはもういない人、まだいない人にも向けることができる。それは、アートの大きな特徴だと思うんです。

久保田
エンターテインメントって、今を生きている人を参照点や物差しにしている場合がほとんどですよね。そういう意味では、今回の大賞も含めた過去3回の受賞作が広告代理店なのは納得できます。でも、文化庁=国が文化を振興しようというときには、企業や集団だけではなく、個人の取り組みを積極的に評価していきたいと思っています。今回エンターテインメント部門優秀賞を獲得した池内啓人さんの「プラモデルによる空想具現化」や、宇治茶さんの「燃える仏像人間」はその良い例です。商業活動に直接寄与していなくても、DIY的なつくることの楽しさっていうのは、もう一つのエンターテインメントの源泉ですから。


アートは巨視的な視点を提示する


アート部門で優秀賞を獲得したジェームズ・ブライドルの「Dronestagram」も、データを扱った作品ですね。

三輪
無人爆撃機の情報をSNSに流して、衛星写真をアップし続けるという作品ですね。作者が何をどこまで考えているのかわからないですが、個人のアクティビティを通して社会を見ることを「これこそアートだ」と思ってくれてるんだったら、それは素晴らしいことだなと思います。砂漠のなかの村の風景が並んでるだけで、特にこれが美しいわけではないんですが、ここが爆撃されたという事実が実際に突きつけられた瞬間に見方ががらりと変わる。以前、結婚式の列が誤爆されたというニュースを見たことがありますが、勝手に想像をたくましくすると、そんな理不尽なことがあって、爆撃されてる人が「神よ助けて」と上を見上げた瞬間を、衛星がカメラで撮っていることもありえるかもしれない......そういう関係性を想起させる作品です。そこで生じる関係性って何なんだろうか、って僕自身はすごく考えさせられます。

久保田
さきほど三輪さんがおっしゃっていたように、アートが持っている力というのはある種の予言であったり予知であったり、未来の人に向けたメッセージであったり、極端に言うと人間以外のものに向けたメッセージでもあるんですよね。

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三輪
僕は、「Dronestagram」が無差別攻撃や抑圧的な政策を推し進めようとする国家権力に対する批判だけを目的にした作品には見えません。「人類、いったい何やってるんだよ」という、もっと巨視的な視点を感じます。

久保田
なるほど。カントの言う「真善美」ってそれぞれが独立で関係ないと思うんです。どういうことかというと、関係づけるのは我々の想像力の問題で、仮に見た目に美しい道具や作品であっても戦争の道具にも使われることもあるし、平和にも使われることもある。真が正しさだとしたら、じゃあ加工のない写真が本物で、Photoshopで加工した写真は偽物なのかって、そういう単純な話でもない。さらに善なんて、あらゆる人にとっての善なんてないわけでしょう。きわめて局所的なもの。

三輪
ドローン(無人機)を飛ばしてる国にとっては、爆撃することが善でしょうからね。

久保田
そう。いかにそういった概念が錯綜しているかっていうことを見せてくれるという意味で、すごく重要なメッセージを放っている作品だと思います。

三輪
ドローンみたいなテクノロジーが実用化して、政府によって利用されている現実がある一方、それに対して、ある志をもった個人がアートという手法で介入することができる。その両面的な事実がある世界に僕らは生きてるっていうことですよね。


そういう意味では、例えば「データ」を一つの接合面として、アートとエンターテインメントが接触しはじめているということでしょうか?

久保田
やはり今年は両者の差が非常になくなった年だと思います。今後、その境界がもっとなくなっていくかはわからないですけどね。ですが、審査委員としては享楽的側面よりも、批判的側面を大事にしたいと思っています。ですから「Sound of Honda / Ayrton Senna 1989」はアンチ・ビッグデータなんです。どこもかしこもビッグデータと言ってるけれども、情報の洪水に溺れずとも、スモールデータによっていろんな表現に展開したり、新しい感覚やエモーショナルなものを共有できるのではないか。いろんな意味を込めて同作を大賞に選んだつもりです。量ではない「何か」について、もう1回考えてみる。「ビックデータが社会を変える!」みたいなことをみんな一言で言っているけれども、やっぱりそれは安易だと思うんです。

三輪
アート部門における評価では、美術のコンテクストが生きていることが重要であると思います。特に大賞のカールステン・ニコライさんの「crt mgn」や、三原聡一郎さんの「 を超える為の余白」は機械そのものを象徴的に作品に用いることで、本来は見えないものを空間のなかで見えるようにしている。それは美術特有の表現のスタイルですよね。それを僕は古くさいものとは思ってなくて、大事にすべきものだと考えています。ビッグデータやスモールデータとはちょっと違うけれど、あの2つの作品は説得力がありました。


メディア芸術祭の意義とは?


今後、文化庁メディア芸術祭はどのような場になればいいとお二人は考えていますか?

三輪
この2、3年のアート部門を見ていると、展示の仕方を工夫したり、日本へ持って来ることが困難な大型作品を展示している点は素晴らしいと思います。国がやっていることの意義はそこにありますよね。

久保田
そのあたりは本当に大事で、例えば「Make:JAPAN(http://makezine.jp/)」が推し進めている個人のDIY文化が普及したのはよいことだけれども、大きな作品やプロジェクトを長い時間をかけて進めていくこともまた重要であり、そういったものに対してメディア芸術祭が展示の場を提供しているということにも意義があります。

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三輪
残念ながら僕自身は経験がないんだけど(笑)、予算をかけなきゃできないことってやっぱりありますよね。そういう機会があれば、アーティストはさまざまな実験もできるはず。ただ逆に言うと、ここ数年は予算規模の大きいプロジェクトが成立しにくい状況だったからか、そういうプロジェクトに対応できるような作家が本当に少なくて、既に決められたスケールでしか考えないっていう人が多いのも問題です。

久保田
エンターテインメントはそれこそ無尽蔵にものすごくお金をかけるますね。ジャニーズだったりAKBだったり。1990年代は化粧品の広告は事実上予算無限大と言われていました(笑)。1番良いクオリティを出すことが目的で、そのための予算はいくらでも用意できた。だからこそ、それに携った人たちは鍛えられたわけですよ。文化的な多様性や奥行きを出すためにはそういう場も必要だと思います。

三輪
メディア芸術祭による委嘱作品というものがあれば面白いんじゃないかな。賞とは別にね。

久保田
それはいいですね。それから僕はデザインを問う場をつくってほしいと思っています。SNSやネット上でのサービスが一般的になるなかで、家具や製品といった具体的なかたちのあるデザインでは把握できないものが生まれてきている。ロンドンのRCA(The Royal College of Art)が提唱している「クリティカル・デザイン」はその良い例で、ある種の社会に対する問題定義や批評的姿勢をデザインとしてとらえることで、これからの時代の行く先を指し示すようなヴィジョンを提示している。それはエンターテインメントでもあり、アートでもありうる。文化庁メディア芸術祭には、これまでにもシステムやプロジェクトを評価してきた歴史がありますから、その延長としてデザインを問うことができると思うんです。

 

メディア芸術祭公式WEBサイト ⇒ http://j-mediaarts.jp/
※公式WEBサイトでは歴代の受賞・選出された受賞作品・受賞者情報を一覧で見ることが出来ます。

聞き手・文章:島貫泰介

写真:御厨慎一郎