◯4K・8K規格と映像コンテンツの未来(2)
◯映像のデジタル化、ハイビジョン、そして4Kへ
1995年、初の一般用デジタルビデオ機器であるDVカメラ、SONY DCR-VX1000が登場した。その数年後、撮影したデジタルデータをそのままコンピューターに取り込み、編集・加工出来るようになったのは、8mmフィルムからはじまった私の映像制作人生で最大の衝撃だった。数十万円レベルの機材で、放送レベルに匹敵する映像を作れるのだ。当時はコンピューターの性能もギリギリ、ソフトウェアも発展途上で、運用にはかなりの工夫を要したが、得られる結果はその苦労を上回るものだった。努力次第でハイエンド環境の成果物に近づくことが出来る、というのは他に代えがたい魅力であり、プロとアマチュアの垣根が崩れたことに興奮した。これぞデジタル革命!である。(当時も私は映像を仕事にしていたのだけど、気分はアマチュアであったようだ)
その後間もなくして、制作環境はハイビジョンへ移行する。データ量は格段に増え、当初は再生することもおぼつかない。SD(720×480 ピクセル)からHD(1920×1080 ピクセル)への進化は凄まじかった。単純に言ってしまえば、テレビ映像が一気に映画と同等、もしくはそれ以上の画質になったのだ。
その後、機材の進歩や運用ノウハウの蓄積があり、今ではパソコン上でのハイビジョン映像の制作はほぼストレスのない状態になった。そこに現れた新フォーマット、4K。データ量は4倍になり、計算に4倍の時間がかかる。
私は、それによって得られる変化は、アナログからデジタルへの進化や、ハイビジョン化と比べるとインパクトに乏しいと思っていた。いま、映画館でフルハイビジョンの映像を見て、そこにまったく不満はないのだ。果たしてこれ以上の高解像度に意味はあるのだろうか? 画質よりも、表現や演出を磨くべきではないのか?
○4K映像の表現するもの
しかし、電気店や展示会で見た4Kのデモンストレーションは、なかなかの衝撃であった。ハリウッド映画のアクションシーンを見ても、ほとんど違いは感じられないのは予想通りである。画面内の動きが速ければ、解像度があまり意味を持たないことはハイビジョンになった時にも実感していた。しかし、ゆったりした映像、例えば地中海の街の風景を写したロング・ショットといった、高画質デモによくある映像―、これには強烈な効果があった。
4K映像の宣伝文句としてよく言われる「3D映像以上のリアリティ」という言葉がある。私はむしろ、4Kが効果的に機能した場合の映像体験は「視覚以上のリアリティ」であるように思う。普通、私たちは目に映った風景や物を、再度「脳で見る」ことではじめて認識する、と言われる。4Kのもたらす体験は、このうちいくつかのプロセスを飛ばして、脳に直接書き込まれているような、奇妙で新鮮なものであった。メガネをかけている人は、新しいメガネに換えたときに感じる、風景の細かいところまで急に見えるようになって、その情報量に酔ったようになる感覚、と言えばおわかりだろうか。
そこまで行かなくても、4K映像を普通に見て、ああキレイだ、高精細だね、とは思える。これを4K効果aとしよう。対して、この新しいリアリティを4K効果bとする。4K効果bは、4K映像を見た時にいつでも発生する訳ではない。おそらく、ある閾値を超えて情報が伝わりやすい映像があり、脳の何処かにスイッチが入るのだろう。
ハイビジョン映像の時点で、私達の目には既に画像を構成する「点」は見えていない。しかし、それが高密度化することでの変化は確かにあり、いつでも効果的というわけではないが、表現の幅は拡がるだろう。音楽再生における「ハイ・レゾリューション」は、人間には聞こえていないはずの超高音が音楽鑑賞体験に影響を及ぼしていると言うが、これと似ているところがあるのだろうか? これがさらに8Kならば? いずれにせよ、4K以上の高精細化により、電子的な映像は「点」の集合というデジタル的なものから、再びその構成要素が意識されないアナログ的なものに変化して行くように思う。
◯映画の本当の姿?
『ブレードランナー』(1984)という作品は、今までに最も多くの「バージョン違い」が発表された映画のひとつだろう。この作品のBlu-rayディスク(ファイナル・カット版と呼ばれるバージョン)は、それまでのバージョンで見つかっていたいくつかの間違いをデジタル技術で修正するとともに、画質を語る上で大変興味深い試みが行われている。この作品の通常のシーン、つまり「特殊効果のない」ショットは、普通の映画と同じ35mmフィルムで撮影されている。特殊効果シーンは、フィルム合成による画質劣化を極力抑えるために、大判の70mm(65mm)フィルムで撮影、光学合成されたものを、35mmに縮小して(ここで少し画質劣化が生じている)から通常シーンと繋いでいた。このファイナル・カット版では、特撮シーンの70mmフィルムを新しくテレシネ(デジタルデータ化)している。これは特撮マニアとしては大変嬉しいことであるが、Blu-ray(1920×1080)でこれを鑑賞すると、通常のシーンより特撮シーンが一段キレイに見えてしまい、微妙な違和感が生じることになった。これは、画質が上がったことによって視聴体験が予想外の方向に変化した例である。
『ストリート・オブ・クロコダイル』(1986)は、クエイ兄弟による短編パペット・アニメ―ション作品で、その映像の独特の美しさからハイビジョン化が待たれていた。昨年発売された彼らの作品集Blu-rayディスクは、作家自身の監修によるたいへん高品質なものだったが、元々のフィルムにあるグレイン(粒子ノイズ)もまた、はっきり見えるようになってしまった。また、作家の監修による「暗さ」を重視した調整は、スタジオの調整された環境では理想的なのだろうが、一般家庭のTVモニターにはやや暗く、せっかく記録されている暗部のディティールが見にくくなっている。このさじ加減は難しく、そもそも正解は存在しないのだろう。
私は、映像作品の「本物」と「理想の形」の間に、差異があるのだと思っている。あるいは、ひとつの作品であっても、人によって好ましい形態が違うのだ。『ストリート・オブ・クロコダイル』は、作家にとっては現在の形が完成形なのだろうが、(まったくもって僭越な事だが)一視聴者である私はそれとはちょっと違った状態で作品を見たいと思っている、という面白い発見であった。(※1)
古いセル・アニメをハイビジョン化すると、セルの傷が見えたり、少し浮き上がったセルが背景画に影を落としている様子などを見ることが出来る。これらは、作品を発表時そのままの形と、セルと紙という「モノ」であるアニメーションを味わうことが出来る反面、その物質性に気を取られて「絵」自体を味わう行為には障害になることもある。
現代の技術で、記録されている映像にはほぼ影響なしにフィルム・グレインを除去したり、傷を消したりすることはそれほど難しくない。「本物のフィルム」として存在している「映画」と、フィルムと言う物理的メディアの束縛から解き放たれ、純粋な「作品」という情報になった「映画」と、どちらが映像作品の正しいあり方なのだろうか?
私は、大好きな作品に関しては、当時そのままの映像と、デジタル技術でクリーンナップされた「リマスター版」の両方を鑑賞し、所有したい。どちらかでは、その作品の本質はカバーしきれないと感じる。もちろん、自分にとってそれだけの価値がある作品の数は限られるのだが。
○映像作品の枠を超えて
『ブレードランナー』には、ぱっと思い出せるだけで少なくとも五種類のバージョンがある。熱狂的なファンは、これら様々なバージョン違いや、DVDなどに収録されている没になったショットを組み合わせ、自分が楽しむための謂わば『私家版ブレードランナー』を作ってしまう人もいると聞く。著作物の複製・改変には法的な問題が発生することもあるだろうが、作品の「実現しなかった可能性」までも味わいたい!というのは、作品愛の究極の形のひとつであろう。
前回触れた3DCGアニメーション『シドニアの騎士』(2014)では、作品本編に使われた3DCGモデルの「本物データ」が販売されるという、新しいコンテンツ提供が試された。3DCGモデルを扱える視聴者は限られるだろうが、プラモデルのような、作中キャラクターの「模造品」ではなくて、「本物」のモデルを使って自分のイメージを作って楽しめる、というのは、作品のデジタル化以前には考えられなかったことだ。
これまでも、設定資料やイメージボード、脚本・絵コンテなどの「設計図」、制作チームへのインタビューなどを収録した書籍などが提供されることは多かった。セル画や、フィルムの切り落としといった「本物」の販売もあったが、これは謂わば「映画の断片」であり、映画の記念を美術品、もしくは骨董品として所有するのと近いだろう。しかし映像作品がデジタルデータになった現在、作品の制作過程で作られたあらゆるデータの「本物」がコピー可能であり、販売できるのだ。
例えば、特撮映画好きの私は、『スター・ウォーズ』や『ブレードランナー』の光学合成前の素材フィルムのデジタル化されたデータ(※2)があれば、自分のパソコンでそれを合成出来たら、どんなに幸せかと思う。好きなアニメキャラの、あるシーンの全ての原画を1コマずつ見たい、と思う人も多いだろう。『君の名は』(2016)をはじめとする新海誠監督作品の、あの複雑な画面設計の合成データを弄ることが出来たらどんなに楽しく、また勉強になるだろうか。
アニメの場合、編集で落とされるカットはほとんど存在しないと言われるが、実写映画では完成品の3倍〜10倍もの素材が撮影されることもある。これらすべてを、完成バージョンの編集データとともに閲覧することができれば、愛好家にとってこれ以上のご馳走はないだろう。
音楽業界では、比較的データ量が小さく扱いやすいこともあり、映像よりも常に数年進んでデジタル化が進行している。アーティストのアルバムCDに、ある曲のMIDIデータが収録されていたり、有名奏者のシンセサイザーの音色データが販売されることは珍しくない。映像作品は権利関係が複雑であることが多く、二次利用の問題を解決するのは難しいかもしれない。(※3)また制作者にとっては、企業秘密の開示になってしまったり、問題も多いだろう。しかし、ほとんどのデータがデジタル化された現在、「映画」そのものを超えて、制作者達の思考の過程をより鮮やかな形でユーザーが味わえ、所有できるようになるというのは大きな魅力だと思う。4K化という、映像本体の情報を増やす試みの他にも、デジタル化によって可能になる、ユーザーが豊かな情報を味わえる未来があるのではないだろうか。
次回は、映像コンテンツの4Kへの移行と同時に進みつつあるもう一つの次世代高画質技術「HDR」について考える。
※1:画質の問題ではないが、この極端な例が、『スター・ウォーズ』(1979)が新メディアでリリースされるたびに改変を加えるジョージ・ルーカスと、初公開時のまま、自分たちの思い出のままの形のリリースを望む熱心なファンたちとの軋轢であろう。
※2:例えば、宇宙空間の背景ムービー、宇宙船の飛ぶムービー、宇宙船のマスクデータ、レーザービームの手描きアニメーション等、バラバラに撮影された素材映像だ。
※3:クラウドファンディングなどと組み合わせれば、小規模あるいは個人プロダクションにとっては大きなチャンスになる可能性があるのではないか。