第20回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞も受賞した、松本大洋の「自伝的作品」とされる『Sunny』は、松本がデビュー以来温めてきた作品だ。本作の、他のどの作品とも違う特異性を探る。
『Sunny』表紙 (左から第3集、第1集、第2集、第6集)
極端にパースを歪ませた魚眼レンズのようなアングル。Gペンではなくミリペンを使うことによって生まれる繊細なタッチ。フリーハンドで描かれる柔らかな枠線。そして、フランスのマンガ家ジャン・ジロー(メビウス)を彷彿とさせるダイナミックな画風。
『花男』『鉄コン筋クリート』『ピンポン』『GOGOモンスター』などの作品を次々に上梓してきた松本大洋は、極めて特異な存在だ。読み手の想像力を否が応にも掻き立てる独特の世界観は、他の追随を許さない。その才能は同業者にも刺激を与え、『ONE PIECE』作者の尾田栄一郎は、自身の画集『ONE PIECE COLOR WALK5—尾田栄一郎画集 SHARK』(集英社、2010年)で松本と対談し、「ああ、天才っているんだと驚きました」と最上級の賛辞を贈っている。彼はマンガというフィールドにおけるクリエイターズ・クリエイターなのだ。
描かれるべくして描かれた自伝的作品
松本にとって、親元で暮らせない子供を預かる児童養護施設「星の子学園」を舞台にした『Sunny』は特別な作品だ。彼はコミックナタリーのインタビュー(註1)で、構想はデビュー当時から温めて来たと語っている。しかし実際にペンをとるまでには20年以上の年月を要した。なぜなら松本自身が施設育ちであり、当時の体験に自分の中でうまく折り合いをつけられなかったからだ。しかし同時に彼は、逆に歳をとりすぎてしまうと郷愁に捉われてしまい、客観的に俯瞰できなくなるであろうことも分かっていた。40歳を過ぎてようやく機は熟し、『Sunny』は描かれるべくして描かれたのである。
施設に預けられたときに髪の毛が真っ白になってしまった優良不良問題児、春男(ハルオ)。黒縁メガネの奥から諦観しきった表情で状況を見つめるクール・ガイ、静(せい)。不良仲間とつるみ喫煙もするが実は新聞配達をしている勤労少年、研二(けんじ)。そんな彼を密かに想う施設のマドンナ的存在、めぐむ。いつも四葉のクローバーを探している天然ネアカキャラ、純助(じゅん)。上半身裸という異様な風体でいつも歌を歌っている大男、たろう君。作品に登場する少年少女たちは施設にいた実在の子供たちがモデルであり、ひとつひとつのエピソードは実際の体験がバックボーンになっている。まさに松本大洋エキス100%!
過去の松本作品のどれとも似ていない『Sunny』の特異性
とはいえ、『Sunny』が松本大洋の集大成的な作品かと問われると言葉に窮してしまう。その立ち位置はやや異端ではないか、と思えるからだ。雑誌BRUTUS 2012年3月1日号「マンガが好きで好きでたまらない。」(マガジンハウス)で、松本は『魔女』や『リトル・フォレスト』で知られるマンガ家の五十嵐大介と対談をしているが、その中で五十嵐は「僕は大洋さんの『Sunny』を読みだした時、最初読み方が分からなかったんです」と告白し、松本は「実は何人かに、入りづらかったと言われましたね」と苦笑している。これは非常に興味深い指摘だ。彼の言う「入りづらさ」こそが、過去の松本作品のどれとも似ていない『Sunny』の特異性なのではないか。
おそらくその「入りづらさ」の理由は、登場人物たちの心情が言葉で示されないことにある。過去の松本作品には、複雑な内的葛藤を抱えた主人公たちの気持ちを、読者に向けて代弁してくれる賢者のようなキャラクターが存在した。『ピンポン』にはかつてバタフライジョーと呼ばれた卓球部顧問が登場し、口数の少ない天才卓球少年スマイルの心情を解説。『鉄コン筋クリート』にはじっちゃと呼ばれる老人が登場し、決して本音を語らない不良少年クロが抱える闇を暴いた(『クロは、あの年で、生きることに絶望しとる』なんていうセリフまで言わせているのだ!)。
だが、『Sunny』にはその代弁者が存在しない。多感な少年少女たちの群像劇という設定からして、過去に例をみないほどにセリフ量は多いのだが、その心の奥にひっそりと隠してある感情を切り取ってくれる言葉は提示されない。少年少女たちの想いを語るのは言葉ではなく“絵”そのものだ。施設のそばに置いてある廃車サニーの運転席がその源泉であり、子供たちは動かない車のハンドルを握っては、豊かなイマジネーションを巡らせる。我々読者はそのイマジネーションから、彼らの想いをしっかりと受け止めなければならない。作品が要求する高度なやりとりが、若干の「入りづらさ」に起因している。
きっと松本大洋は、極限までに引き上げられた純粋なマンガ的表現が、読むものに確実に伝わるはずだと確信しているのだろう。『Sunny』は彼の自伝的作品であると同時に、過去のどの諸作よりも読者を信頼して描かれた作品なのである。
(脚注)
*1
https://natalie.mu/comic/pp/Sunny
(作品情報)
『Sunny』
作者:松本大洋
連載開始年:2010年
連載媒体:月刊IKKI、月刊!スピリッツ
出版社:小学館
巻数:全6巻
© Taiyo Matsumoto / Shogakukan