デジタルクオリティとインターネットの閉塞
◯誰でも作れる
誰でも映像作品を作れる時代...こう言われたのはいつからだろう? 20年程前、パーソナル・コンピューターが夢のクリエイティブ生活の到来を謳った時からだろうか?1970年代に家庭用ビデオカメラが発売された頃?あるいはもっと昔、戦前に8mmフィルムカメラが登場した時だっただろうか?
いつの時代も、新しい技術によって生まれた新商品とその掲げる謳い文句に、私達の創作意欲は刺激されてきた。このパソコン(もしくはカメラ、あるいは楽器、あるいは絵の具...)さえあれば、自分のイマジネーションを形にできるに違いない! もちろん、必ずしもそれが実現するとは限らない。技術革新によってもたらされる「可能性」は決して偽りではないのだが、誰もがそれを活用できる訳ではない。宣伝文句と実際のユーザー体験の乖離は何時の時代にもあるし、どれだけ道具が便利になろうとも、創作活動にはそれなりの労力が必要である事に変わりはない。しかしそれでも2017年の今、「誰でも作れる」というスローガンが、かつてないレベルで実現されていることに疑問の余地はないだろう。
このコラムでもいくつか例を挙げてきた。数万円レベルのデジタルカメラで、劇場公開が可能なレベルの動画を撮影でき、個人所有のコンピューターでそれを自由に加工・編集。そしてインターネットを通して、文字通り世界中にそれを発信することができる...まったく、8mmフィルムで自主映画制作をはじめた頃の私にこの状況を見せたらどんな顔をするだろう! まさに、昔見た夢の実現である。(※1)趣味レベルの投資で誰もが自由にクリエイティビティを発揮出来、その成果を世に問うことが可能になり、社会的にもそれが推奨されている時代。一見オープンなこの状況には、しかし今までなかったタイプの閉塞感が存在している。
◯ボーダーレスになるアマチュアとプロ
デジタルでの映像制作環境は驚くべきスピードで進化し、そのプロセスの大部分はコモディティ化している。「コンピューターを使わずに映像を制作する」という行為自体、いつの間にか相当に特殊な創作活動になりつつある。個人アニメーション作家は家庭用のデジタルカメラで原画や人形を撮影し、普及価格帯のパソコンで作品を完成させる。画像の加工や編集、あるいはサウンドエフェクトなどに使用されるアプリケーションプログラムは、個人で利用できる価格でプロレベルの品質を確保できる。こうして作られた作品は、制作過程において様々注意しなくてはいけないポイントはあるものの、画質・音質面において、映画館のスクリーンで上映するのに十分なクオリティを持ち得る。
この変化は、個人や自主制作の同人作品にとってだけのものではない。商業・業務作品の現場でも、従来は多くの高価な機材、スタッフ、さらには電力を必要としていたが、現在はそれとは比較にならない程コンパクトな予算・人員で同程度の品質を確保することも可能だ。デジタル制御のジンバルスタビライザーや、ドローンカメラの様な、新技術によって可能になった領域のデバイスが、最初から専門家でなくても手が届く価格帯であることも特筆すべきだろう。
もちろん、未だに特殊な用途のための高価なツールはあるし、電子的でないもの...例えば映画用レンズの様に、すぐに普及価格になることが考えづらいものもある(従来より遥かに安価な映画用レンズも登場しているし、カメラ側のデジタル処理の進歩で今後どうなるかわからないが)。三脚等、大きさや重量が大切な機材もある。一方で、今までハイエンドとされていた3DCGソフトが学生には無料で提供されたりもしている。ここ10年ほどで、かつて数多く存在したビデオ編集ソフトや3DCGソフトは、いくつかの主だったものに収束した。アマチュアとプロは、同じようなシステムで動作するパソコンを使い、Adobe社の製品に代表される様な、ほぼ同じツールを使って作品制作をしている。パソコンのランクによって容量の違いや速度の差はあるが、時間に余裕さえあれば、工夫と根気次第で克服可能な事が多く、本質的な差にはならない。
◯平等であることの重荷
現代のアニメーション作家、映像作家を志す者は、それほど無理なく、平等で行き届いたデジタル制作環境を手に入れることができる。最初から、プロと同等の妥協のない道具一式が手に入るのだ。これは素晴らしいことだが、同時に恐ろしくもある。(※2)作品が上手に出来上がらなかった場合、ただ自分の能力が足りないことが明らかになるからだ。誰もが最初から、言い訳の出来ない最前線に置かれてしまう(もちろんこれは、プロにとっても大変なプレッシャーであるのだが)。
ビギナーズ・ラックで、最初に出来上がった作品が面白く、評価されることもあるだろう。しかし、最初から何もかも上手く行くことは多くない。まして、アニメーション・映像制作には数多くの工程があり、間違いなく様々なトラブルが発生する。与えられた環境が整っていればいるほど、責任はクリエイター個人に降りかかる。まして、ネット上には同じ道具で作られた優れた作品が数限りなくあり、それらはすみやかに比較されてしまう。ある情熱のもとに始められた創作活動が、突きつけられた厳しい現実の前に挫折してしまう。そうなってしまう"落差"というのは、今の方がずっと大きくなっているのではないだろうか?
◯低品質メディアの見る夢
その昔、8mmフィルムに写った私の映画は、その不鮮明さの中に、未来の可能性を想像させる余地があった。絵が下手でも役者が素人でも衣装が安物でも、それは程よく不鮮明になってくれるのだ。そこに私は夢を見られた。もっと良い機材があれば、自分はもっと凄いものを作れるはずなのに。この、知らないからこそ感じられる、身の程知らずとも言える野望と熱狂を、現代の完成されたデジタル制作環境は許容しにくい。カメラ屋さんに出したフィルムの現像を待つ時間すらなく、ハイビジョンの高画質で自らの未熟さが大画面に提示される。クリエイター志望者が自己陶酔から醒め、容赦ない現実と向き合うために、デジタルとインターネットは往々にして効率が良すぎるのだ。たとえそれが錯覚から生まれたものだとしても、創作意欲は本物であり、大切に育まれなくてはいけない。創作活動に限らず、何かを志す者は、いずれ様々な壁に行き当たる事になることは間違いないのだが、それはもう少し後でいい。自由だからこそ、初心者は自らの未熟を恥じない強さが(あるいは鈍感さが)必要だし、観客としての私達は、もっと初心者の冒険の後押しをするべきなのだ。
◯自由な創作のために
インターネットとデジタル化による変化は、全体として良い面の方が多いことは、多分間違いがないし、社会がインターネット以前の環境に戻ることは、まずないだろう。将来に渡って、自由と開放と平等は目指すべきキーワードである。(※3)そしてその自由が、創作において重要な、自己に没入する事と、細かいことにこだわらないワイルドさを許容し、育むものであって欲しい。
インターネットの発達によって得られるものの中で、世界中の誰とでも、どこにいても「繋がれる」ことは根本的なメリットである。人々はコミュニケーションし、仲間を作り、協力して構築し、争いを解消し、より良く生活するべきだ。しかしある局面において、繋がることよりも大切なものがある瞬間もあるのだと思う。(※4)
「作品」を作ろうとする時、それを「発表」し、多くの人に見てもらい、共感を得んとすることは根源的な動機のひとつである。しかし、それを世に問う事と同じ位、創作に没入し、丹を練る様に、意思を濃縮するためのプロセスが重要だ。そして他者と比較して評価する前に、現在の自分がその成果を喜び、よく味わうのだ。
世界には既に星の数ほどのクリエイターがいて、日々作品を作り続けている。その中で、自分がやったような事は、ほぼ間違いなく既に誰かによって為された事であり、世の中には自作以上のクオリティの物が存在しているだろう。しかし、自分が成した事の達成感が本物であったことを、そこに込められていた熱意を、現代の制作者は伝え、視聴者はそれを読み取らなくてはならない。創作の環境がどんなに変わっても、結局「作品」とはその作者の生き方を表し、鑑賞者はそれを味わうという事に何の違いもないのだから。
※1:当時...1980年代末、8mm映画仲間と、よく「未来の映画カメラ」の話をした。当時も一眼レフカメラ(もちろんフィルムの)はあったから、それを元に皆で妄想したものは、フィルムの換わりにCCDセンサーが載っていて、ハードディスクに高画質映像を記録できる、レンズ交換可能なカメラ...まさに現代のデジタル一眼カメラである(ハードディスクはソリッドステート・メモリーになったが)。もっとも当時は、パーソナル・コンピューターで積極的な映像加工が出来るようになるとは思っていなかったし、動画の送れる全世界コンピューター・ネットワークなどは夢のまた夢だった。SF小説の中でさえ、サイバースペースにアクセスするには、電話ボックスに一抱えもあるラップトップコンピューターを持ち込んで有線接続していた時代である。
※2:高性能なパソコンとソフトを入手しやすくなったことによる変化は、もう一つある。「自動車が買えるような価格」という例えがよく使われたが、その昔、デジタル制作環境を整えること自体に、そもそもかなりの覚悟が必要であった。それなりの出費をしている事自体が、それを活かした創作活動を諦めることに対する防波堤にもなっていたのだ。
※3:プライバシーとセキュリティ、というのもまた別の重要なキーワードである。
※4:皆が繋がれるインターネットの負の側面を、恐怖政治下の相互監視社会に例える言説もある。もっとも、ここで私が言いたいのは、単純に一人で考えることの重要性である。