カオス*ラウンジによる展覧会「LITTLE AKIHABARA MARKET」が、ROPPONGI HILLS A/D GALLERYで2014年5月10日(土) から5月25日(日) まで開催された。カオス*ラウンジは、美術評論家の黒瀬陽平氏とアーティストの梅沢和木氏と藤城嘘氏を中心に活動している美術集団である。彼らのHPには「本展は、2010年以降、常に私たちの現実を見つめ、新しいアートのかたちを示し続けてきたカオス*ラウンジによる最新のインスタレーションである」とある。カオス*ラウンジが示す「新しいアートのかたち」とは何なのだろうか。今回はこの展示に関するレポートである。

震災瓦礫が点在し、大きな日本画が掛けられ、同人誌のマーケットのような会場を私は歩いて、作品をひとつひとつ見ていった。そうすると作品を見ればみるほど、そこに展示されているものが何なのか、そして、その総体が何なのかがわからなくなってきていた。インターネット発のキャラクター文化を体現している集団「カオス*ラウンジ」の展示に対して、「ポスト・インターネット」という言葉でネットのアートを考えているひとりの研究者はそれを読みとるための有効な手掛かりをまったく失っていた。

そのような時、会場に入ったときからその存在には気がついていたのだが、その表面にはネットで既に読んでいた「日本的イコノロジーの復興が載っていたために手に取らなかったプリントの裏面を見てみると、そこに黒瀬陽平氏による「会場作品ガイド」があった。そこで「会場作品ガイド」を読みながら、もう一度会場の作品を見ていくことにした。そうすると個々の作品の理解とともに会場全体の意図が立ち上がってくるように感じられた。

黒瀬氏のテキストを読まなければ、作品及び会場の意図を意識できなかった私自身のネットのキャラクター文化と感度の低さに恥じ入るばかりだが、黒瀬氏のテキストはそのような私にも確実にキャラクター文化を媒介とした表現の軸を明確に示してくれた。その軸は、黒瀬氏が今展覧会でのモチーフとして選んだ「MARKET=コミックマーケット」である。私は「展示作品ガイド」で以下のテキストを読んだ時に、会場全体の見取り図を手に入れたように思えた。

作家たちによって「再生」した漂着瓦礫たちは、長机の整列する「MARKET」に並べられることになる。ここでモチーフとなっているのは「コミックマーケット」だ。言ってみればコミックマーケットは、オタクたちによって執り行われる、キャラクターに対する「死と再生」の儀式である。

念のために確認しておけば、久松からハタへとエスカレートするキャラクター的空間は、キャラクター的想像力を媒介として、瓦礫の「再生」と二次創作を短絡させた中央の「MARKET」空間と同質なのである。ここまでくれば、本展示会場の作品や構成が、統一感なくバラバラに見えることなどあり得ないだろう。

このテキストを読んだあとで、私は以下のように会場を見るようになった。

会場の真ん中に「MARKET」の形式を置くことによって、すべてのものがキャラクターとして「貨幣と交換する」ことが可能であり、作家や作品そのものもまたキャラクター化して交換可能であることが示されている。

まずそのことを示すのが、山形在住の日本画家・久松和子氏の作品《日本の美術を埋葬する》とその作品をカオス*ラウンジを代表する梅沢氏と藤城氏が加筆した《リトルアキハバラ@謝肉祭*ぉハョー/^0^\美術コア》及び、その横にある藤城氏の《日本の美術を埋葬する Most Podern REMIX feat. 久松和子》との位置関係である。久松氏の作品と梅沢氏と藤城氏のふたつの作品の間に「MARKET」があって、ここを通ることが「交換=リミックス」の絶対条件として示されているようであった。

さらに、入り口から見て右側の壁には平松氏やハタユキコ氏という東北芸術工科大学卒の作家による宗教的要素が多分に入り込んだ作品が展示されていて、そこには梅沢氏や藤城氏の作品も掛けられているのだが、そのなかに久松氏が描いた梅沢氏と藤城氏のポートレートが展示されている。久松氏が自身の作品を彼らふたりに提供したことに対して、梅沢氏と藤城氏は自らを対価として差し出し、描かれた。その結果、彼らは宗教的な要素を帯びた「イコン」となると同時に貨幣と交換可能な作品となったような感じを受けた。

このように会場を体験したあとで改めて今回の展示を思い返してみると、黒瀬氏は「アートマーケット」の上に「LITTLE AKIHABARA MARKET」というカオス*ラウンジの独自の様式=フォーマットを重ね書きしようとしているのではないだろうか、と考えるようになった。

この「フォーマット」という語はアメリカの美術批評家のDavid Joselit氏が使っているものである。Joselit氏は、現在のアートの状況は作品のイメージがネットに溢れかえるようになって、作品が「貨幣」のように流通するものになったとする。そのような状況では、作品を支えてきた「モノ」としてのメディアは「つながり」としてのフォーマットの下部構造となり、「フォーマット」づくりが重要となってくると指摘する。そして、Joselit氏はこのような変化から現在のアートをめぐる状況を「アートの後」と考える。

Joselit氏の考察に引き付ければ、黒瀬氏は「アートの後」で「ネットのキャラクター文化」という題材を使って、そこに新たな「フォーマット」をつくっていこうとしていると言える。作品というモノを売ることは変わらないが、黒瀬氏はそこで「私たちの現実」としてのネット及びキャラクター文化がモノ=作品が成立するための「フォーマット」をつくるために、「アートマーケット」に「コミックマーケット」を混入させる。これらふたつは対置されているのでもなく、入れ子状になっているわけでもない。黒瀬氏自身が「作品解説ガイド」で使っている「短絡」という言葉を借りるならば、カオスラウンジは「アートマーケット」と「コミックマーケット」を「短絡的」に結びつけたからこそ、そこに新たな「フォーマット」が生まれたと言える。

「二次創作」によって召還され、「MARKET」の循環のなかで復興しうるのは、一度失われた、あるいは失われつつある二次元的、キャラクター的表現のすべてである。つまり、今となってはオタクカルチャーからも現代アートからも切り離されつつある、宗教的イメージやイコンもまた、二次元的、キャラクター的表現の系譜として呼び出すことが可能なのだ。(「本展について」)

さらに、上のテキストにも示されているように黒瀬氏とカオス*ラウンジは今回の展示で「日本的イコノロジー」を自らのフォーマットに取り込んでいった。ひとつのフォーマットのなかに異なるデータを次々と取り込んでいくことは、そのフォーマットのなかでの「エラー」を出現させる確率を高める。もともとカオス*ラウンジ自体が既存の「アートマーケット」というフォーマットのなかで「エラー」を引き起こす存在だったとすれば、カオス*ラウンジは自らのフォーマットのなかにも意図的にエラーを起こしながら、活動を続けていくことが求められているのかもしれないし、それを目指しているのかもしれない。

もしそうだとすれば、「エラー」は黒瀬氏をはじめとするカオス*ラウンジ全体で意図的につくりだしていると言えるが、それが「エラー」であるがゆえにそれを理解するためには黒瀬氏のテキストが必要となってくる。「エラー」が「エラー」のまま流通したとしても、そこに意味を見出すことは難しいし、誤解を与えることもあるからである。「LITTLE AKIHABARA MARKET」で黒瀬氏は「エラー」のもととなるような久松氏の《日本の美術を埋葬する》を受け入れ、言語化したことで、カオス*ラウンジのフォーマットをこれまで以上に拡げるとともに、確かなものにしたと考えられる。

LITTLE AKIHABARA MARKET|CHAOS*LOUNGE
http://www.chaoslounge.org/