マンガ雑誌の編集者にマンガ雑誌のこれまでとこれからを伺う連載の第4回。前回に引き続き、「週刊少年ジャンプ」元編集長・茨木政彦(いばらき・まさひこ)の証言から、さまざまな層を惹きつける誌面づくりの秘密に迫る。

最大部数653万部を記録した「週刊少年ジャンプ」新年3・4合併号 1995年の復刻版
© 週刊少年ジャンプ1995年3・4合併号/集英社

女性読者は意識せず少年マンガの王道を

後半でも、快進撃の原動力をもう少し詳しく検証してみたい。

1980年代後半からの「週刊少年ジャンプ」は、読者層が大きく広がっていた。70年代には読者の大半を小中学校男子が占めていたのに対して、80年代半ば頃からは大人の読者が増えはじめる。とくに目立ったのは女性読者を着実に取り込んでいったことだった。編集部内に女性読者を獲得するための秘策はあったのか、茨木に訊いてみた。

「ないです。編集部内で女性読者が付いてきたな、と感じるようになったのは、やはり車田正美先生の『聖闘士星矢』(1986〜90)あたりからだったと思います。でも、女性読者を意識しようということはなかったですね。少年誌なんだから少年に向けてつくっている、という確固たる方針が常にあるんです。女性が読んでくださることは否定しないけど、女性を狙ってしまうのは違うんです。おそらく、『ジャンプ』(週刊少年ジャンプ)のマンガが好き、という女性は少年に向けてつくられている部分に共感して、そこに自分の好きなキャラクターを見出したりして楽しんでもらっているんじゃないでしょうか。だから、女性向けに変えてしまったらがっかりするんじゃないかな。女性が主人公ということでは、北条司先生の『キャッツ♥アイ』(1981〜84)がありましたけど、担当は『北斗の拳』の堀江さんですから、女性ウケを狙うことはない(笑)。ただ、それまでの『ジャンプ』の絵柄と比べると『キャッツ♥アイ』は斬新でしたね。絵柄で言うと同じ時期に鳥山先生や桂先生が出てきて、洗練されてきたとは感じていました。ぼくが子どもの頃読んだのは『サンデー』(週刊少年サンデー)や『マガジン』(週刊少年マガジン)だったので、はっきり言って『ジャンプ』の絵はごちゃごちゃして苦手だったんです(笑)。大学生の時も読んでなかったなあ……。たまたま絵のきれいな人たちが出てきたのであって、編集部が意図したことはないです。結果として女性も付いてきたということでしょう」

ギャグの新人を育てた功績

他誌と比較してギャグマンガに強いというのもこの時期の「週刊少年ジャンプ」の特徴だった。

かつて「週刊少年サンデー」が赤塚不二夫の『おそ松くん』(1962〜69)や藤子不二雄の『オバケのQ太郎』(1964〜66)で読者を拡大したように、「週刊少年チャンピオン」が、山上たつひこの『がきデカ』や鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』でトップに上り詰めたように、ギャグが強い少年週刊誌は読者をひきつける。

「週刊少年ジャンプ」のギャグマンガは、不動の4番バッター、秋本治の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』をはじめ、徳弘正也の『ジャングルの王者ターちゃん』(1988〜90)やえんどコイチの『ついでにとんちんかん』(1984、 85〜89)など常にギャグマンガのヒット作が4作程度ラインナップされ、新人も続々と登場していた。

「ぼくはギャグマンガ担当で集英社賞という社内の賞をもらったことがあるんです。賞状の文面を見ると“あなたは類い稀なるギャグセンスで――”って書いている(笑)。おもしろい描き手を見つけただけなんですけどね。ただ、『ジャンプ』本流はあくまでも『北斗の拳』だったり『DRAGON BALL』なんで、ギャグはある種の脇役なんです。その脇役を発掘する賞があった、というのは珍しかったかもしれないですね。手塚賞があって赤塚賞があったし、89年からは『GAGキング』(1989〜97)という賞を自分でつくりました。GAGキングは賞金50万円と本誌掲載確約でしたから、応募数もすごかった。その中から第1回のキングを獲得したのが漫★画太郎先生でした。ギャグだけの別冊も出していたんで、その意味では熱心だったんですね」

新人の応募者に本誌掲載を確約したり、新人だけで別冊をつくることもこの時代には珍しかったのだ。

「日本一売れていましたからそこで描きたいというモチベーションもあるんでしょうね。売れているから編集部として好きなことができるという強みもありました。それらが相乗効果になって、マンガ家をめざす人たちの中でも上質な人たちが集まってくれていたのでしょう。ただ、ギャグマンガは巻数もないし、部数もそれほどではないので、ギャグでほめられているぼくは異端でしたね。だから、担当した森田まさのり先生の『ろくでなしBLUES』(1988〜97)がヒットしたときはうれしかったですよ」

ついに650万部を突破

1990年には、井上雄彦の『SLAM DUNK』(1990〜96)、冨樫義博の『幽☆遊☆白書』(1990〜94)などがスタート。91年3・4号ではついに600万部の大台を超えて602万部を記録。全国紙で部数トップだった『読売新聞』を抜いたことが話題になった。93年には創刊25周年を迎え、これを記念したイベント「ジャンプマルチワールド」を7月28日から8月15日まで東京・文京区の東京ドーム・プリズムホールで開催。16万人を動員した。毎週600万部を印刷するために共同印刷がジャンプのための新工場を茨城県の五霞町に竣工させたこともニュースになった。

「94年の年末最終号で653万部の歴代最高部数になったんです。でも、ぼくらにはほとんど実感がなかったです。編集長は実感していたはずですが、何度も申し上げたようにぼくらは目の前の仕事を追うのに精一杯でしたから、頭のなかはそういうことじゃないんですね。共同印刷さんの新工場ができた時も担当営業の方からは“見学に来ませんか”と誘われましたが、忙しくて行ってないんですよ。なんであんなに売れていたんでしょうかねぇ。600万部のときには、部内で記念品が配られたように記憶しますけど、集英社としてのお祝いとかはなかったですね。あの時代の集英社にとっての本流は、女性誌だったり少女マンガの出版なんです。ぼくらはあくまでも脇役でした。今でこそ、『ジャンプ』出身の社長が生まれて、役員も『ジャンプ』出身者が多くなりましたけど、当時は胸を張って600万部と自慢できる雰囲気ではなかったんです」

バブル景気と呼ばれた80年代後半からの好景気のなか、女性向けファッション誌や若者向けの情報誌は広告収入だけで大きな黒字を出していた。マンガ雑誌は子どもが買える単価ということで数百円。その上、広告ページは表紙まわりやカラーページに限られていた。

マンガ雑誌やマンガの単行本が脚光を浴びるのは、出版不況が囁かれ、広告収入が減少しはじめてからなのだ。だからこそ、編集部に自由が許されたのかもしれないが。

メディアミックスも編集部主導

「週刊少年ジャンプ」はメディアミックスでも大きな成果を上げていた。

『北斗の拳』『DRAGON BALL』『ジャングルの王者ターちゃん』『SLAM DUNK』などが次々にテレビアニメやゲームになり、ヒットを連発。そこから生まれた新たなファンが雑誌や単行本の読者になっていく、という好循環が続いた。

「当時はアニメ化作品が強かったですね。今でもそういうところはあるんですけど、当時ほどではないです。アニメを見て本を読むという人が減っているのかもしれません。今もですけど、あの頃はいろんなところからアニメ化、ゲーム化の話が来たんです。まだ、ライツの専門部署なんてありませんから、編集部が勝手に話をお聞きしていたんです。もちろん、契約周りはライツの前身みたいな部署があって、そこがきちんとしていましたけど、基本は編集部の判断です。ぼくが編集部にいたときもある意味、勝手に決めていましたね。『ジャンプスクエア』の編集長時代、加藤和恵先生の『青の祓魔師』(2009〜)のアニメ化の話が決まったのは、どこかのパーティー会場ですよ。会場でお会いしたアニプレックスの方から“TBSのこの時間が空いているんだけどやらない”と言われて、10秒くらいで決まってしまったんです。契約どうのこうのは後回しでよかったんです。ぼくがのちにライツに移った時には逆にライツの権限が大きくなりましたけどね。今、あんなことをしている編集がいたら、ライツの担当として文句を言いますよ」

マンガのことをわかっているのはマンガ家の担当編集なのだから、これは正しい考え方だったのかもしれない。

「条件らしい条件といえば、連載開始から2年経っていること。2年だと単行本8冊くらい出ているからストーリーが足りなくなることもないでしょう。2年やったってことは人気もあるわけだから、アニメ化しても視聴率が取れる。スポンサーにも迷惑を掛けないですむ。視聴率が取れると本も売れる。明確なルールではないけど、連載後2年だけは暗黙のルールみたいになっていましたね。今はアニメ制作会社の制作スケジュールが2年先くらいまで埋まっていますから、早く決めないといけないんです。その上、マンガのヒット作が減っているから一作に集中するんですね。もうひとつ変わってきたのは、編集者もマンガ家さんもアニメに詳しくなって、アニメのクオリティ第一なんですよ。ぼくの立場としては、そういうことよりも長く放送してもらえるほうがありがたいんですけどね」

一番印象に残ったマンガ家は?

最後に、最高の10年間で最も記憶に残ったマンガ家について聞いてみた。

「個人的には森田まさのり先生、と言いたいところですが、やはり鳥山明先生でしょうね。いまだにアニメは人気が衰えないし、後進に与えた影響も大きいですよ。尾田栄一郎先生も岸本斉史先生も鳥山先生に憧れてマンガ家になったわけで、作品を超えた影響力で『ジャンプ』を牽引してくれた、と言ってもいいんじゃないでしょうか」

逆の視線で現状を見てみると、圧倒的な人気と影響力を持ったカリスマの不在が、今のマンガ界の停滞を生んでいるのかもしれない。


茨木政彦
1957年生まれ。1982年「週刊少年ジャンプ」編集部に配属。同誌8代目編集長、「ジャンプスクエア」創刊編集長などを経て、現在、集英社常務取締役と小学館集英社プロダクション取締役を兼務。

※発行部数は編集部調べ

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