海外長編アニメーションの国内での公開が相次いでいる。その制作国はフランスをはじめとしたヨーロッパだけでなく、アジアにも及ぶ。そこで本稿では、世界各地で広がりを見せている長編アニメーションの世界から、社会・戦争、子ども向け、エンターテインメントといったそれぞれの切り口から、現在未公開の各国の作品を紹介する。

『Ville Nueve』ポスタービジュアル

2019年は日本で過去に例がないと思えるほどに海外長編アニメーションが多く公開される年となった。しかも、そのそれぞれがきっちりとファンの心を掴み、愛されている印象だ。
ハリウッド製の作品以外にも、ヨーロッパからは『ホフマニアダ ホフマンの物語』(スタニフラフ・ソコロフ監督、ロシア、2018)、『アヴリルと奇妙な世界』(クリスチャン・デスマール&フランク・エキンジ監督、フランス/ベルギー/カナダ、2015)、『ディリリとパリの時間旅行』(ミッシェル・オスロ監督、フランス/ベルギー/ドイツ、2018)、『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』(レミ・シャイエ監督、フランス/デンマーク、2015)、『エセルとアーネスト ふたりの物語』(ロジャー・メインウッド監督、イギリス/ルクセンブルク、2016)、『ブレッドウィナー』(ノラ・トゥーミー監督、カナダ/アイルランド/ルクセンブルク、2017)、『失くした体』(ジェレミー・クラパン監督、フランス、2019)、アジアからは『幸福路のチー』(ソン・シンイン監督、台湾、2017)、『羅小黒戦記』(MTJJ監督、中国、2019)……今年の質量ともに充実した作品のラインナップを眺めると、アニメーションというものがいま世界中で新たな可能性を花開かせつつあるということが見えてくる。
今年ここまで海外長編作品の公開が相次いだ背景にはおそらくいくつもの要因がある。単純に、つくられる本数が増えたことと、それを観る人たちの数(機会)が増えたこと。
とりわけ長編アニメーションはいま、新たな表現の言語を生み出しつつある時期に入っている。さまざまなバックグラウンドの人たちが長編アニメーションという表現フォーマットに取り組んで自分たちなりの方法論を見つけて作品をつくり、一方でその多様性を喜んで受け入れる観客の数が少しずつ増えた。できあがったばかりの作品が映画祭でショーケース的に上映され、熱心なファンたちは全国津々浦々のその上映に駆けつけ、熱量をもってその魅力を拡散し、それが公開につながる例も出てきた。アニメーションに対して抱かれる偏見が少しずつ解消され、観客の層も広がっている印象がある。
本稿では、海外長編アニメーションをめぐるその良い循環をさらに後押しすべく、本格的な全国公開にはまだ至っていない未公開作品の紹介をすることで、さらなる「待望」を煽りつつ、同時に、アニメーションが持ちうる可能性の幅広さについて眺めてみたい。

フランス発、社会・戦争と向き合う視点

まずはフランスを中心としてつくられた作品から。フランスは制作にあたっての補助金制度が充実しており、国籍を問わず門戸を開いていることから、ある程度の規模以上の長編作品には制作国としてクレジットされることが多い。『ペルセポリス』(2007)や『戦場でワルツを』(2008)の成功の余波はもう10年以上になるわけだが続いており、というかこの2作がヨーロッパ産の大人向けの長編アニメーションの「型」のひとつをつくったといえる。ある社会状況下――とりわけ戦争――において生きる個の物語を描くものとしてのアニメーションである。

『FUNAN』(ドニ・ドゥ監督、ベルギー/フランス/ルクセンブルク、2017)

2018年のアヌシー国際アニメーション映画祭のクリスタル(グランプリ)を受賞した『FUNAN』は、1970年代、クメール・ルージュ政権下で突如として生活の一変したカンボジア人の家族が辿る過酷な運命を描く。物語は隣国タイに亡命するための夫婦と息子のサバイバル劇となっていくが、それはカンボジアからフランスへの移民二世であるドニ・ドゥ監督の家族(母と兄)が体験した実話をかなりの程度参考にしているようだ。
フランスのアニメーション・スクール「ゴブラン」で学んだのちフランスのアニメーション業界で『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』を含めさまざまな作品のスタッフとして関わったドゥ監督にとって、本作は監督デビュー作にあたる。
実話に基づき、少しの運命のイタズラが生死を分ける過酷な状況に置かれた人々を描くなかで、ドゥ監督はドローイングによってこの物語が語られることが持つ意味に対して極めて意識的だ。実写ではなくドローイングが用いられることで、キャラクターの運命は特定の俳優のイメージに回収されることなく匿名性を帯び、それが逆に観客とのあいだにつながりを生み出し、共感や感情を呼び起こす。ドキュメンタリー的な要素と人間ドラマ的な要素がうまく絡み合うことで、ある特定の時代・地域のリアリティに焦点が当たるのみならず、普遍的な人間の物語としても受け止めうるのだ。

『カブールのツバメ』(ザブー・ブライトマン&エレア・ゴべ=メヴェレック監督、フランス/ルクセンブルク/スイス、2019)

『カブールのツバメ』は2019年のカンヌ国際映画祭ある視点部門でワールド・プレミア上映され、アヌシー国際アニメーション映画祭でもコンペティションに選出された。原作はヤスミナ・カドラの『カブールの燕たち』。タリバン政権下のアフガニスタンを舞台に女性たちの苦闘を描くという点では12月に日本公開となるノラ・トゥーミー監督の『ブレッドウィナー』と同じだが、『ブレッドウィナー』が生存のために必要とされるフィクションというテーマを強調するとすれば、2組の男女(夫婦)の絡み合う関係性を描く『カブールのツバメ』は人々の実存そのものの本質にアニメーションならではのやり方でアプローチをかけていく。
水彩調のタッチの2Dドローイングで描かれた本作も、『FUNAN』同様に個別と抽象のあいだのリアリティを描き出す。自由を求める若い夫婦と、タリバン政権下のイデオロギーに忠実な高齢の夫婦という対称性。さらには、タリバン政権下で男性でいることと女性でいることが持つ(圧倒的な非)対称性。物語の中心となるこの4人の配置は社会状況全体を捉えるものとして機能するが、一方でそれぞれのキャラクターたちが「象徴」といってしまえるほどには軽くなく、それぞれが実存を持った存在として、息遣いさえ感じられるほどの重みと迫真性を持つ。『FUNAN』が実話からの抽象化を行うとすれば、『カブールのツバメ』は抽象的なものを具体化させる。このような人たちが実際に存在したのではないかという錯覚を与えるのである(どうもまず俳優たちの演技を実写で撮影し、それを基にアニメーションの作画をしているようだ)。女優・映画監督のザブー・ブライトマンと若手アニメーション作家エレア・ゴべ=メヴェレックの共同監督でつくられた本作は、生々しい抽象性というバランスを見事に達成しているのだ。

ヨーロッパ発、子ども向けアニメーションの新たな可能性

『The Bears’ Famous Invasion of Sicily』(ロレンツォ・マトッティ監督、イタリア/フランス、2019)

今年の海外長編アニメーション・シーンには、新たな傾向を持った子ども向け作品も見出すことができた。例えば、『カブールのツバメ』と並んで今年のカンヌ国際映画祭ある視点部門に出品された『The Bears’ Famous Invasion of Sicily』がそれである。原作はイタリアの作家ディーノ・ブッツァーティの『シチリアを征服したクマ王国の物語』。監督を担当したのはアイズナー賞の受賞歴もある著名なマンガ家・イラストレーターのロレンツォ・マトッティ。マトッティのアニメーション監督としての仕事はかつて『Fear(s) of the Dark』(2008)というフィルム・ノワールもののアニメーションのオムニバス長編に参加して以来である。
冬眠中のクマの穴に迷い込んだ大道芸人2人が、眠りから目覚めさせてしまったクマを満足させるために、かつて起こったと言われるクマのシチリア征服の物語を語り聞かせるという構成のこの作品。本作を特徴づけるのは、まるで魔法のように感じられる豊かでファンタジックなアニメーションである。CGをベースとしつつ、グラフィックとしてかなり2D的であるスタイリッシュなドローイングを採用することで、2次元から超次元的に不可思議なことが立ち上がるような、マジカルな作品空間が生まれる。
3DCGの技術が発展し、存在しないものを存在するように動かす手法がますます巧みになり、想像できるものであればなんでも実在感を持つようになるなか(例えばハリウッド映画で観客はその大部分がCGでつくられていたとしても実写のように感じてしまう)、アニメーションが「ありえないこと」を起こすのはとても難しくなっている。そんななか、本作のアニメーションが魔法でつくられたかのように感じられるのは、ビジュアルのベースを2次元的に留めることで基本となるリアリティを仮に定め置きつつ、それを随所で裏切って驚きを与えるリアリティ・ラインの設定の巧みさにあるといえるだろう。本作の登場は、アーティスティックでありつつ誰でも楽しめるような作品という意味で、ヨーロッパ産の新たな子ども向けアニメーションの道筋を切り開くものとして今後記憶されていくかもしれない。

『Away』(ギンツ・ジルバロディス監督、ラトビア、2019)

子ども向け(でもありうる)作品として、もう一本取り上げたい。ラトビアのCGアニメーション作家ギンツ・ジルバロディスによる『Away』は、「たった一人で制作したCG長編アニメーション」という類例のない作品である。
『Away』は、なんらかの事故によって無人島のような場所に不時着してしまった少年のサバイバルの物語だ。オアシスのような場所で出会った黄色い鳥を相棒として、死を思わせる巨大な黒い影に追われながら、バイクによって島を駆け抜けていく。
セリフがないままに展開されるこの作品は、制限されたリソース(MacBook Pro一台でつくられている)による簡素化された自然描写と物言わぬ動物たちに囲まれるなか、小さくも大きい、現実的でもあり夢のなかにいるようでもある、空白の多い不思議なリアリティを生み出す。カメラワークこそが自分の強みと語り、過去の短編作品でも長回しの演出を好んでいたジルバロディスの作家性は長編というフォーマットによって最大限に発揮され、アヌシー国際アニメーション映画祭に今年から新設されたコントラシャン部門(実験的・挑戦的な長編を対象とする部門)の初代グランプリも獲得した。
映画のみならず『風ノ旅ビト』(2012)や『人喰いの大鷲トリコ』(2016)など「環境が語る」タイプのゲームからの影響を公言する弱冠25歳のジルバロディスは、アニメーション映画の領域を広げ、若い世代へとその魅力を伝えることのできる作家として貴重である。『Away』は(作家本人は意図していなかったようだが)子ども向け作品として上映される機会も多く、『The Bears’ Famous Invasion of Sicily』と並んで、ヨーロッパ発の新たな子ども向け長編として記憶されうるものになるだろう。

新しいエンターテインメントのかたち

『Ruben Brandt, Collector』(ミロラド・クルスティック監督、ハンガリー、2018)

エンターテインメント性の強い作品も取り上げたい。ハンガリー発のアニメーション・スリラーである『Ruben Brandt, Collector』は、作家性の強い作品を好むザグレブ国際アニメーション映画祭にて今年の長編部門のグランプリを獲得するなど、国際的に高い評価を受ける作品となっている。本作はサイコセラピストの主人公が自身の悪夢から解放されるため、患者たちとともに世界中の美術館から数々の名画を盗むという筋の作品だが、その設定こそが本作に独特な位置づけをもたらしている。あらゆるキャラクターや物語の舞台は、20世紀に活躍したさまざまな芸術家たち(画家から映画作家まで)の作品の一部をコラージュしたようなものになっているのだ。
『The Bears’ Famous Invasion of Sicily』でも2次元性と3次元性の融合がもたらすアニメーションの豊かさが見られたが、本作はその方向性をより徹底的に推し進めている。登場人物たちは例えばピカソの絵のように当然のように目が3つ以上あったり、平面的なデザインでしか成り立たないような造形なのにもかかわらず立体的に動き回ったりしながら、それでいて作品のリアリティはまったく損なわれない。日本における海外アニメーションファンに説明するのであれば、プリート・パルンの作品――記号的なキャラクターが繰り広げる物語――がスリラーとして展開されているとでもいえば伝わりやすいだろうか?
監督はかつて短編作品をつくっており、本作は初めての長編となる。本作はビジュアル面において自分自身の偏愛するさまざまな芸術作品をこれでもかと集めていくようなものでありつつも、長編作品としてのエンターテインメント性(ザグレブ国際アニメーション映画祭での監督トークではプロデューサーに損させないための方策とも言っていた)についてもかなり意識的に考えており、「スリラー」としての物語の方法論も洗練されているし、アクションシーンもスピーディーで鮮やか、目を見張るものがある。Netflixが配給権を獲得した噂もあるが、『失くした体』同様、個性のあるエンターテイメント作品が居場所を見つけはじめる時代に入っているといえるのかもしれない。

アメリカ大陸より:「映画」の新たなかたちを見出すために

『The Wolf House』(クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督、チリ、2018)

最後にヨーロッパから離れ、アメリカ大陸にて行われている長編アニメーションの「実験」の模様を伝えてみよう。チリ出身のクリストバル・レオン、ホアキン・コシーニャの共同監督による『The Wolf House』はベルリン国際映画祭でのプレミア上映後、アヌシー国際アニメーション映画祭での受賞など実写映画・アニメーション映画祭問わず高い評価を受けている作品である。
本作の特徴は、部屋をまるごとコマ撮りするという独特の手法にある。人形を動かすのみならず家具までコマ撮りするし、同時に壁では木炭を中心としたドローイング・アニメーションが展開される。映像をつくるためのひとつの手法としてアニメーションを捉え、ギャラリーなど現代美術の領域でも活躍する2人は、本作をチリ中のさまざまな美術館に仮設の部屋をつくり、そのなかでアニメーションの作業を行う公開制作のツアーによって完成させている。そういった領域横断的な立ち位置もまた、この作品にひとつのユニークさを与えている。
本作の物語の背景には、チリの独裁政権下で力を持っていたドイツ人の移民コミュニティ「コロニア・ディグニタ」がある。幼児性愛者による独裁的支配が行われたこのコロニーは、軍事政権にとって都合の悪い人々を収容・虐待する場所としても機能していた。このコロニーについてすでに映画がつくられるなど注目を浴びているが、本作はアニメーションによるそれへの反応であるともいえる。
チリは現在、格差の解消を求める動きが起きつつある(先日のチリでのデモでは、デモに参加していたコシーニャがゴム弾で撃たれるなどしたようだ)。そんな状況のなか、本作はチリのアート系映画館では異例ともいえるほどのロングラン・ヒットになったという。現在進行形の社会的な運動とともにあるアニメーションという意味でも、本作は興味深い。

『Ville Neuve』(フェリックス・デュフール=ラピエール監督、カナダ、2019)

最後に紹介したいのはカナダでつくられた『Ville Neuve』という作品だ。本作もザグレブ国際アニメーション映画祭やアヌシー国際アニメーション映画祭の長編コンペティションで上映されている。本作は、実験映画の領域でアニメーションをはじめとする映像制作を行っていたフェリックス・デュフール=ラピエールにとって初めての長編作品である(気づけば、本稿で紹介した作品のほとんどは「監督にとっての初の長編作品」である。それもまた、長編アニメーションに新たな流れが出てきつつあることを証明するだろう)。
本作は、カナダの社会・歴史に基づいたものである。カナダは英仏二カ国語が公用語であるわけだが、フランス語圏であるケベック州ではこれまでに何度も独立運動の機運が高まり、(僅差で否決に終わったが)独立を問う住民投票も行われている。本作は、その住民投票が実施された1995年のケベック州を舞台としている。しかしそこで実際に語られるのは、離婚した中年カップルの再生(と破壊)の物語だ。この作品で特筆すべきは、光と闇の表現の美しさである。本作は、比較的小さな白紙に墨で描かれた空白の多いスタイルで描かれている。大きなスクリーンで上映されたとき、その空白の部分はまばゆいばかりの光として、墨で塗られた部分は闇として映える。余白がきわめて雄弁な作品なのだ。
離婚した夫婦が関係性を再生させるためかつて2人で過ごした海辺の家でやりとりをするなか、ケベック州の独立運動が白熱化していくことで、世代間のギャップというテーマもまた浮かび上がってくる。光と闇、夫と妻、親と子…それら2つのものの「独立」(もしくは「分裂」)の物語が、独立運動をめぐる国全体の状況とも絡み合っていく本作は、過去アニメーションでは語られてこなかったような成熟の物語を語るという意味でも、注目すべき作品である。

ここで紹介した海外の作品群の配給はまだ未定だが、これらの作品すべてがいつか日本で公開されることを願ってやまない。冒頭で語ったように今年は海外長編アニメーションの配給の当たり年だったが、それでもなお、これほどまでに充実したラインナップが未公開で控えているということは、世界の長編アニメーションのレベルが着実に上がりつつあることを示しているといえるだろう。いま、長編アニメーションはとてもおもしろい時期にあるのだ。

※URLは2019年12月9日にリンクを確認済み