メディア芸術のひとつであり、いまや現代美術の一大ジャンルとなっているメディアアート。しかし、何をもってメディアアートと定義するかは難しい。本連載では、「メディアアートとは何か」「メディアアートの視点から何が見えるか」を探っていきます。
藤幡正樹《Portray the Silhouette》 2006年
撮影:木奥恵三
写真提供:NTTインターコミュニケーション・センター [ICC]
メディアアート、メディア芸術の定義と命名の経緯
メディアアートと呼ばれる芸術分野は、近年ではメディア芸術という呼称とともに、その言葉を耳にしたり、それに類する作品を目にしたりする機会もますます増えているように思います。しかし、メディアアートとメディア芸術は、その定義や命名の経緯としてもまったく異なるものです。たとえば、文化芸術基本法によれば、メディアアートは、「コンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」として、その他の芸術と区別され、マンガ、アニメーションとともにメディア芸術に定義されているものの一部をなしています。しかし、「コンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」のすべてがいわゆる芸術から区別されているのか、あるいは何によって区別されなければいけないのかという点については曖昧です。
現代美術のいちジャンルとしても、テクノロジー・アートや、メディアアートという言い方があります。前者は60年代、日本では高度経済成長後期から、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会へといたる期間に台頭した動向であり、後者は80年代後半以降に、ヴィデオや、コンピュータ・グラフィックスの隆盛、パーソナル・コンピュータの普及からインターネットおよびスマートフォンの爆発的な普及などを背景として、現在にいたるまで、同時代のテクノロジーやメディアの発展とともに展開されている動向です。しかし、前者は70年代に入ると社会的な状況にともない凋落し、技術によらない表現による動向に取って代わられていきました。それゆえ、テクノロジー・アートは一時的な現象として一過性の流行のように捉えられ、不必要に軽視されていたことも否めません。当時は、技術の発展に原因する、人間の手仕事による技能の失権などが問題にされ、同時代の美術の主流としてもなかなか認識されず、美術史のなかでも位置付けしにくいものとして扱われていました。それは、現在のメディアアートが、表現内容における技術偏重的な傾向を否定的に捉えられることが多いことと重なります。しかし、当時少なくないアーティストが、そうした同時代の新しいテクノロジーに関心を向け、そこに参入したのです。
定義根拠となる条件の不確定さ
これからこの場で継続的にメディアアートについて、それがどのような芸術であるのかということを、いろいろな側面から考えていきます。私自身、学芸員として1996年からメディアアートと呼ばれる表現の現場に関わっていますが、その間にもメディアアートそのもののあり方や捉え方は変化し続けており、いまだその定義を更新、あるいは拡張し続けていると言っていいでしょう。それは、同時代の社会的なテクノロジー状況の変化によって、表現の道具、手法、手段が更新されるといったことに起因するもので、メディアアートを支える基盤となるテクノロジーが変化することによって、メディアアートをとりまく様相もまた変わっていくのです。アーティストや観客、批評やキュレーションといった現場においても、その捉え方はさまざまであり、なにかひとつの定義に収斂するものではありません。現在では、アート、エンターテインメント、エンジニアリング、など幅広い領域で、その基盤となるテクノロジーが共有されており、メディアアート的な手法が各領域で展開され、より一般的なものになっています。それゆえ、どのような芸術がメディアアートと呼ばれるのか、ということが捉えにくくなっているという現状があるのです。
ある芸術ジャンルが、ある名称で呼ばれることによって、ある定義が認識、了解されることは、そのジャンル自身が持っている特徴や条件によって、ある程度は自明となっています。たとえば、ヴィデオ・アートとは、ヴィデオカメラを使ってリアルタイムに映像を扱ったり、あるいは記録された映像を編集したり、といったいくつかの手法はありますが、ヴィデオというシステムを基盤にした表現であると言うことができます。また、サウンド・アートというジャンルは、音声の記録再生テクノロジーを使用したり、動く彫刻のようなキネティックなものがあったりとさまざまではありますが、音による芸術、あるいは、音を主体にした表現であることはある程度明確です。ソフトウェア・アートやインターネット・アート(註1)という呼称も同様です。しかし、メディアアートは、たとえば、先に挙げた「コンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」あるいは「同時代のテクノロジーを用いた芸術表現」という言い方はできるかもしれませんが、使用されるテクノロジーについても、それによって何が素材や要素となるかといったことも、明確に定義されてはいません。それは、メディアアートが、上記のようなメディア・テクノロジーを使用したアートであると定義されながら、メディアそれ自体に何が使用されるか、どのように使用されるか、どのような感覚に訴えるものなのか、ということが規定されておらず、さまざまな要素がありえるからです。
未評価の技術による芸術的可能性
昨年(2018年)に、多摩美術大学教授の久保田晃弘さんとの共著で『メディア・アート原論』(フィルムアート社)という本を上梓しました。そこでも、近年、メディアアートという言葉が、より社会に浸透してくるにつれて、その実態はますます捉えがたいものになってきている、ということが出発点になっています。その序論にある「メディア・アートはなぜそう呼ばれるのか」という問いは、メディアアートと呼ばれるための条件とは何なのかを考えるためのものです。これまでどのような作品がどのように解釈されてきたか、その歴史を踏まえながら、過去のメディアアート登場以前の作品の意味をあらためて捉え直すことによって、現在のさまざまな領域へ拡張するメディアアートについて考えることができます。
ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、1936年に著した彼の主著であり、映画や写真といった複製技術にもとづく当時の新興技術が、芸術と人間の関係にもたらした変化について論じた「複製技術の時代における芸術作品」の中で、「むかしから芸術のもっとも重要な課題のひとつは、その時代においてはまだ十分な満足を与えることができないようなあたらしい需要を作りだすことであった」と述べました(註2)。それは、先の本でもふれていますが、メディアアートとは、これまでの芸術をつくり上げてきた伝統的な方法によらない、テクノロジーを介した、いまだ芸術とはみなされていない、あらゆる例外的な表現を内在したものであり、これからの芸術表現の可能性を指し示すものの謂いだということです。それは、同時代における社会状況を作品に反映し、時代とともに変化し、更新されていくもので、アーティストに限らず技術者や科学者らとの協働によって、それまでとは異なる素材、手法、概念による表現を新たに生み出し、表現の可能性を模索していくものだと言うことができるでしょう。
メディアアーティストの藤幡正樹さんはこう言っています。
「最新のメディア技術を駆使した作品は, ときとして技術のデモと見分けがつかないものです. アトラクションは技術を見せないようにして, マジックを行ないますが, メディア・アートは, それが技術のデモではないことを表明するために, 技術を目に見えるものにする必要があります. つまり, メディア・アート分野では, 技術そのものが作品のテーマとならざるを得ないのです. 技術について考えることは近代以降の社会のあり方について触れることになるので, 近代とは何かという問題を相手に作品制作をしなくてはなりません. なので, 技術が最新ではなくなった時にやっと大衆はそれがデモではなかったことが判るようになるわけです.」
(OS10 アートとメディア・テクノロジーの展望ICC オープン・スペース10年の記録 2006-2015
http://www.ntticc.or.jp/ja/feature/os10/2015/#electric-shadows_column)
技術の一般化に伴う制作側の意識変化
メディアアートは、芸術作品が社会的に機能し、また作品を媒介にして観客が参加者となるなど、同時代のテクノロジーが可能にした先駆的なさまざまなアイデアを提示しました。そうした表現はいまやメディアアートといったジャンルを超えて現代の芸術表現というもの一般に用いられる手法となっています。それは、かつてのフィルムやヴィデオなどがそうだったように、これまで私たちの日常から離れた技術であったものが、日常的に使用可能なメディアになることで、誰もが普通にそれを表現のための手段とすることができるようになったことに起因します。ただし、そうなった地平では、技術が制作の手段となることへの意識的なアプローチは、かならずしもなされなくなっていきます。つまり、そこでは「なぜその技術を使用して表現を行うのか」といった技術自体への言及に根ざした表現であったこれまでのコンピュータ・アートやヴィデオ・アートなどとは異なる状況が起こっているのです。たとえば、インターネットの登場にともない、ネット・アート、ソフトウェア・アート、といった動向が登場しました。現在では、インターネットの一般化以後の状況を背景に展開される「ポスト・インターネット・アート」は、より現代美術の領域に接近しています。道具や手段が共有され、あたりまえのものになるにつれて、使用されるメディアによって規定されるジャンルというものが、あまり意味をなさなくなっていきます。しかし、依然として「技術そのものが作品のテーマ」となった表現は存在し、それゆえにこそ、そうした表現をメディアアートと呼んでいく必要があるのだと思います。現在のテクノロジーの様相がアートを変えつつあるなかで、メディアアートとは、そうしたテクノロジーを批評的に捉えかえしていくための営みなのだと言えるでしょう。
次回以降は、メディアアートが扱うテーマについて取り上げていきます。
(脚注)
*1
90年代初頭にインターネットが一般化するのに伴って勃興した。ウェブ・ブラウザを含むソフトウェアやネットワークといった新しいメディアの芸術的可能性を模索するもの。社会的、政治的なアクティヴィズム的性質を持つものもあり、ソフトやネットの機能や意味を問い直すような表現を特徴とする。
*2
ヴァルター・ベンヤミン「複製技術の時代における芸術作品」『複製技術時代の芸術』高木久雄・高原宏平訳、佐々木基一編、晶文社、1999年、p.41