2014年5月20日から29日まで、ベルリンのシアターHebbel am Ufer(通称:HAU)にてフェスティバル「ジャパン・シンドローム──福島以後の芸術と政治(Japan Syndrome: Kunst und Politik nach Fukushima)」が開催された。HAUは昨年2013年10月に、チェルフィッチュの『地面と床』(2013年)の公演に合わせて、「Phantasma und Politik #4」において同様のテーマを設定し、岡田利規氏(チェルフィッチュ主宰)、高嶺格氏、大友良英氏のトークイベントを開催した経緯がある。
同フェスティバルでは、演劇/コンサート/スクリーニング/レクチャー/インスタレーション/シンポジウムの他、「サロン3.11」と題したトーク・シリーズや「パルクール 3.11」と題した映像作品を中心にした展覧会など総合的なプログラムで構成された。紹介された多くの作品は、フェスティバル/トーキョーをはじめ、恵比寿映像祭やあいちトリエンナーレ、水戸芸術館やYCAMなど日本の芸術文化施設等で公演あるいは展示された作品が過半数を占める。同フェスティバルでは、各地/各分野で分散的に展開されてきた「福島以後」を扱う主要な作品が一堂に会したとも言える。
まず、筆者の目に飛び込んできたのは同フェスティバルで配布された新聞の裏表紙にある「想定外」という日本語の文字であった。福島原子力発電所事故の直後から記者会見などで頻繁に発せられた「想定外」という言葉に3年後に改めて向き合い、その意味を外国で説明するささやかなコミュニケーションから筆者の同フェスティバルへの参加が始まった。

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「Japan Syndrome」で配布された新聞の表紙と裏表紙(詳細プログラムPDF

フェスティバルのタイトル「ジャパン・シンドローム」は、高嶺格氏が2011年から取り組む、地域での取材を基に演劇的な手法でそのやりとりを再現し、撮影した映像作品シリーズのタイトルである。フェスティバル全体を一言で総括することは困難であるが、高嶺氏が個展「高嶺格のクールジャパン」(水戸芸術館、2012-13年)へ向けたステイトメント内の「日本人は、日本人に生まれるのではない。日本人になるのだ」に収斂されうる、原子力発電所事故を引き起こした日本社会と日本人への問いと分析が、芸術家という立場から行われている作品群が紹介されたのではないかと考える。そして、それらの作品を通して、戦後日本の急速な経済成長と資本主義化のプロセスのみならず、日本型近代化の歴史的経緯まで意識することを促した。

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(手前)HAU1のエントランスで展示された、特大サイズ(面積比約10倍)の「高嶺格のクールジャパン」展カタログ、写真提供:高嶺格

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フェスティバル全プログラム(詳細プログラムPDF

また、同フェスティバルは、一部の作家の作品からそれぞれ事故直後と数年後に制作された作品を並列して展示している。前者が事故後の直接的なアクションや記録行為が特徴的である一方で、後者あるいは継続して制作されている作品は、その後立ち現れた問題提起に対してその背景を掘り起こすアプローチからの表現へ移行した一側面を表出させようとする意図が見られた。
筆者が今回のフェスティバルで評価したい点は、連日深夜までアーティストや主催者を交えて「福島以前/以降の日本」について観客が考え、活発な語り合いができる集中した時間(10日間)と場を創出した点である。アーティスト・トークやシンポウムに丁寧に時間が割かれたことによって、日を追うごとに観客側も問題を内面化し、フェスティバルへ能動的に参加するようになった側面もあったのではないか。特権的な芸術制度のコードと演劇/音楽/マンガ/美術といった分野の垣根を意識的に取り払い、多様な表現から共通点を見出そうとしたことも影響しているだろう。さらに、トークでは度々、福島以後にアーティストは何ができるのか、という問いに呼応するように、反原発運動の直接的な抗議行動が果たして日本で機能しうるかという問題について指摘があった。田口行弘氏がHAU2の中庭で展開した《Confronting Comfort #2》は個々人の発言力を促進し、フェスティバル参加者が福島以後の進行形の問題に向き合う態度を示す場として機能したのではないかと考える。
余談になるが、同フェスティバルの後、筆者はデュッセルドルフでドイツの演劇グループvorschlag:hammerによる『森の呼吸』(Düsseldorfer Schauspielhaus、2014年5月23日−25日、28日−31日、6月1日、全8回公演)を鑑賞した。同作品は、母国から遠く離れてラインラント(ドイツ西部ライン川沿岸一帯。デュッセルドルフはドイツ国内で最も日本人が住む地域として知られる)に住む日本人がテーマだ。舞台設定は近未来。演劇というよりはパフォーマティブで観客を巻き込んだ巨大なインスタレーションのような演出で、突然変異した日本、あるいは日本という国の存在のあやうさを印象づける。福島後に吹き出した日本社会の問題に対するアーティスティック・リサーチの成果のようにも受けとることもできる。現在の日本社会を批判する鋭い眼差しが外国の芸術界からも向けられ始めている。

HAU「ジャパン・シンドローム──福島以後の芸術と政治」
http://english.hebbel-am-ufer.de/programme/festivals-projects/japan-syndrome/