前回紹介した「アニメージュ」の特徴に加えて、今回は同誌の持つほかの側面へ踏み込んでいく。さらに1980年代前半、アニメブームに乗じて続々と創刊されたアニメ雑誌が、ブームの衰退とともにどのような道を辿るのか。そしてそんななか創刊された「月刊ニュータイプ」を軸に、当時のアニメとアニメ雑誌を取り巻く状況をみていきたい。

「月刊ニュータイプ」1985年4月号(創刊号)表紙

啓蒙的な姿勢も併せ持つ「アニメージュ」

前回は「アニメージュ」が「ヤング向けのビジュアル誌」「キャラクターをタレントのように取り扱う」というコンセプトで創刊されたという点を縦軸に、1984年いっぱいでアニメブームが収束するまでのアニメ雑誌の状況を俯瞰した。
だが「アニメージュ」という雑誌がその2点でだけで成立しているかといえば、それもまた間違いである。初期の「アニメージュ」はまた別の側面も持っていたのである。
例えば創刊号(1978年7月号)から1981年8月号まで全38回にわたって「アニメーションの歴史」(望月望夫・伴野孝司)が連載されている、この連載をもとに大幅に加筆された書籍が『世界アニメーション映画史』(ぱるぷ、1986年)である。また同じく創刊号からの連載に「えみこ・伸一のアニメ塾」があり、この連載はおかだえみこと鈴木伸一が、自主アニメの制作方法を指南する内容で、こちらも1981年12月号まで連載されている。
また「アニメージュ」が先鞭をつけたアニメスタッフの紹介記事に注目してもいい。同誌は「アニメ人物マップ」「人物紹介INSIDE研究」「プロフェッショナル探訪」などさまざまなタイトルで、ビジュアルも交えつつ注目すべきスタッフの仕事を紹介するというだけでなく、なにが魅力なのかを言語化し具体的に価値付けていったのである。
こうした記事の向こう側に見えるのは、アニメを一種の「教養」として読者に提示しようとする姿勢だ。
「テレビまんが」「漫画映画」は「アニメ」と呼ばれるようになったこの時期、「アニメ」は若者のホビーのひとつとして各種メディアで取り上げられるようにはなった。しかし、それは世間から見れば「一時の風俗」にしか過ぎない。そこに対して「アニメージュ」は、「アニメ」というものの歴史やメディアとしての魅力やつくり手のクリエイティビティ(あるいはクラフトマンシップ)を取り上げて、「アニメというのは素晴らしいものである」といいうる理論武装のための“武器弾薬”を供給していたといえる。
このほかにも同誌は、幻といわれた戦中のプロパガンダアニメ『桃太郎 海の神兵』が1982年に発見、上映されたときには、「『海の新兵』の技術と内容をいまどう“見る”べきなのか?」と題して高畑勲監督、アニメーターの大塚康生、それに若手アニメーター、大学生などを交えて討論会を行い、その様子を記事にしている。あるいはアニメーション作家、ユーリ・ノルシュテインの『霧の中のハリネズミ』(当時は『霧につつまれたハリネズミ』として紹介)、『話の話』を1983年3月号、同年5月号でそれぞれ紹介したり、1984年1月号に「50年、世界の傑作〈動画〉展」と題して、1950年代に制作された世界の長編アニメーションを特集したりしている。
これはつまり表向きは「僕らの好きなアニメ」を特集しつつ、その裏側には「これもアニメなんだぜ」というカウンターが忍ばせてあったということだ。これは「知りたいことに応える」だけでなく、「知るべきこと」そのものも雑誌がリードしていた時代の産物ともいえる。
だがアニメブームが去り、アニメ雑誌の読者に響くようなヒット作が見つけにくくなった状況で、こうした啓蒙的姿勢は次第に薄まっていく。「アニメージュ」はアニメ雑誌のなかでは唯一「広島国際アニメーションフェスティバル(註1)」のレポートを掲載しているが、これはこうした過去の伝統が引き継がれていることの名残といえる。

アニメブーム末期に創刊された「月刊ニュータイプ」

「月刊ニュータイプ」の創刊メンバーで現在はKADOKAWA代表取締役専務である井上伸一郎の回想録『MAMORU MANIA』(トイズプレス、1996年)で井上は、1984年一杯でアニメブームが去ったという状況を次のように回想している。

「個々の作品についたファンは、その作品から『次の何か』を求めるわけでもなく、作品の終了とともにアニメというグラウンドから去っていった。『クラッシャージョー(引用者註:ママ)』のファンは『クラッシャージョー』のファンでしかなく、『うる星やつら』のファンは『マクロス』を求めることをしなかった。
’70年代後半のアニメファンが無意識のうちにもっていた、『アニメ時空の共時性(シンクロニシティ』——『海のトリトン』や『ガッチャマン』でアニメにハマッた少年少女が、やがて『ヤマト』へ走り、『ガンダム』でカタルシスを得る——といった、作品を超えたファンレベルのアニメのムーブメントは、その流れに停滞を生じていた。」(前掲書)

「月刊ニュータイプ」の創刊準備はそのようなアニメブームの末期から始まった。現在俗に“3大アニメ誌”といった呼ばれ方で括られる「アニメージュ」「アニメディア」「月刊ニュータイプ」だが、「アニメージュ」の創刊から「月刊ニュータイプ」の創刊まで約7年のスパンがあり、それはほとんどアニメブームの始まりと終わりと重なるほど時間的に離れているのである。
「月刊ニュータイプ」が創刊されるまでの経緯も『MAMORU MANIA』に詳しい。要約して紹介すると次のような流れになる。
当時、角川書店のテレビ雑誌「ザテレビジョン」では富野由悠季監督の『重戦機エルガイム』が毎週2ページで特集されていた。そこでフィーチャーされていたのが同作のキャラクターデザイン、メカデザインを一手に引き受けていた永野護だった。この流れからムック『重戦機エルガイム1』(角川書店、1984年)がリリースされヒット。さらに永野護をフィーチャーした『重戦機エルガイム2』(角川書店、1985年)を準備中、担当編集であった佐藤良悦に、当時社長であった角川春樹から編集長としてアニメ誌創刊が命じられた。
角川書店は1983年の『幻魔大戦』からアニメ映画制作にも手を出しており、1985年には『カムイの剣』が控えていた。そのためにアニメ雑誌を創刊しようというのである。一方で「ザテレビジョン」を通じて富野由悠季、永野護をはじめとするクリエイターと接点ができていた佐藤にとっても専門誌の創刊は好機であった。
井上は第1回の編集会議の様子を次のように記している。

「『ザテレビジョン』のアニメページ、SFX映画特集を通して、良悦が知遇を得ていたスタッフたち。当時『アニメージュ』(徳間書店)や『アニメック』で活躍していたフリーランスの大物、精鋭たちが「新しいもの」を求めて、まるで秘密結社の集会のごとく集まってきたのだ。みんな『ニュータイプ』という雑誌に、新たな可能性を感じていた。その末席に座らせてもらえたことに、私は無上の喜びと興奮を覚えていた。」(前掲書)

「月刊ニュータイプ」が目指していたのは、「アニメージュ」よりもさらに一歩進んだビジュアル雑誌だった。版型も普通のA4判よりも左右に大きいA4L判という「anan」や「non-no」といったファッション雑誌と同じ版型を選んでいる。その誌面を活かすため、描き下ろしの版権画の数も多かった(ちなみに1998年に「アニメージュ」が、2010年には「アニメディア」がリニューアルし、「月刊ニュータイプ」と同じ判型になっている)。
内容面の特徴は、創刊号の表紙に書かれた「THE MOVING PICTURES MAGAZINE」の文字が象徴している。アニメを軸にしつつも、海外の特撮(当時はSFXと表記されることが多かった)映画やドラマなど、広く映像文化が好きな人に向けて情報を発信していこうという姿勢が強かった。初期の「アニメージュ」が「啓蒙的姿勢」をサブテーマ的に忍ばせていたとするなら、初期の「月刊ニュータイプ」は「その時旬の映像作品」をサブテーマに設定した雑誌であり、その分だけより若者雑誌の色合いが濃かった。だが、これもまた時代とともに次第に変わっていくことになる。
アニメブームの終焉は、アニメ雑誌の休刊という形でも現れた。1985年に月2回刊行となった「マイアニメ」(秋田書店、1981年創刊)は1986年に休刊。「ジ・アニメ」(近代映画社、1979年創刊)が1987年1月号で休刊し、同年2月には「アニメック」(ラポート、1978年創刊)も休刊した。
次にアニメ雑誌に大きな変化が生まれるのは1990年代前半になってからである。


(脚注)

*1
広島で2年に1回開催されている国際アニメーション映画祭。第1回は1985年に開催された。アヌシー、オタワ、ザグレブと並ぶ世界4大アニメーションフェスティバルのひとつ。世界各地から応募された短編アニメーションによるコンペティションなどが行われている

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