批評家の渡邉大輔氏が『イメージの進行形───ソーシャル時代の映画と映像文化』を刊行した。「映画だけが映像文化ではないよね」という誰もが抱きながらも、「でも、それってどういうことなんだろう」と考え始めた途端に途方にくれてしまうような領域で、『イメージの進行形』は「こっちに進むと面白いよ」と声を掛けてくれる。

現在の情報環境のもとには膨大な映像があり、それらが「映像圏」を構成している。そのなかに「映画」と「カラオケ映像」と言うふたつの映像がある。今までであれば、これは「映像」を論じたテキストで出会いはしない。なぜなら、「カラオケ映像」は「映像」として取り上げられないからである。しかし、『イメージの進行形』では「映画」と「カラオケ映像」が出会う。それは「カラオケ映像」が大根仁監督の手で映画「モテキ」の中に効果的に組み込まれているからであり、そしてその事例を渡邉氏が取り上げ、「映画」とのあいだにあった文化的優劣が無効化された「カラオケ映像」が「映画的なもの」に昇華されると書くからである。さらに渡邉氏はTwitterの「リツイート*1」と絡めて映像圏における映像の在り方を説明する。映像をTwitterで説明すること自体が映像圏的なアイデアに基づいている。なぜなら、今まで出会うものがなかったものたちが不意に出会い、ひとつの流れに組み込まれるというのが、「リツイート」で説明される映像の在り方だからである。リツイート前後の「私のものなのか、それともあなたのものなのか」どっちつかずのまま流れていくひとつの流れが、「映画+カラオケ映像」を無視するのではなく「映画的なもの」と呼ぶ意識を生み出している。

リツイート的感覚が映像圏を規定するひとつの要素だとすれば、それは「ポスト・インターネット」というネットが当たり前になった状況でのアートの在り方に通ずるところがある。アーティストのパーカー・イトー氏は自分の作品がTumblrで次々と「リブログ*2」されていくことを望む。それは自分の作品のコントロールを他人に委ねることであるが、それによって作品が文脈を超えてフラフラとネットを渡っていき「作品的なもの」として扱われていくプロセスを、イトー氏は自らの作品に取り入れて楽しむのである。

「文脈を無視した結びつき」というのは、ポストモダンな発想かもしれない。しかし、現在の映像圏でそれは知的な試みというよりも、「リツイート|リブログ」ボタンを押すだけでできるという即物的な要素が強い。渡邉氏はこの即物的感覚を意識しながら、Twitter、擬似ドキュメンタリー、オーソン・ウェルズ、岩井俊二、ニコニコ動画の「踊ってみた」、初期映画などを次々に結びつけ、それらのあいだにあった既成の関係を軽々と跨いで無効化しつつ、映像圏という「メディアアート」も含んだ未知の領域を歩いていくための指針を示す。このように考えると、『イメージの進行形』はTwitterやTumblrなどを当たり前に使うポスト・インターネット的な意識で「映画」を考察した試みともいえるかもしれない。映像文化のなかで最もレガシー的側面をもつ「映画」を主に扱いながら、新たな地平を切り開いた渡邉氏のこれからに注目したい。

 

*1 Twitter内で誰かのつぶやきを引用すること。

*2 Tumblr内で誰かの記事を自分のページに転載すること。

 

『イメージの進行形───ソーシャル時代の映画と映像文化』
著:渡邉大輔、出版社: 人文書院
出版社サイト
http://www.jimbunshoin.co.jp/book/b103747.html