2018年、日本のアニメ雑誌御三家のなかで最も古い「アニメージュ」が、創刊40周年を迎える。これを機会に、3回にわたって、アニメのあり方とともに変わっていくアニメ雑誌の変遷を見ていく。第1回の本稿では、アニメ雑誌の起こり、「アニメージュ」とはどのような雑誌だったのか、その後のアニメ雑誌の状況を紹介する。

「アニメージュ」1978年7月号(創刊号)表紙

日本におけるアニメ雑誌の成り立ち

アニメ雑誌はどのように始まったのか。
日本最初のアニメーション専門誌は「ファントーシュ(FANTOCHE)」で、1975年10月に創刊された。1975年にアヌシー国際アニメーション映画祭に赴いた、東京アニメーション同好会(アニメーターを中心に発足した研究団体。略称「アニドウ」)のなみきたかしが、現地の専門誌「FANTASMAGORIE」を見たことがきっかけだった。「FANTASMAGORIE」は、アニメーション黎明期の作家、エミール・コールの作品名で、別名である「ファントーシュ」をその雑誌名に選んだという。同誌は2号から編集体制を変え、1977年の7号まで刊行された(その後、復刊して1979年から1980年まで4号刊行された)。アニメーション作家の作品を中心に取り上げつつ、テレビアニメなどにも触れる内容だった(註1)。
またアニドウは、機関誌「FILM1/24」も発行していた。商業出版物ではないが、貴重な資料・インタビューが掲載されており、アニメの出版物の歴史を辿る時に欠かせない存在だった。
当時のアニメーションファンの活動をベースにしたこうした動きがある一方で、1970年代後半になると出版業界のアニメへの関心が高まる状況が生まれていた。

「アニメージュ」創刊とそのあり方

『BEST OF アニメージュ アニメ20年史』(徳間書店、1998年)に掲載された「アニメージュの歩み」(筆者はリスト制作委員会の原口正宏)に当時の状況がコンパクトにまとめられている。

当時、日本の商業アニメーションを取り巻く状況は劇的な変化を遂げている真っ最中だった。前年(引用者注:1977年)に劇場公開された『宇宙戦艦ヤマト』の空前のヒットにより、アニメファンという固有の価値観を持つ層の存在を認知した出版業界が、新旧のアニメ人気を扱った特集や単行本の企画に積極的に乗り出したのだ。朝日ソノラマ、みのり書房、そして弊社(引用者注:徳間書店)などにより、’77年8月から翌年にかけて矢継ぎ早に発行された『ロマンアルバム』『テレビアニメの世界』『ランデブー』といった雑誌型特集本(ムック)の数々。アニメファンはそこに掲載された美しい場面写真やインタビュー記事、貴重な資料に胸を踊らせ、作品への感動を反芻した。それは同時に、制作の舞台裏を見るという新鮮な体験でもあった。
ここに作品の送り手(制作者)と受け手(視聴者)の2者を繋ぐ第3者、すなわちアニメマスコミ(情報媒介者)が誕生する。それまで作品の裏方として決して脚光を浴びることのなかった業界内部が、まるで芸能界のようにクローズアップされ始めたのである。
そして、そんな特集本ラッシュの当然の帰結となったのが、『アニメージュ』創刊だった。その背景には、『ヤマト』の続編が’78年夏に公開決定、というニュースも大きく影響していただろう。今や、過去の作品のメモリアルだけでなく、新作の情報をもいち早くファンに送り届けられるハイペースな情報誌=月刊誌が必要とされる段階に来ていたのだ。

文中に出てくる「アニメファンという固有の価値観を持つ層」は主に中・高・大学生。それまでは小学生で卒業するものと思われていた「テレビまんが」「漫画映画」が、ここからヤングのホビーである「アニメ」として、新たな価値観を持って流通し始めたのであった。かくして1978年5月に「アニメージュ」は創刊された。創刊編集長の尾形英夫が、ANIMATIONとIMAGEを融合させて雑誌名を決めた。
では「アニメージュ」とはどのような雑誌だったのか。
尾形は徳間書店役員に対し「アニメージュ」の編集方針を4点挙げたという。それを要約しつつ紹介すると次のようなものだった(註2)。
 (1)関連の情報を網羅し、ヤング層をターゲットとする。
 (2)ビジュアル性を重視したタウンマガジン。
 (3)声優のアイドル性を重視。
 (4)投稿により読者の紙面参加を歓迎する。
またスタジオジブリのプロデューサーとして知られる鈴木敏夫は、アニメージュ創刊時の副編集長(のちに編集長)で、創刊にあたってアニメファンの女子高生に聞き取りを行ってわかったことをこうまとめている。

アニメファンはアニメのキャラクターが好きだということ、キャラクターの絵を描いた人や演出している人、声をあてている人も好きなんだということ、それからアニメには埋もれた名作があるんだということ。これだけ学んだんです。
僕が女子高生から話を聞いて思い浮かべたのは芸能誌の『平凡』と『明星』でした。要するに紙に描かれたヒーローやヒロインと、それを作り上げた人を取り上げつつ、同時に作品を紹介していけばいいと。(『BEST OF アニメージュ アニメ20年史』)

アニメ雑誌の創刊が続いた1980年代前半

「アニメージュ」のヒットは、後発の雑誌にも影響を与えた。アニメージュと同じA4の判型だった「ジ・アニメ」(近代映画社、1979年創刊)、「マイアニメ」(秋田書店、1981年創刊)、「アニメディア」(学習研究社、1981年創刊)は、それぞれの雑誌の個性はあるものの、多かれ少なかれ尾形や鈴木が考えた「アニメ誌のあり方」の枠内で制作されていた。ただし「アニメディア」は、価格も含め対象年齢が若干低めに設定されており、その方向性は現在も受け継がれている。
この「ヤング向けのビジュアル誌」「キャラクターをタレントのように取り扱う」という枠組みが、アニメ雑誌が映画雑誌のようにレビューを大きな柱とする媒体にならなかったことの一因と考えられる。また、製作サイドから絵素材を借りなければビジュアル重視の誌面がつくれないという縛りも、アニメ雑誌のあり方を大きく規定することになった。
一方、「月刊OUT」(みのり書房、1977年創刊)と「アニメック」(ラポート、1978年創刊)はB5判の雑誌だった。想定読者はA4判アニメ誌と大きく変わらないものの、雑誌のテイストはかなり異なっていた。
「月刊OUT」はサブカルチャー誌として創刊されたが、創刊第2号に『宇宙戦艦ヤマト』を特集しヒットをしたことをきっかけに、次第にアニメ色を濃くしていった。アニメを題材にしたパロディが人気を集める一方で、ジャーナリスティックな視点の記事も掲載されていた。
「アニメック」は、アニメグッズの販売を行っていたラポートが商品カタログ新聞を企画したことが発端となって創刊された。当初は「MANIFIC(マニフィック)」という誌名で月刊誌としてスタート。第5号で「アニメック」と誌名を改め、第6号より隔月刊として書店流通を始めた。改名は、ラポートが展開するアニメグッズショップの店名に誌名を揃えたため。その後、1983年から月刊化された。
「アニメック」は、設定資料を多く掲載したほか、放送・上映後の作品をムック的な切り口で特集するところに特徴があった。個性的な連載も多く、複数の書き手が持ち回りで担当した時評「アニメックステーション今夜もアニメでよろしくね」があったほか、特撮番組の魅力に迫った「日本特撮映画史・SFヒーロー列伝」(池田憲章)も連載されていた。
1977年の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』の公開をきっかけに盛り上がったアニメブームのなか、以上のようなさまざまなアニメ雑誌が登場したが、1984年いっぱいでアニメブームは収束する。1980年代後半のアニメ雑誌はまた新たな局面を迎えることになる。


(脚注)

*1
「アニメーション思い出がたり」その88「ファントーシュ」のこと(五味洋子)
http://style.fm/as/05_column/gomi/gomi88.shtml


*2
『あの旗を撃て! アニメージュ血風録』(尾形英夫、オークラ出版、2004年)
参考:『アニメックの頃… 編集長(ま)奮闘記』(小牧雅伸、NTT出版、2009年)
※(ま)は丸の中に「ま」。