マンガ雑誌黄金期をよく知る編集者から、編集部の裏側を聞き出すコラム。前回に引き続き、今も現役のコミック編集者として活躍する佐藤敏章(さとう・としあき)に、新人マンガ家を救った増刊号の存在や小学館の雑誌づくりなど、マンガ編集者のアレコレを聞いた。

少年サンデーSpecial、表紙

『少年サンデー スペシャル増刊号』を編集

1987年には、高橋留美子の新連載『らんま1/2』(1987~96)が始まり、88年にはゆうきまさみと出渕裕を中心とした創作集団ヘッドギアによるプロジェクト『機動警察パトレイバー』のマンガ版(1988~94)がゆうきの手でスタートする。
それでもなお、部数は下げ止まることなく、1989年には140万部まで落ちこんでしまった。“少年マガジンをめざす”という新編集長の方針も空振りで、鳴り物入りだった『仮面ライダーBlack』や『まことちゃん』(平成版)もそれぞれ1年ほどの短期で連載を終えている。
佐藤はこの時期に増刊から離れ、本誌の進行と、マンガ班の遊軍のような仕事をしていた。

「新編集長は、少し尖った作品やコメディ系の作品を描いていた若手は切ると言い出したんです。切った若手を放っておけばよそが黙っているはずがないんです。すぐに取られてしまいますよ。そこで、彼らの受け皿として新しい増刊をつくらせて欲しいとお願いしたんです。『少年サンデー スペシャル増刊号』というタイトルで、年に4回出すつもりだったんだけど、作家をかえてマガジン風にした月刊の『週刊少年サンデー増刊号』の売れ行きが、目に見えて悪くなってしまったんで、途中で“佐藤、作家返せ”と言われて、結局、2号どまりでした。評判はよくて売れたんですけどねえ」

1988年5月10日付の第1号のラインナップは、みず谷なおき、島本和彦、克・亜樹、楠桂、中津賢也、安永航一郎……青山剛昌の名前もある。古典的なマンガの王道ではないが、90年代以降の「週刊少年サンデー」や小学館のマンガ誌を支えるメンバーが集結していたことになる。

「僕は『サンデー』(週刊少年サンデー)は『サンデー』でいいと思うんです。ところが、昔から編集部は『マガジン』(週刊少年マガジン)を意識してしまうんですね。まあ、『少年倶楽部』以来の伝統も、エンターテインメントづくりの実績もありますからね。意識するのもわかるけど、そんな必要はないんですよ。『マガジン』にちばてつや先生の『あしたのジョー』(1968~73)があって、『サンデー』には小山ゆうさんの『がんばれ元気』(1976~81)がある。それぞれ違った作風ですよね。むこうはハードで、こっちはソフト。『巨人の星』(1966〜71)と『タッチ』もそうでしょう。それが雑誌のカラーなんだから、別にいいはずなんです。ところが、編集者はどこかで『マガジン』を意識してしまうんです。創刊以来部数で『サンデー』が優っていたのに、内田勝さんが編集長時代の『マガジン』に追い越された、というショックが忘れられないのかもしれません。とにかく、『サンデー』の編集者が『ジャンプ』(週刊少年ジャンプ)を意識することはないんです。あくまでもライバルは『マガジン』で、『マガジン』のマンガが王道で、僕が『少年サンデー スペシャル増刊号』に載せたようなマンガは王道じゃないと思われていたわけです」

それにしても「少年サンデー スペシャル増刊号」などがなければ青山剛昌は他誌で『名探偵コナン』を描いていたかもしれない、と考えてみるとギリギリの選択だったかもしれない。

「それはないと思いますよ(笑)。青山さんは小学館コミック大賞出身で、絵も可愛いし、『YAIBA』(1988~93)を本誌で描いて、そこそこ人気も出ていたはずです。まじめで熱心でしたからね」

石ノ森章太郎『仮面ライダーBlack』1巻

小学館にはマンガ家の専属制度がない

佐藤のもうひとつのこだわりは、当時の小学館独特の新人マンガ家の育成システムにあった。「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年マガジン」が採用していた専属制によるベーシック支払いというシステムがなかったのだ。専属制によるベーシック支払いは、他誌では描かないという契約を結ぶかわりに、契約期間内は仕事がなくても専属料として最低限の支払いはする、というものだ。ほかに、新人に対しては作品ができ上がるまでのあいだ、「奨学金」というかたちで支払いをすることもある。

「小学館には新人の面倒を見るシステムがなかったんです。新人賞はあっても、そこから出てきた人を育てて、食えるように面倒見てあげるシステムがなかったんです。よそは、専属制もあるし、本誌のほかに月刊誌があって、そこが受け皿なんですよ。『サンデー』の場合、月刊誌はあってもあくまでも本誌の増刊号で、編集部も共通だから思い切ったことができない。それで、僕が副編集長になったときに考えたのは、新人のフォローをなんとかしようということだったんです。ただ、会社からは専属制にはできないと言われるんです。よそはどこから専属料を出していたのかなあ、編集経費には乗せられないから、部の予算なんでしょうかね。そこで、新人のなかである程度見込みのある人が持ってきた原稿は最終的に僕が見て、いいと思った時点で掲載が決まらなくても原稿料の半分を払う、というかたちにしたんです。載ったらあとの半分を払う。マンガ家さんも担当者もよろこんで、始めたとたんにロッカー2つ分くらいの原稿が溜まってしまいました」

中には毎月のように原稿を持ってくる新人もいた。ヤンキーマンガ『今日から俺は!!』(1988~97)でブレイクした西森博之もそのひとりだ。

「彼は増刊出身で、毎月描いて持ってくるからロッカーの中に4本くらい原稿が溜まったことがありました。“ロッカーの原稿、何とかしろ”と編集長に言われて『少年サンデー増刊号』に読み切りで掲載して、そこからですね。僕は担当じゃなかったけど『今日から俺は!!』もはじめは増刊で連載してそこから本誌に移籍したんです。その頃からですかね、新人の新連載の場合には、準備金支給するようになったのは」

90年に佐藤は古巣の「ビッグコミック」に異動したが、この頃から、藤田和日郎の『うしおととら』(1990~96)、あだち充の『H2』(1992~99)、青山剛昌の『名探偵コナン』(1994~)、高橋留美子の『犬夜叉』(1996~2008、13)などの柱ができ、部数も1998年には170万部まで回復する。

マンガ編集をめざす後輩たちへ

定年退職後も“生涯一コミック編集者”としてフリーのマンガ編集者として活躍する佐藤に、編集者をめざす後輩たちへのメッセージをもらった。

「編集者は自分の雑誌を抱えて、その雑誌の読者がどういう嗜好を持っているのかを考えながら企画を立てていくものなんです。これを学ぼうとすると、雑誌という場所が必要なわけです。マンガ家と同じですよね。専門学校や大学でマンガ編集者養成コースもあるみたいだけど、それでは身に付かない。実際に編集部で読者を相手に仕事をしながらでないと育たない部分がありますね。フリーの編集者でも、マンガの場合はどこかの業務委託みたいなかたちで雑誌に所属することが多いのはそういうことでしょう。何年か掛けてノウハウができて、マンガ家さんとのつながりができれば別ですけど、初めからフリーというのはマンガの場合難しいと思います。逆に言えば雑誌の枠のなかから編集者は逃れられないんですよ。小学館の場合はそこが弱かったのかもしれません。さっきも言ったように異動が多いし、新人からヒットメーカーを育てあげても、すぐに担当が変わってしまう。会社の評価もヒットメーカーをつくることよりも、今売れているマンガ家さんの原稿を、機嫌を損ねずとって来れるかどうかなんです。マンガの担当なんか、誰にでもできると思ってる。学年誌の伝統ですかね」

先にも書いたように、小学館の雑誌の母体が学年誌だ。「週刊少年サンデー」の創刊時も学年誌の兄貴分という位置付けだった。

「『ビッグコミック』をつくった小西湧之助さんだって学年誌の人なんですよ。マンガは雑誌づくりの一部でしかないんです。ご自分で“おれマンガわからないから”と公言なさってたくらいです。マンガの笑いの感覚がわからないと言ってましたね。きちんとしたドラマはわかるけどって。だから、文学と同じクオリティのマンガを集めた『ビッグコミック』を世に送り出して成功したんです。その小西さんも『少年サンデー』編集長では苦労されたみたいですからね。僕だって、6年離れていただけで、初めは付いていけなくなっていました。少年誌の編集は難しいです。編集部には、やはり、ノウハウの蓄積や継承が必要なんです。その上で、少し経験を積んだ若手の編集者と、若手のマンガ家さんが、おもしろがって作品づくりをするのが、少年誌の場合、一番だと思いますよ」

マンガ雑誌が苦境から立ち直るためには、力のある編集者を育てることが一番大切なのかもしれない。


佐藤敏章

1949年、福岡県生まれ。73年に立命館大学卒業後、小学館に入社。「少年サンデー」「ビッグコミック」の編集に携わり、96年から99年まで「ビッグコミック」編集長。コミックス編集室に異動の後、コミック関係者へのインタビューを試み、その一部を「ビッグコミック スペシャル増刊」「ビッグコミック 1」に『神様の伴走者』のタイトルで掲載。2010年、小学館を定年退職。現在もなおフリーランサーとして“生涯一コミック編集者”の道を邁進中。現在、さいとう・たかを劇画文化財団、理事。

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