これまで「週刊少年チャンピオン」「週刊少年ジャンプ」「週刊少年サンデー」と少年向けの週刊マンガ雑誌を取り上げてきたが、大人向けマンガ雑誌に目を向ける。まずお話しいただくのは元「週刊漫画サンデー」編集長で、『静かなるドン』の連載スタートにも関わった上田康晴(うえだ・やすはる)。前編では「週刊漫画サンデー」の変動期を紹介する。

上田康晴

ナンセンスマンガ誌から青年劇画誌へ

実業之日本社が発行していた「週刊漫画サンデー」は、1959年8月11日に創刊された大人向け週刊マンガ雑誌だ(2012年6月からは隔週刊となりタイトルから「週刊」が消えた。2013年2月休刊。<註1>)。1995年から2001年まで「週刊漫画サンデー」7代目編集長を務めた上田康晴が、日本初の週刊文芸誌「週刊小説」のアルバイトとして実業之日本社に入社したのは1972年。77年には正社員に採用。「ブルーガイドブックス」の編集などを経て、1978年に「週刊漫画サンデー」編集部に移籍。当時の「週刊漫画サンデー」は、ナンセンスマンガ誌から劇画誌への過渡期だった。

「もともと僕は活字媒体の編集が希望だったんです。『週刊小説』にアルバイトで入ったのも文芸ものの編集をやりたかったからです。週刊小説創刊編集長の峯島正行さん(週刊漫画サンデー創刊編集長でもあった)から厳しい指導を受けたことや、当時の流行作家の方々の原稿を取りに行かせてもらったことは、のちにずいぶん役に立っています。だから、5年間働いた『週刊小説』を離れ、正社員としてガイドブックの編集部に配属されたときは驚きました。さらに、1年後にマンガ編集部に異動になったのは文字通り青天の霹靂で……。実業之日本社は経済誌『実業之日本』から始まった出版社でしたから、当時のマンガ出版部はどちらかといえば亜流です。ただ、編集部の雰囲気はよかったですね。4代目の編集長は30代の若さで就任したばかり。個性的な編集者が集まっていて自由闊達な空気がありました。若い編集長を同世代にサポートさせようということかもしれません」

試行錯誤から『マンサン』らしさが生まれる

創刊当時の「週刊漫画サンデー」は、「漫画集団」の小島功、加藤芳郎、杉浦幸雄、鈴木義司らがメイン。ナンセンスマンガとコント、コラムなどを中心とする総合娯楽雑誌的な色合いが強かった。遅れて漫画集団に加わった手塚治虫や赤塚不二夫、藤子不二雄Aらも起用され、なかでも手塚治虫の『人間ども集まれ!』(1967~68)は大人向けとしては初の長編ストーリーマンガとして評判になった。また、70年代には、つげ義春が自伝的作品『義男の青春』(1974)や『庶民御宿』『退屈な部屋』(ともに1975)などを発表、ほかに村野守美や辰巳ヨシヒロら寡作ながら熱心なファンを持つ描き手たちの作品も掲載されて「大衆的な『月刊漫画ガロ』」と呼ぶ読者もいた。しかし、メインはあくまでも大人のナンセンスマンガだった。

「70年前後には、劇画を看板にした青年コミック誌が続々登場していますから、『マンサン』(週刊漫画サンデー)はある意味では出遅れているわけです。読者の若返りを図って、新興の青年コミック誌に追いつくために文字通り試行錯誤でした。編集長が変わると、前任者から変えるために連載陣の入れ替えは必ずあるんですけど、これはかなりエネルギーのいる仕事です。僕は谷岡ヤスジさんに連載の打ち切りを告げるように命じられてお宅までうかがった経験がありますが、玄関を開けるなり“打ち切りを言いに来たのか。ダメだぞ”と先手を打ってくる。出鼻をくじかれて結局、8ページの連載を4ページに減らして、原稿料は8ページ分でという交渉になってしまいました。そういうことを繰り返しながら、新しい描き手も探すわけです。あの頃の編集部にはいろんなマンガ雑誌が置かれていました。参考にするというよりは、うちで描いてもらう作家さんを見つけるためです。持ち込みもあるんですけど、他誌で描いている人の中から目をつけて、うちで描いてもらうように依頼することのほうが多かったですね。『会津おとこ賦(うた)』(1979~81/原作:原麻紀夫)の司敬さんがそうでした。原作者の倉科遼さんのマンガ家時代のペンネームで、本名の大場敬司からとった名前です。編集部が、本宮ひろ志さんみたいなタイプの作家を探していて目をつけたんです。のちの『ガクラン維新伝 竜馬翔ける』(1985~87)も含めて雑誌を引っ張る作家のひとりになってくださいました。『まるごし刑事』(1986〜2001/原作:北芝健)の渡辺みちおさんは、かざま鋭二さんのアシスタントを経てデビューしたばかりでした。芳文社の雑誌で読み切りを描いていらしたのを見てお願いしました(註2)。絵が抜群に上手い方で、この作品もその後の『マンサン』の屋台骨になってくれました。原稿の持ち込みでお付き合いするようになったのは、畑中純さんです。担当になったのは僕と同世代の編集者で、販売から志願して『マンサン』に移ってきた男です。畑中さんの作品に惚れ込んでいて、なんとか連載にできないか悩んでいました。彼の踏ん張りで、畑中さんに読み切りを1本描いてもらって、そこから『まんだら屋の良太』(1979~89)の連載につながるんです。爆発的人気というわけにはいかないけど、糸井重里など文化人や同業の編集者のあいだではすこぶる評判がよかったですね。1986年2月にはNHKでドラマ化もされました。良太を演じたのは杉本哲太さん――NHKの朝ドラ「あまちゃん」で北三陸駅の駅長をやった人です。同じ年に映画もつくられて、こちらはコメディアンの三波伸介さんの息子の澤登伸一(現・2代目三波伸介)さんが良太でした。そんなこんなで、『マンサン』らしさが形になったのが80年前後でしょうか。この頃の編集長だった山本和夫さんは、3代目、5代目と二度も編集長を務めています」

「週刊漫画サンデー」創刊号表紙

月刊四コマ誌『サンデーまんが』

1983年11月15日号からは、杉浦日向子の代表作のひとつ『百日紅』(1983~87)の連載が始まる。葛飾北斎と彼の弟子や同時代の浮世絵師たちを描いた連作短編。それまでの「マンサン」連載陣とは一味違った描き手の登場で、誌面にも賑わいが出た。さらに、1984年5月8日号からは団地に暮らす人々の人間模様を描いた近藤ようこの連作短編『見晴らしガ丘にて』(1984~85)もスタート。同作は1986年度の日本漫画家協会賞優秀賞に輝いた。

「杉浦さんは畑中さんの紹介です。これには、1983年4月15日に創刊した『マンサン』の兄弟誌『サンデーまんが』が関わってきます。『サンデーまんが』は四コマを中心にした月刊誌で、四コマだけでは寂しいので誰かストーリーマンガでいい人がいないか、というときに畑中さんが杉浦さんを連れてこられたんです。『サンデーまんが』には近藤ようこさんや内田春菊さん、のちにはわたせせいぞうさんやいしかわじゅんさんにも描いてもらうようになります。あとでお話するように新田たつおさんも『サンデーまんが』が実業之日本社としては初仕事でした。残念ながらこの雑誌は1986年4月号で休刊になりましたが(註3)、85年から95年のマンガ雑誌の黄金時代を語るうえでは無視できない存在だったと思います」

この頃にはかつてナンセンスマンガ中心の大人向けマンガ週刊誌だった、と言われても信じられないくらい青年コミック誌らしくなっていたのだ。

「80年代の『マンサン』は、あらゆるジャンルのマンガがありました。山本編集長は「マンガの博物館」と読んでいましたけど、マンガ雑誌にはこういうバラエティとバランスが必要なんです。ガクランものもあれば、刑事アクションもあり、文芸的なものもあり、お色気ものもある。ナンセンスもある。80年代半ばには小説を原作にしたマンガもかなり出てきます。北方謙三さんの同タイトル小説を影丸譲也さんに描いてもらった『弔鐘はるかなり』(1984~85)などがそうです。このときは、僕が担当で国分寺まで原稿を取りに行ってました。小説の劇画化を狙ったのは、シナリオライターに原作で入ってもらうよりも、ご自分でストーリーをつくれる先生には小説を原作として渡したほうがおもしろいものができる、と考えたからです。1981年に書き下ろし単行本で出版された原作版『弔鐘はるかなり』はそれまで純文学作家だった北方さんがエンターテインメントに転向した第2のデビュー作で、僕が好きな作品でした。ほかの編集者もこの作品をあのマンガ家でみたいなことを結構考えていましたね。『マンサン』編集部は個性的な人間が多くて、マンガだけではなく、小説や映画などにも精通していたのが良かったのです」

さて、1980年代、90年代の「週刊漫画サンデー」を語るうえでは、新田たつおの『静かなるドン』(1988~2013)をはずすことはできない。この大ヒット作を生んだ編集者が上田である。ドン誕生秘話は次回でお聞きすることにした。お楽しみに。


(脚注)
*1
2019年で創刊60周年を迎え、記念サイトが公開されている。
https://j-nbooks.jp/comic/mansan.php

*2
『まるごし刑事』の担当編集者によると、「『週刊漫画サンデー』の増刊での連載から声をかけたという流れがより正確」とのこと。

*3
1985年11月号からは「サンデーマンガSEXY COMICS」

※URLは2020年2月5日にリンクを確認済み


上田康晴
1949年生まれ。1972年に「週刊小説」のアルバイト編集者に。1977年、実業之日本社に正式入社。ブルーガイド編集部を経て、1978年に「週刊漫画サンデー」編集部に異動。人気コミック『静かなるドン』の連載に携わる。1995年に「週刊漫画サンデー」編集長、2001年、取締役編集本部長、2009年、常務取締役を歴任し、2013年3月に退任。現在、フリーのエディター。

◀ 第6回 第8回 ▶