今でこそ日本マンガは世界中で熱狂的なファンを獲得している。しかし、日本マンガの海外進出のきっかけが個人の情熱であったこと、その苦労の道のりをご存知だろうか。本コラムでは、海外コミックの翻訳や海外の日本マンガ事情に関する記事を執筆をする筆者が、日本マンガを海外に紹介した先人たちを取材し、知られざる日本マンガの国際化の一端を探る。

『MANGA』表紙

日本マンガをアメリカへ

日本マンガのアメリカにおける出版の歴史を考える時、その嚆矢は小学館が現地に子会社Viz Communicationsを設立して出版を開始した1987年と考えるのが定説である。Vizは日本の大手マンガ出版社が本格的にアメリカで出版を始めた最初の例であり、アメリカにおいて日本マンガを専門に売り出した最初の出版社である。
しかし、「本格的」な出版開始は1987年であったものの、実際には1987年以前からさまざまなかたちで日本マンガの出版は行われていた。
いくつか例を挙げてみると、中沢啓治による自身の原爆体験を描いた『はだしのゲン』と『おれは見た』がそれぞれ単行本(1978年~)やコミックブック(1982年)として出版されていたし、リイド社が現地販社を通さずに直接英語版『ゴルゴ13』単行本(1986年~)を出していたこともある。複数の作品を掲載するアンソロジー誌『Heavy Metal』や『Epic Illustrated』で他国の作品に混じって風忍、永井豪、石森章太郎(当時)等々の作品が個別に紹介されたこともあれば(1980年~)、英語での日本マンガ研究書の最初期の1冊であるフレデリック・ショット『MANGA! MANGA! The World of Japanese Comics』(1983年)では、作品自体の翻訳にかなりのページが割かれていた。
このように1987年以前、少ないながらも日本マンガがアメリカで出版されていたが、なかでも1冊、不思議な出版物がある。『MANGA』と題されたその1冊は、白黒とカラー両方の読切短編10本が掲載された88ページのアンソロジー。判型はアメリカのコミックスによくある「コミックブック(comic book)」と呼ばれる小冊子よりも大きく、「コミックマガジン (comic magazine)」と呼ばれるものに近い。記載されている版元のMetro Scope社の住所は日本だが、調べてみてもその会社の詳細はまったくわからない。出版年も載っていないので、いつ出たのか定かではなく、『Manga: The Complete Guide』(Del Rey、2007年)によると「1980年から1982年の間」、コミックス関連のウェブサイトなどでは「1980年から1982年」または「遅くとも1984」年などと推測されている(註1)。
一見して出版経緯がまったくわからない同書をさらに印象深いものにしているのは、その執筆陣の豪華さである。平田弘史、田森庸介、星野之宣、大友克洋、宮西計三、三山のぼる、福山庸治、生頼範義(おうらい・のりよし/イラスト)などのほか、表紙に空山基(はじめ)、裏表紙は平田弘史のイラストで、平田弘史イラストのカラーリング担当はおおやちき、とある。
背表紙には、同書が世界の読者に日本マンガを届ける最初の試みであることや、西洋における日本文化理解を深める手助けができる喜びが謳われており、このことからも、その製作意図が英語圏への日本マンガ紹介にあることは明らかだ。本の奥付にあたる箇所には、日本人の名前に並んで、アメリカのコミックス業界でアーティストやライターとして活動していた人物の名前も並ぶ。
1980年初頭という時期に、時代を先取りして日本マンガを「MANGA」というブランドのもとに売り出したこの『MANGA』アンソロジーは、いったいどのような経緯で出版されたのだろうか。
アメリカにおける日本マンガ流入史を調査してきた筆者にとって、同書は長い間謎のひとつだったが、この度、その編集を担当した向出雅一(むかいで・まさいち)氏に直接お話をうかがうことができた。
そこで当記事では、向出氏のお話をもとに、当時のアメリカと日本の両方の国のコミックス/マンガを巡る状況を背景に、同書がどのように出版されることになったのか、そしてどのように製作されたのかを明らかにしたい。そのためにまず、アメリカで出版された1冊のコミックス誌と向出氏の出会いまで遡ってみようと思う。(以下、敬称略)

『Star*Reach』

『MANGA』アンソロジーの編集長をつとめた向出雅一は、1952年東京生まれ。1970年代初頭、向出が大学生だった頃はまだ学生運動が盛んで、大学は休講になることも多く、趣味に多くの時間を割いていたという。もともと日本のマンガが好きで『COM』や『月刊漫画ガロ』を読んでいたが、後にアメリカのコミックス(以下、「アメコミ」)にも興味を持ちはじめ、大学は違っても共通の趣味を持つ同年代のアメコミ好きの友人たちと、よく一緒に過ごしていた。

大学生の頃、好きだったアメコミ目当てで神保町の古本屋「ブックブラザー」や「東京泰文社」に通っていました。あの頃、アメコミを読んでいる人は日本にそれほど多くはいなかったので、僕の姿は目についたんでしょう。古本屋でアメコミを読んでいる時、声をかけてきた人たちがいて、一緒に遊ぶようになったんです。

当時、翻訳されるアメコミの数は少なく、アメコミを好む人の多くが英語の原書で読んでいたため、向出の友人たちのなかにも帰国子女など、英語が堪能な人が多くいた。そのひとりが、後にSF小説の翻訳者になり、LEOの筆名でアメコミ紹介者としても知られるようになる黒丸尚(くろま・ひさし、1951-1993)である。この黒丸の紹介で、向出は創刊されたばかりのSF雑誌『奇想天外』でバイトをしたこともあった。

黒丸さんとは、早川書房刊行の『SFマガジン』がマンガを募集していた時、合作で応募したことがあります。落選しましたが、描いたのはヒロイック・ファンタジーのシリーズ「コナン」みたいなものでした。でも、当時はアシモフみたいなものがSFとされていて、ヒロイック・ファンタジーはウケないと言われていましたね。原稿は、作者に返還されず、勝手に処分されたようです。このことは、後に黒丸さんから聞きました。

そんななか、向出はアメリカで出版されたコミックスのアンソロジー誌『Star*Reach』と偶然出会う。1974年に創刊され、1979年まで18冊刊行された『Star*Reach』は白黒の作品を掲載するSFファンタジー専門誌だ。出版期間はそれほど長くないものの、後述するように、いくつかの理由で後世のコミックス歴史家から言及されることも多い雑誌である。
『Star*Reach』を創刊したのは、マーベルコミックスやDCコミックスといった大手コミックス出版社で6年ほどライターとして働いていたマイク・フリードリッヒ(Mike Friedrich)。独立してStar*Reach Productions社を設立し、1974年に自身が編集長となって同誌を創刊した。
『Star*Reach』創刊当時のアメリカのコミックス・シーンはと言えば、50年代の後半から出てきた「アンダーグラウンド・コミックス(underground comics)」がさまざまな理由で急激に衰退し、新しいコミックスの流れが生まれはじめていたところだった。1954年に制定された業界の自主的な表現規制コードに反発し、カウンターカルチャーと呼応して盛り上がった「アンダーグラウンド・コミックス」は、クリエイターにとって自己表現のメディアとしてのコミックスを再認識する契機となった。その「アンダーグラウンド・コミックス」が70年代に入り衰退すると、今度はカウンターカルチャーとは関係ないところで、コミックスの新しい表現を模索しようとする動きが登場しはじめる。その頃特に目立ってきたのが、60年代後半からのSFジャンルの人気を受けて出てきた、SFやファンタジー作品だったのだ。
『Star*Reach』はそのようなSFやファンタジーを扱ったアンソロジー誌の初期の1冊だった。フリードリッヒの人脈で参加したハワード・チェイキン(Howard V. Chaykin)、バリー・スミス(Barry Smith)などといった知名度のあるアーティスト/ライターたちも、『Star*Reach』においては当時大手で許されなかった自作に対する権利所持が認められ、コードに縛られることなく自由に作品を創作していた。『Star*Reach』掲載のものを含め、この時期登場した新しいタイプのコミックスは当時、「ニューウェーブ(New Wave、またはNewave)」や「グラウンド・レベル (ground level=地表:アンダーグラウンド(地下)とオーバーグラウンド(地上)の間)」などとも呼ばれ、後に登場する「オルタナティブ・コミックス(alternative comics)」と「アンダーグラウンド・コミックス」との間の懸け橋となった作品群と、現在では見なされるようになっている(註2)。
その『Star*Reach』を見た向出は、すぐにこの雑誌を気に入った。

『Star*Reach』は創刊号から持っています。友人のひとりが持っていた海外コミックスのカタログを見て、おもしろそうだと思って買いました。読んでみたら、僕らの感覚にすごく合っていた。そこで、その友人と僕でつくった「武士:The Bushi」という作品の原稿を送りました。コピーと言えばまだ青焼きの時代だったので、ポンと生原稿を送ってしまったんです。そうしたらマイク(註:マイク・フリードリッヒ)が評価してくれて、手紙のやりとりをするようになりました。マイクとは気が合ったんだと思います。

こうして「武士:The Bushi」は『Star*Reach』7号(1977年)に掲載された(註3)。この作品を、アメリカで出版された最初の日本マンガと言う人もいるが(註4)、一方で作品自体は「アメリカ的」との評価を受けている。日本を舞台にした時代劇ファンタジーではあるものの、「作品自体に作者が日本人だと示すものはほとんどなく、向出のアートは『Star*Reach』に見られるほかの作品とそれほど違わない」からだ(註5)。「武士:The Bushi」の感想の手紙を送ってくれたアメリカ人アーティストもいて、反響はあったという。

本当は自分自身がマンガ家というか、アメコミのアーティストになりたかったんです。でも、後に平田弘史先生と知り合って、そのあまりの絵の上手さに感動して結局その夢は諦めました。

『Star*Reach』7号表紙
「武士:The Bushi」

フリードリッヒが『Star*Reach』の姉妹誌として始めた『Imagine』(1978~79年)を入れると、向出の作品は、アメリカ人ライターと組んだものも含めて、1979年までに全部で7作掲載されている。
この日本人によるアメコミ誌デビューは、1978年に創刊された日本版『STARLOG』誌の1980年1月号で記事となった。同誌は当時、前述の黒丸も寄稿しており、SFやファンタジーのジャンルを中心にアメコミだけでなく海外のマンガを積極的に取り上げ、紹介していたのである(註6)。すると、その記事を見て向出に声を掛けてきた人物がいた。その人物は日本マンガをアメリカで出版する企画を語り、その手伝いを依頼してきたのだ。

『MANGA』誌制作のころの向出雅一氏

『MANGA』製作

その人物をここで仮にAとしておこう。Aは出版とは別の業種で実績を持つ人物であったが、どういう理由か、アメリカでの日本マンガ出版事業に興味を持っていた。向出は相談にのり、『Star*Reach』のように、日本のマンガ家の読切作品を紹介するアンソロジーをつくろうと思いつく。

本をつくるにあたって、アメコミ仲間の友人たちにも手伝ってもらったんです。マイクにも、「こういう本をつくりたい」と説明したところ、いろいろな人を紹介してくれました。ただし、掲載するマンガ家は僕らが日本で選んでいます。

向出はアメリカでも受け入れられる日本マンガを紹介したいと考えたが、同時になんとしても自分が好きなマンガ家の作品を掲載したいと考えていた。そこで自分で直接マンガ家たちと連絡を取った。当時は個人情報管理にうるさくない時代で、マスコミ向け電話帳にマンガ家の住所が掲載されている場合もあり、連絡先を知ることは比較的容易だったのだ。

連絡を取ったら全員が原稿を描くのをOKしてくれて、本当に嬉しかったですよ。当時の日本マンガのなかでも最先端を走っている人ばかり。全員が人気マンガ家さんだったので、半分無理かなと思っていたんです。たぶん海外に日本マンガを紹介したいという僕らの強い熱意に応えてくれたんだと思います。結局、大友克洋さんと生頼範義さん以外は全員描き下ろしになりました。

掲載された作品は、平田弘史の時代劇を除くと、すべてSFかファンタジーで、向出自身の作品も載っている。
『MANGA』は、当時アメリカで人気を博していたSFファンタジー誌『Heavy Metal』の日本マンガ版のような印象で(註7)、「日本マンガ的」というより、むしろ「80年代初頭の北米のコミックス的」だった、とあるブログは述懐している(註8)。しかし、それは意図したことであったと同時に、向出や日本側スタッフのマンガの好みのみならず時代の流行が反映された結果でもあった。
一方で、アメリカのコミックスにも精通していた向出とその友人たちは、日米のコミックス/マンガの違いを理解していたので、アメリカのコミックス読者に受け入れてもらうためには、日本マンガをそのまま出しても駄目だと思っていたという。
実際、編集の段階ではフリードリッヒが向出に紹介したスタッフも大きく関わっている。アンダーグラウンド・コミックスでデビューしていたリー・マーズ(Lee Marrs)、後にライターとしてマーベルやDCで仕事をするスティーブン・グラント(Steven Grant)、ライター、アーティスト、さらにはミュージシャン、俳優としても活動するラリー・ハマ(Larry Hama)といった面々だ。
「Adapters(脚色/翻案)」としての彼らの仕事は、日本的過ぎてアメリカ人読者に受け入れられないと思われるところに修正を加えていくことだった。例えば、宮西計三の「MidSummer Night’s Dream」は光源氏が神秘的な女性と出会う一夜を描いた作品だが、もとの原稿にほとんどセリフがなかったので、マーズがかなりの程度ナレーションやセリフを書き加えたという。ちなみに、『MANGA』の作品のなかには日本の雑誌に再掲載されたものもあったが、宮西のこの作品は『季刊コミックアゲイン』創刊号(1984年8月夏号)(註9)に英語のまま(英語の解説付きで)掲載されている。

場合によっては、絵のレイアウト(ネーム)と脚本をつくって英訳を付けたものに対して、アメリカ側からサジェスチョンをもらって描き直す、という作業もやりました。なぜなら、ただ翻訳しただけでは、アメリカ人にはわからないところもあったんです。マンガ家の皆さんには、「日本と海外では感じ方が違うので、こちらに任せていただけますか」とお願いして、了承をもらっていました。レタリングも日本には専門家がいなかったので、写植でつくり、吹き出しに貼り込みました。

『Star*Reach』や『Imagine』に自分の作品が掲載された時もそうでしたが、アメリカと一緒に仕事をして、一番大変だったのは通信です。なにせ時間が掛かる。今だったらメールがあるけれど、あの頃は何もなかったんで、ひとつのやりとりに1カ月以上掛かることありました。でも、コミックスのことがわかっているアメリカ人の目を通せば、アメリカでも受け入れられるものができる、ちゃんとした商品ができると信じていたので、手伝ってもらうのは重要だと考えていました。

結局、Aから企画が持ち込まれてから2年近い製作期間を経た後、アンソロジーはようやく完成し、1982年に書店に並ぶ。向出の希望通り、掲載マンガ家だけでなく紙の質や印刷などでも、当時の基準からしてかなり豪華なものとなり、向出にとっても「満足した出来」となった。

当時、自分の今やっていることは日本で誰もやっていないことかもしれない、という意識はありました。ただ、それ以上に、こういう本をつくりたいんだという熱意があって、1番最初とか2番目とかは関係なく、つくるんだったら「決定版」をつくりたいと思っていたんです。

しかし、向出が思っていた通りにならないこともあった。それはアメリカにおける『MANGA』の流通、つまり販路である。

マイクが『MANGA』にふさわしい取次をピックアップしてくれていたのに、A氏の意向で別の日系の会社が取次になってしまいました。そのせいでアメリカの「ダイレクト・マーケット」には流通せず、アメリカに当時あった日系の書店だけにしか『MANGA』が置かれなかったんです。

「ダイレクト・マーケット」とは、コミックス専門店に特化した市場のことを指す。今でこそアメリカでも書店でのコミックス購入は珍しくないが、長い間コミックスはニューススタンドもしくはコミックス専門店で買うものとされてきた。70年代に成立した「ダイレクト・マーケット」の功罪は近年さまざまに論じられているものの、『MANGA』が出た1980年代は、投資対象としてのコミックブックの価値の急騰に応じてコミックス専門店が全米で爆発的にその数を増やし、市場を拡大していた時期にあたる。特にフリードリッヒは『Star*Reach』をその市場に特化したアンソロジー誌として出版して成功し、後にその手腕を買われてマーベルの「ダイレクト・マーケット」担当のセールス・ディレクターにも就任した(註10)。前述のVizも最初に日本マンガをアメリカで出版した時、まず「ダイレクト・マーケット」で販売を展開したし、21世紀に入ってアメリカで日本マンガのブームが起こった時も、それまでの販路と違うところで販売したことがブーム成功の重要な要素だった。商品の出来もさることながら、対象となる消費者にきちんと届くことが重要なのは、どの商品でも同じである。

結局『MANGA』は全然売れませんでした。在庫の山ができてしまったのです。

『MANGA』が売れなかった理由を流通網のせいだけにするのは適切ではないかもしれないが、対象読者に届かなかった可能性が高いと考えると、いかにも残念な話である。

『MANGA』の2号を出す予定はありましたし、最初海外で売って、それを日本で売る時は、英語の勉強もできるように巻末に「対訳」をつける企画も考えていました。でも実際には売れなかったので、結局すべてなくなりました。海外で売れなかった分、在庫は山のようにあったので、日本の書店の洋書売り場で売ったんです。アメコミやBD(バンド・デシネ=フランス語圏のマンガ)のメビウスの画集などと一緒に並んで売られたんですよ。

しかし、アメリカでは売れなかったが、「日本マンガのアメリカへの紹介」という意味では完全に失敗というわけではなかった。『MANGA』巻頭作「Two Warriors」を見たアメリカの二大大手DCコミックスとマーベルコミックス、さらにEclipse Comicsという独立系コミックス出版社から、平田弘史に作品執筆の依頼が来たのである。
平田が同意したため、向出とフリードリッヒが海外と平田の間をつなぐ役目を担った。当初平田はDCコミックスで作品を出すことを了承したが、原作付きの作品創作や慣れない海外との仕事だったこともあって、用意された脚本をもとに作品を描くのに呻吟した結果、締め切りに間に合わせることができなかった。最終的に「Samurai: Son of Death」のタイトルで平田の作品がEclipse Comicsから出版されるが、それは『MANGA』出版から5年後の1987年のことである。

自分では、平田先生の「Samurai: Son of Death」のあと、これをビジネスにしようと考え、海外向けの出版エージェントをする準備ができていました。マイクもレタラーやライター探しで協力してくれていたんです。

ただ、向出はその頃就職して忙しくなっていたので、エージェント専門でやるわけにいかず、協力してくれる出版社を探しまわった。どの出版社も話だけは聞いてくれるものの、海外でマンガを出版することには二の足を踏み、結局実現することはなかったという。向出の試みはいろいろな点で、時代の先を行き過ぎていたのかもしれない。

日米のファンダム

『MANGA』アンソロジー誌に掲載されたマンガ家を今見ると、当時日本で「ニューウェーブコミック」と呼ばれた作品群を生み出したマンガ家とかなり重なっているように思われる。「ニューウェーブコミック」とは何かを説明するのは難しいが、70年代後半から80年代にかけて登場した、既成のジャンルや表現を越えた作品が当時、マンガ批評家などからそう呼ばれていたのだ。
偶然にも、海の向うのアメリカでも70年代中盤から80年代前半は、「ニューウェーブ」「グラウンド・レベル」などと呼ばれる、新しい表現を模索する作品がファンの注目を集めていた時期である。「グラウンド・レベル」はフリードリッヒによる造語とも言われ、『Star*Reach』はまさに「地下(アンダーグラウンド)」ではなく「地表(グラウンド・レベル)」に生じた「新しい波(ニューウェーブ)」を体現する雑誌だったのだ(註11)。
これらの背景にあったのはSFの流行である。1969年のアポロ11号月面着陸の成功により高まった科学に対する一般的な興味を背景に、70年代後半、映画『スター・ウォーズ』のヒットもあって、SFは日米双方で新たなファンを獲得しはじめていた。アメリカでSFをヴィジュアル的にとらえた『STARLOG』誌が76年に、フランスの『Métal Hurlant』のアメリカ版『Heavy Metal』誌が77年に創刊。SFやファンタジー作品を出す独立系のコミックス出版社が増えはじめる。一方日本でも、日本版『STARLOG』『別冊奇想天外SFマンガ大全集』『月刊スーパーマン』が1978年に創刊され、『POPEYE』などの一般情報誌でも度々SFを特集するなど、80年代初頭頃までは国境を超えて、さまざまなメディアでSFが当時の若者たちを惹き付けていた。
そもそも、日本でもアメリカでもSFのファンダムをインキュベーターとしてコミックスやマンガのファンダムが発展していったのである。それぞれの国の複雑な文化的文脈を考えると単純に比較できるものではないが、日米のコミックスやマンガがそれぞれ、ある時期同じようにSFというジャンルを中心に「新しい波」を迎えていたのはとても興味深い。
日本で戦後のマンガ史を語る際、あたかも手塚治虫からすべてが始まったかのような語り口が一般化して、手塚以外の文脈においての海外との交流や相互影響については捨象されてしまうことも多い。そのような点を考える際にも、『MANGA』は当時の日米文化交流のある側面を示すおもしろい試みだったと言えよう。
歴史に「if」を持ち込んでも仕方がないが、80年代初頭、『MANGA』アンソロジーがアメリカで狙った読者層に正しく届いていたら、とつい考えてしまった。


(脚注)
*1
例えば、Ash Brown, “Random Musings: Spotlight on Masaichi Mukaide,” Experiments in Manga, 掲載日不明。
http://experimentsinmanga.mangabookshelf.com/2014/08/random-musings-spotlight-on-masaichi-mukaide/
Brian Hibbs, “My Life is Checked with Comics #19a Manga,” The Savage Critics, September 21, 2009.
https://www.comixexperience.com/savagecritics/reviews/my-life-is-choked-with-comics-19a-manga

*2
「ニューウェーブ」「グラウンド・レベル」などの当時のアメリカのコミックス状況については以下を参照。
Randy Duncan, Matthew J.Smith, The Power of Comics: History, Form and Culture, Continuum, 2009, pp. 63-7.
Jean-Paul Gabilliet (translated by Bart Beaty and Nick Nguyen) , Of Comics and Men: A Cultural History of American Comic Books, University Press of Mississippi, 2010 (originally published in 2005 in French) pp. 49-86.

*3
武士:THE BUSHI,” Script/Satoshi Hirota, Additional Dialogue/Mike Friedrich, Artwork/Mukaide, Star*Reach, #7, January 7 1977, Star*Reach Productions.

*4
Dan Mazur, Alexander Danner, Comics: A Global History, 1968 to the Present, Thames & Hudson, 2014.
このほか、アメリカで最初に出版された日本マンガには諸説あり、例えば、1971年に出た演劇に関する学術誌『Concerned Theatre Japan』Vol.2, Issue #1に掲載された『櫻画報』(赤瀬川原平)、『赤目』(白土三平)、『ねじ式』(つげ義春)が「最初」と言われる場合もある。

*5
Ash Brown, ”Random Musings: Spotlight on Masaichi Mukaide,” Experiments in Manga, 掲載日不明。
http://experimentsinmanga.mangabookshelf.com/2014/08/random-musings-spotlight-on-masaichi-mukaide/

*6
『STARLOG』1980年1月号、p. 26。

*7
Jason Thompson, Manga: The Complete Guide, Del Rey, 2007.

*8
Brian Hibbs, “My Life is Choked with Comics #19b Manga,” The Savage Critics, September 21, 2009.
https://www.comixexperience.com/savagecritics/reviews/my-life-is-choked-with-comics-19b-manga

*9
『季刊コミックアゲイン』1984年8月夏号、日本出版社、pp. 155-162。

*10
Kim Thompson, “Reaching for the Stars with Mike Friedrich,” Comics Journal, #71, 1982, pp. 79-92.

*11
Roger Sabin, Adult Comics: An Introduction, Routledge, 1993, p. 270.

※註のURLは2019年8月25日にリンクを確認済み


向出雅一(むかいで・まさいち)
1952年、東京都品川区に生まれる。1976年、中央大学法学部法律学科卒業、株式会社中央経済社に入社。1980年代初頭、アメリカで発行された日本マンガを掲載する『MANGA』アンソロジーの編集長をつとめた。2017年、株式会社中央経済社を退職。