グループ・ゼロ(Group Zero)の創始者であり、バルーンの作品で世界的に知られるオットー・ピーネ(Otto Piene)氏が2014年7月17日に86歳で逝去した。奇しくも大規模な回顧展「Otto Piene, More Sky」のオープニングを無事に迎えた直後のことであった。自然と科学技術、芸術を融合した稀有な人物を惜しみ、欧米の主要メディアは追悼記事を掲載した。

回顧展は2014年8月31日までベルリンのDeutsche Bank KunsthalleとNeue Nationalgalerieにて開催されている。2014年7月19日には、氏の代表作《スカイ・アート》のイベントが当初の予定通り実施され、白い星形をした3つの巨大なバルーンが空に浮かんだ。

ピーネ氏は1928年、ドイツ、ヴェストファーレン生まれ。ミュンヘンのHochschule für Bildenden KünsteとデュッセルドルフのKunstakademieで絵画と芸術教育を学び、1957年にケルン大学(University of Cologne)で哲学を修めた。

グループ・ゼロは、デュッセルドルフを中心に1957年から1966年まで活動した。ピーネ氏とハインツ・マック(Heinz Mack)氏が創設し、1961年にギュンター・ユッカー(Günter Uecker)氏が加わった。それは、第二次世界大戦という惨禍を経て、全く新しい地点(ゼロ)から始まる芸術を目指していた。彼らは、絵画や彫刻といった形象を伴う従来の表現に対し、光、動き、空間への展開の可能性を探求した。国際的なネットワークを形成し、ルーチョ・フォンタナ氏(1899-1968)、イヴ・クライン氏(1928-1962)、ピエロ・マンゾーニ氏(1933-1963)、ジャン・ティンゲリー氏(1925-1991)、Jan Schoonhoven氏(1914-1994)、Jesús Rafael Soto氏(1923-2005)、吉原治良氏(1905-1972)、草間彌生氏、ハンス・ハーケ氏などと交流を持った。

ピーネ氏の創作は、規則的に小さな穴を空けたステンシル(型版)を用いた単色の抽象絵画からスタートした。続いて、ステンシルの裏側からトーチの光を当て動く光のパターンを空間全体に映し出す《Light Ballets》(1959年)を発表。また、着色した紙に火を付けて炎や煙の痕跡(煤)を画面に残す「煙の絵画(Rauchbild)」や「炎の絵画(Feuerbild)」と呼ばれるシリーズを生み出した。

最もよく知られているのは1967年から取り組み始めたバルーンを用いた作品《スカイ・アート》である(命名は1969年)。それは「膨らますことのできる彫刻(インフレータブル・スカルプチャー)」とも呼ばれる。作品はギャラリーや美術館を飛び出し、街や自然に広がった。パレスチナのテロ集団がイスラエル選手を襲撃するという悲惨な事件の起きた1972年のミュンヘンオリンピック閉会式では、全長600メートルにおよぶ5色の巨大なバルーン《オリンピック・レインボウ(Olympic Rainbow)》を空に架けてみせた。多くの人々が平和への願いを共有した。

「私たちの空は第二次世界大戦で破壊された。それは汚れた空、危険な空、(爆弾の)爆発に満ちた空だった」とピーネ氏は述べている。「More Sky」という空への憧れは戦争と無縁ではない(ここで現在の世界情勢に思いを馳せることも必要だろう)。

1968年、ピーネ氏は、ジョルジ・ケペシュ氏(1906-2001)によって設立されたマサチューセッツ工科大学(通称MIT)高等視覚研究センター(Center for Advanced Visual Studies、通称CAVS)に招聘され、3人の初代フェローのうちの一人となる。1974年に2代目ディレクターに就任。1977年にはCAVSの22名のアーティストを率いて「ドクメンタ6」(1977年)で《Centerbeam》(1977年-1978年)を発表。《Centerbeam》は、長さ144フィート(約44m)の水を入れた三角柱(水プリズム)に、レーザープロジェクション、蒸気スクリーン、ホログラム、ネオン、ビデオ、空に浮かぶバルーンなどを組み合わせた巨大インスタレーションであった。制作にはMITの研究者や技術者が協力した。《Centerbeam》は、1978年にワシントンD.C.のナショナル・モールというパブリックスペースで再度公開された。そこではPaul Earls氏(1934-1999)、Ian Strasfogel氏との共作であるスカイオペラ《Icarus》も上演され、高さ250フィート(約76m)のバルーンが立ち現れた。

1981年から1986年には、表現のために開かれた場所としての空と芸術をテーマに、アメリカとヨーロッパで4回の「Sky Art Conference」を開催した。このカンファレンスには多くの作家が参加した。とくに、1982年「アルス・エレクトロニカ」の回では、ナムジュン・パイク氏(1932-2006)との協働で知られるシャーロット・モーマン氏(1933-1991)が、ピーネ氏の作ったバルーンに体を結びつけ、ドナウ川の空中でチェロを演奏して人々の話題を呼んだ(《スカイ・キッス (Sky Kiss)》)。

ピーネ氏の活動と歴史的位置づけについては、森岡祥倫「外部からの視線とスーパー・システムとしての自然 オットー・ピーネのスカイ・アートほか」(「InterCommunication」No.19、NTT出版、1997年)を参照されたい。

「美術手帖」1969年6月号(Vol.314)に「新しい自然=エレメンタリズム〈エア・アート〉」という特集が組まれている。その中で、中原佑介氏(1931-2011)がピーネ氏の作品を論じている。中原氏はピーネ作品の特徴として「作品対観衆という一般的図式をよりいっそう解体して、光、火、空気などと行為、反応、参加、テクノロジーなどの諸要素を対等なものとみなしている」という点を挙げている。また、クリスト氏とピーネ氏のバルーンを用いた作品を比較し、クリスト氏の作品が「空気の梱包」つまり「否定形としてのオブジェの思想」を持つのに対し、ピーネ氏の関心は「空間の拡張」にあると述べている(「ピーネ氏にとって、このヘリウムの気球は閉ざされた画廊をちょうど手袋を裏返すようにひっくり返し、それを空中にもちあげたのと同じことになる。画廊の内壁は反転してバルーンの外壁となり、画廊内にいたひとびとは、バルーンの外に立たされたわけである。要するに、それは空間の拡大であった」)。

また、「美術手帖」1983年9月号(Vol.515)には、坂根巌夫氏によるインタビュー記事がある(「オットー・ピーネ展:天翔ける「ゼロ」精神」)。そこでは、ペインティングからスカイ・アートに至る創作の連続性、60年代のキネティック・アートからその衰退を経てビデオやコンピュータ、レーザーやホログラフィを用いた新しい表現が生まれるまでの時代背景、さらには科学的なものの見方と想像力の関係に至るまで、様々な議論が交わされている。

2008年にピーネ氏を含む3名のグループ・ゼロのメンバーとMuseum Kunstpalastおよびデュッセルドルフ市の協力により設立されたZero Foundationでは、当時の作品や資料だけでなく、その後グループが国際的に与えた影響まで視野に入れ、保存、発表、研究活動を行っている。また、2014年10月10日から2015年1月7日まで、グッケンハイム美術館(Solomon R. Guggenheim Museum)でグループ・ゼロの回顧展「ZERO: Countdown to Tomorrow, 1950s-60s」が開催される予定である。

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《スカイ・キッス (Sky Kiss)》(1982年)
撮影:坂根巌夫氏

[動画]OTTO PIENE More Sky (english)
https://www.youtube.com/watch?v=2TIvrF9GFK8

Vin Gravill, CAVS DOCUMENTARIES
http://www.vingrabill.com/pages/cavs.html

Otto Piene. More Sky(Verlag der Buchhandlung Walther Konig, 2014)
http://www.ottopieneinberlin.de/index.php?id=1766&L=1