「マンガ家マンガにハズレ無し」と言われるほど、「マンガ家(マンガ業界)を主人公にしたマンガ」は栄えている。最近でも「バクマン。」(原作:大場つぐみ、作画:小畑健)や「アオイホノオ」(島本和彦)、「重版出来!」(松田奈緒子)などの大ヒットがそのジャンルから生まれ、他メディア展開してさらに話題を呼ぶなどしている。また「漫画家残酷物語」(永島慎二)や「紙の砦」(手塚治虫)「まんが道」(藤子不二雄Ⓐ)、「ノンキ先生まんがノート」(寺田ヒロオ)などという「古典」といっていいほどの名作も存在している。
これに対し、「アニメ制作マンガ」すなわち「アニメ作成に携わる人物を題材にしたマンガ」も、ここ数年増加しているように感じる。この4年ほどで、「戦場(いくさば)アニメーション」(中田貴大、2013年)、「パラパラデイズ」(宇仁田ゆみ、2014年連載開始、現在不定期連載中)、「『ガンダム』を創った男たち。」(大和田秀樹、2014年)、「アニウッド大通り」(記伊孝、2014年1巻発行、現在8巻まで刊行)「SHIROBAKO-上山高校アニメーション同好会-」(原作: 武蔵野アニメーション、作画:ミズタマ、2015年)、「凸凹アニメーション」(原作:宮島雅憲、作画;五十嵐正邦、2015年)、「アニメタ!」(花村ヤソ、2015年連載開始、現在連載中)、「デッド・オア・アニメーション」(天望良一、2016年)、「西荻窪ランスルー」(ゆき林檎、2016年)等々が連載・刊行されている(声優関係の作品も増えているが、今回除外した)。
他のメディアでも、直木賞作家の辻村深月が「ハケンアニメ!」というアニメ業界の華やかな部分をエンターテインメント小説として書き、女性雑誌「an・an」に連載して話題を呼んだり(連載は2012-14年、単行本は2014年刊行、翌年の本屋大賞にノミネートされている)、TVアニメ「ガールズ&パンツァー」で人気を不動のものにした水島努が監督した「アニメ制作アニメ」である「SHIROBAKO(シロバコ)」(2014-15年テレビ放映)が各方面から賞賛の声を浴び、数々の賞を受けている。
「アニメ制作マンガ」の歴史は古く、手塚治虫の「フィルムは生きている」(1958-59年連載)を嚆矢として、「漫画家残酷物語」の中の一篇「嵐」(短編 1962年、貸本漫画「刑事No.21」に掲載)、「赤色エレジー」(林静一、1970-71年雑誌「ガロ」掲載。主人公がアニメーター)、「スタジオ・ボロ物語」(短編 藤子・F・不二雄、1973年雑誌掲載。トキワ荘漫画家らが作ったアニメスタジオの顛末を描く)などが黎明期の作品として挙げられる。
このあと1970年代後半に起こったアニメブームの頃、いくつもの短編「アニメ制作マンガ」が作成されたが、さほど単行本の形には至っていない。
その後、さして印象的な「アニメ制作マンガ」は登場せず、21世紀に入ってから元アニメーターの石田敦子が2004年から07年にかけて連載した「アニメがお仕事!!」(全7巻)と、天才的作画能力を持つ女子高生が数々の苦境にめげずに短編アニメを作る話である今井哲也の「ハックス!」(2008-10年連載、全4巻)が存在した程度であった(番外的存在として、安野モヨコが夫のアニメ監督庵野秀明とのオタク生活をエッセイ漫画にした「監督不行届」<2005年刊行>がある)。
しかし、「アニメ制作マンガ」はこれまでそれほど栄えたとは言い難い。その理由として、まず一般人の想像を絶する枚数を必要とする作画作業の辛い工程が、物語の楽しい進行を妨げることが挙げられる。また、作画技術が優れていないと作品に参加できない点(出来たとしてもそれで食っていくほどの賃金を得られない)、一つの作品に関わる人数のあまりの多さが創作する上での視点を拡散させてしまう問題など、アニメ制作にはエンターテイメント作品に求められるカタルシスを得にくい構造が数多く存在する。「アニメ制作の現場の多くはブラック企業的」という声も巷で聞かれ、真正面から制作過程を作品にしようとした場合、最近の読者が敬遠するという鬱展開のオンパレードとなることは必至であろう。さらに、マンガ家に優秀なアニメーター並みの画力がなかった場合(動きのある絵を描くという事も含め)、作品に説得力がなくなるという問題もある。
商業アニメの現場がエンターテイメントに向いていないのなら、高校や大学の自主制作アニメの現場を漫画作品にするという方向性がある。前述の「ハックス!」や「戦場(いくさば)アニメーション」「SHIROBAKO-上山高校アニメーション同好会-」などがそれにあたる。
しかしこの場合、「学園もの」「部活もの」的な方向に引きずられ、アニメ制作がどこかへ行ってしまう可能性が大きい。「ハックス!」はそうではなかったが、主人公に様々な理不尽な困難が襲いかかり、カタルシスに乏しかったという印象がある(今井哲也はのちに「アリスと蔵六」<2012年連載開始、現在も連載中>で、「世界を作ることができる少女」が成長していく姿を描いてこのテーマを昇華し、娯楽と思弁を両立している最中だが、それはまた別の話)。
以上、非常に長い前フリを経て、やっと「映像研には手を出すな!」1巻の話になる。物語の骨子は、女子高生3人が自主製作アニメで自分たちの信じる「最強の世界」を描こうと奮闘する、というものだ。これだけだと過去の「学園ものアニメ制作マンガ」と変わらないように思えるが、注目すべきはキャラクター造形である。
主人公的位置にいるのは、人間は描けないが、メカや建物の設定画の作成が超絶的に早くて造形的に優れているという「設定が命」の浅草みどり。彼女が芝浜高校に新入生として入り、これまで大量に書き溜めてきた設定画を活かして「最強の世界」を描く自主制作アニメを作りたいと望むのが物語の発端である。だが、学校にはすでにアニメーション研究会があり、みどりの意向が通る
とは思えない。新海誠のように一人で作品をどんどん作ってしまえばいいのだが、彼女は自分ひとりでは何一つ始められないという厄介な性格の持ち主だった。彼女の設定はしばし紙面に登場し、その薀蓄や奇想は読者を楽しませる。
2人目として登場するのが守銭奴だが勘が鋭く、弁も立つ金森さやかである。長身で顔が長く、そばかすだらけ。いつもメガネを額に乗せている。
3人目は、カリスマ読者モデルで、親が俳優で大金持ちの水崎ツバメ。アニメーター志望だが、彼女を俳優にしたがっている両親からアニメ研に入ることを禁じられている。
ツバメをめぐる事件を経て仲良くなった3人が達した結論が、既成の部に入れなければ作ってしまえばいいというもので、金森さやかが教師や生徒会を煙に巻いて「映像研究同好会」を設立し、資金を調達する。さやかのプロデューサー的才能が、自分の才能と思いを持て余していたみどりとツバメを噛み合わせ、素晴らしくテンポの良い展開で自主制作アニメの制作へ向かっていく。
「映像研には手を出すな!」が、過去の「アニメ制作マンガ」と一線を画している点はここだと思う。作画にこだわるアニメーターという、これまでのアニメ制作マンガが主役に置きがちだったキャラクターをあえて脇へ持ってきて、プロデューサー的な存在に活躍させることで、過去のアニメ制作マンガに見られた停滞感や鬱展開が見事に回避されているのだ。いままでのアニメ制作マンガで、なぜこのようなプロデューサー的存在が用いられてこなかったか、不思議といえば不思議だ。大規模な芸術・創作を形にするため、まず資金集めが重要だと思うのだが、その行程をエンターテイメントにしようという発想が日本のマンガにもっと必要のではないか。(まあ、実在する商業アニメプロデューサーに対する漠然とした嫌悪感のようなものが、マンガの作り手にあったのかも、と邪推はできるが)
そして、これは「アニメ制作マンガ」のテーマから外れてしまうのだが、「映像研には手を出すな!」には、マンガの表現の歴史に残りそうな、新しい手法が用いられていることを特記しておきたい。
それは画面のパース(遠近法)に合わせて吹き出しの中の活字にもパースをかけるという革新的な手法で、パソコンや編集のコンピュータ化によって可能になったものと推察される。これがどれほど広まるかはまだ未知数であるが、少なくともこの作品が起点であったことは明記しておきたい。そういう意味でも後世に語り継がれる作品であると考えるものである。
2016年、たった一人でアニメを作るところから始めた新海誠の劇場用長編アニメ「君の名は」が、邦画興行成績の1位を取ってしまったわけだが、これと同じように日本のアニメの制作方法も今後激しく変化していくのではないか。その変化に従い、これから新しい形の「アニメ制作マンガ」が登場する予感がする。
「映像研には手を出すな!」は、まだ1巻が出たばかりで先の展開は予測できないが、そういった新感覚な日本のアニメ・マンガの誕生を促す作品のように思えてならないのである。