マンガの理論研究に新たな時代がやってきた。そんな印象を決定づける書籍が出版された。三輪健太朗氏による『マンガと映画——コマと時間の理論』(NTT出版、2014年)である。
著者である三輪健太朗氏は、学習院大学の夏目房之介氏のもとでマンガを研究する若手気鋭マンガ研究者のひとり。本書の元となっているのは修士論文だが、指導教官である夏目氏や同じく学習院大学教授である中条省平氏からの激賞を受け、書籍として出版されることとなった。
本書は、タイトルにもあるように、マンガを映画と対比させて考察した本である。手塚治虫の『新宝島』における「映画的手法」の導入は、マンガ史を刷新した出来事として、これまでたびたび語られてきた。しかしながら近年の手塚神話再検討の流れのなかで、この「映画的手法」が一体何を指していたのかについても様々な異論が提出されており、意見の一致はまだ見られていない。
その一方で、マンガがいかに映画とは異なる自律したメディアであるかを指摘し、マンガを称揚しようとする言説が様々な論者によって紡がれてきたこともまた事実である。
藤子不二雄Ⓐ氏は手塚治虫の『新宝島』を初めて読んだときの思い出を後にこう書き記している。「そうだ、これは映画だ。紙に書かれた映画だ。いや! まてよ。やっぱりこれは映画じゃない。それじゃ、いったいこれはナンダ!?」。映画みたいだけど、映画じゃないものとしてのマンガ。結局、日本のマンガ理論はこの言葉のまわりをぐるぐると回っていたのかもしれない。
近年では、「映画的」に関する理論が精緻化されていくと同時に、映画とマンガの比較自体がもはや隘路にはまってしまっている、そんな印象すら抱かずにはいられなかった。そもそも、「映画的」とはどの映画のことを念頭に置いて言っていたのだろうか。
本書は、そんな現状のなかでマンガと映画にまつわる問題を整理し直し、もう一度マンガと映画を比較することを可能にした本とも言える。一体どういう観点(水準)において、マンガは映画みたいで、あるいは映画みたいではないと私たちは語っていたのか。
著者は、この「映画的」にまつわる諸問題を考えるにあたり、これまで一般的に用いられてきた「映画的手法」ではなく、「映画的様式」という言葉を採用する。その理由はふたつあるとされる。ひとつには議論の水準を「メディウム(媒体)」から「様式(スタイル)」へと移行させるためだ。確かに、メディウムの水準において、紙の上に描かれた動かない複数のイメージであるマンガと、光学的なカメラによって撮影されたイメージが継起的に投影される映画とは、根本的に異なるものだ。しかしながらこのメディウムの違いは、様式において両者が似たものになる可能性を必ずしも排除しない。それどころか、マンガは 「メディウムの特性を前提とした技法(手法・方法)」を活用しながら「様式」的に映画を目指すことができる。そうである以上、マンガと映画の「近さ」を追求する本書においては、メディウムの水準から様式の水準のほうへと議論を移し、「手法」ではなく「マンガにおける映画的様式」とは何であったかが追求されることになるだろう。
もちろん著者はそれぞれのメディウムとしての特性を無視しようとしているのではない。重要なのは、どの水準において語っているのかを明確に意識することだ。著者はこのことを「フレームの可変性」と「読みの時間」という、マンガというメディウムが独自に持つ性質としてしばしば挙げられてきたふたつの「映画的ではない」特徴を再検討することで、明らかにしようとする。著者によれば、そもそもメディウムとして異なっている点がそのままそのメディウムの優れている点になるとは限らず(しかし、しばしばそう主張されてきた)、ある意味(様式の水準)においては、「フレームの可変性」と「読みの時間」すらも「映画的」であったとさえ言えるのだ。この水準の移行は、映画とマンガの比較可能な領域をあらかじめ確保しておくための手続きと言うこともできるだろう。
「映画的手法」ではなく、「映画的様式」という言葉を採用するもうひとつの理由は、個々の手法にこだわると見えなくなってしまうものがあるからだ。形式的に同じ手法が、結果として異なる効果をもたらすことがありえる。重要なのはその手法がどのような「システム」内で作動しているかということであり、個々の手法ではなく、その前提となっている様式に注目しなくてはならない。マンガと映画の「近さ」を示す根拠を探求すると同時に、その根拠がマンガ史における分水嶺の基準として機能することを目指す本書においては、これは特定の手法が歴史上個別に現れたとしても、その作品を例外として排除することを可能にしておくための手続きでもある。
以上のような理論的前提のもと、著者はこれまで「映画的手法」と呼び習わされてきた事柄を実際に検討していくことになる。まず最初に取り上げられるのは、「リアリズム」に関する「映画的手法」だ(第4章「空間のリアリズム」)。マンガにおける「リアリズム」の問題は近年「キャラクター」の問題に集約されてしまっているが、その代表的論者である大塚英志氏や伊藤剛氏の議論においては、もともとそうではなかったのではないか。著者は彼らの「キャラクター」論を辿りながら、そこにピクサーのアニメーションにおける「キャラクター」を挿入することで、両者において「映画的手法」と呼ばれていた問題系を呼び戻し、「リアリズム」問題の本質は「キャラクター」よりもむしろ映画的にリアルな空間の再現に関わるものであったことを明らかにする。そのために伊藤氏が前提としていた「映画的リアリズム」対「フレームの不確定性」という対概念を「仮想的なカメラ(=映画的リアリズム)」と「インクのしみ」という対立に組みかえ、実は隠蔽・抑圧の対象となっていたのは「フレームの不確定性」よりもむしろ「インクのしみ」のほうであり、それによって「インクのしみを現実同様のリアルな空間」として成立させることこそが問題となっていたのだと腑分けしてみせたのは見事だった。ここで「リアリズム」に関連して語られていた「映画的手法」は、結局のところ「仮想的なカメラ」によって捉えられた「現実同様のリアルな空間」を現出させるスタイルという意味での「映画的様式」だったと言い直される。
次に、「映画的手法」のもうひとつの重要なテーマである「編集(モンタージュ)」に関する問題が取り上げられる(第5章「物語と編集」)。ここで「映画的様式」として抽出されるのは、古典的ハリウッド映画に代表されるような物語映画において「一義的に物語の意味を伝える」ために行われる「編集」のスタイルである。この点について、あらかじめ情報が選択され捨象されているマンガの「記号的」イメージは、効率よく寄り道せずに「一義的に物語の意味を伝える」という「映画的様式」のこの第2の側面と、そもそも親和性があることが指摘される。それどころか、編集の際にしばしば動かないイメージによって説明される映画は、この側面においてむしろ「マンガ的」であるとさえ言われるだろう。
「一義的に物語の意味を伝達する」のは、なにも絵柄だけによってではない。マンガ特有の手法としてしばしば取り上げられてきた「視線誘導」もこの目的のために重要な役割を果たしている(第6章「フレームと視線」)。ここで、一度は脇に追いやられた「フレームの不確定性」が再び取り上げられる。「フレームの不確定性」が抑圧され、ひとつずつのコマの独立性を高めたものが「映画的」とされ、「視線誘導」は、この「フレームの不確定性の抑圧」をすり抜けた、マンガというメディウムが独自に持つ手法として扱われてきた。ところが著者は、ここでもまた、むしろ「映画的ではない」とされてきた特徴のほうに注目し、「視線誘導」も「鑑賞者の注意を誘導し一義的に物語を伝達する」という意味で、つまりは様式の水準において、第2の「映画的様式」の範疇にあることを示してみせる。さらに、「視線誘導」の前提となっていた「フレームの不確定性」も、実際のところ抑圧されている/されていないに関わらず、つまりフレームが形式的に紙面とコマのどちらにあるのかはそれ自体として大した問題ではなく、「仮想的なカメラ」が想定されているかどうかが重要だったはずだと述べる。その意味で、第4章と第5章で明らかにされたふたつの「映画的様式」、つまり「仮想的カメラによる現実同様のリアルな空間の現出」と「一義的な物語の意味の伝達」は、ここでひとつのものとなり、結局のところ「映画的手法」とは「仮想的なカメラによって切り取られた光景を、視線誘導によって継起的に眺めさせるスタイル」だったのだと言い換えられることになる。
ここまでが第1部と2部のまとめであり、第3部の「近代マンガの時間」では、「映画的手法」のまた別の側面である「運動」に関する問題が扱われ、さらに、「運動」するためにそもそも必要不可欠な存在である「時間」が取り上げられる。そしてこの「時間」に関する「映画的様式」こそ、第2部で述べられた「空間」に関する「映画的様式」の前提となっていたことが明らかにされる。結局、著者によれば、マンガにおける「コマ」とは時間と空間についての近代的な認識のあり方を反映した装置なのであり、その意味において、マンガと映画は近代性を共有する同時代の文化あるいは芸術なのである。
ここで取り出された「時間」に関する「映画的様式」については本書を実際に読んでみてほしいが、その際に提示される「計測可能な幅をもった(かぎりなく瞬間に近い)瞬間」という「近代マンガの時間」概念は、理論の拠って立つところが全く異なるとはいえ、フランスのマンガ研究においてアリー・モルガン氏が『描画文学の原理』(Harry Morgan, Principes des littératures dessinées, Editions de l'An 2, 2003)のなかで提示した時間モデルと類似しており興味深い。
また、岩下朋世著『少女マンガの表現機構——ひらかれたマンガ表現史と「手塚治虫」』(NTT出版、2013年、メディア芸術カレントコンテンツ内関連記事)や『岡崎京子論:少女マンガ・都市・メディア』(新曜社、2012年)、あるいは『日本における新聞連載子ども漫画の戦前史』(日本僑報社、2013年、メディア芸術カレントコンテンツ内関連記事)など、若手マンガ研究者の本が近年立て続けに出版されているが、そこではいくつもの共通したテーマが扱われており、それぞれがどのように問題を解こうとしているのか、比較してみるのも面白いだろう。
これらマンガ研究の新たな時代を告げる著作物においては、これまで語られてきた様々な言説が詳細に引用・検討され、もはや一般の読者にとっては取り付きにくくなっているかもしれない。しかしそれは、過去の言説をきちんと受けとめながら今まさにマンガ理論を新たに書き換えようと奮闘している日本のマンガ研究の現状を反映しているのだろう。
本書はそのなかでも特に、日本のみならず海外のマンガ理論や映画理論を多数引用し、執拗にそして時にアクロバティックにその再検討を行っていくため、論旨を辿るだけでも一筋縄にはいかない。むしろ、その論を追っていく過程こそがスリリングであり、本書の醍醐味とも言える。だが、これまで語られてきた理論を単純な二項対立からではなくより広い視野から、しかもそれをかつてなかったほどの高い精度で検討する道筋を、本書は確かに示してくれた。もちろん、ただ理論のための理論で終わるのではなく、個別作品への視点も決して忘れることはない。これから日本のマンガ理論を、それぞれの目的意識に従いながらさらに更新していこうとする人々にとって、避けては通れない本である。
『マンガと映画——コマと時間の理論』
著者:三輪健太朗
出版社:NTT出版
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