2014年7月1日、アニメーション作家デイヴィッド・オライリー氏が、「Mountain」をリリースした。iOS、Android、ウィンドウズ、Macなどに対応したこのゲームは、プレイヤーが山を作って、それを観察するというものだ。

デイヴィッド・オライリー氏は1985年生まれのアイルランド出身のアニメーション作家で、ダブリン、ロンドン、ベルリン、ロサンゼルスと拠点を移しながら、CGアニメーションを用いた表現活動を行っている。CGアニメーションはその創世の時代から現実をシミュレートする方向で進化を遂げてきたが、オライリー氏は、グリッジノイズを用いる池田亮司氏の音楽などに影響を受け、グリッチやポリゴンといったCGそのものの「素材性」に着目するところにその特徴がある。

彼の存在が広く知られることとなったのは、2008年の短編作品『プリーズ・セイ・サムシング』だ。アメリカン・カートゥーンなど過去のアニメーション・映画作品からの引用を交えつつ、ネコの男とネズミの女の複雑な関係性を描くこの作品は、アヌシー国際アニメーション映画祭(優秀賞を受賞)の審査員評で「CGアニメーションに新しい美学を導入した」と評されるなど、国際的に高い評価を受けた。続く2010年の『エクスターナル・ワールド』は、メディアの影響で表層化していく現代社会を、かわいいキャラクターと残酷なユーモアを交えて描き、ベルリン国際映画祭の短編部門で金熊賞(グランプリ)を、ヨーロッパ・アニメーション界のオスカーであるカートゥーン・ドールを受賞。他にも国際映画祭にて数多くの賞を受賞し、新世代のCGアニメーション作家としての地位を確かなものとした。近年ではアメリカの人気カートゥーン・シリーズ「アドベンチャー・タイム」の1エピソード「グリッチはグリッチA Glitch is A Glitch」(2013)のゲスト監督を担当して普段は2Dの作品世界を全編3D化したり、また、スパイク・ジョーンズ監督の『her/世界でひとりだけの彼女』(2013)のゲーム部分の総合監督を手がけるなど、ますます活躍の幅を広げつつある。

そんなオライリー氏が今回リリースした「Mountain」は、プレイヤーが「神さま」として山を作るゲームである。ただし、プレイヤーができるのは、冒頭で表示されるいくつかの意味深な質問(「人生最初の記憶」「意味」「母親」など)に対して簡単な線画のドローイングで回答することだけだ。その回答に応じて山が形作られてしまえば、宇宙空間にポツリと浮かんで回転するその山に対して、プレイヤーは直接的に何の操作を加えることもできない。山を眺める角度を変えたり、キーボードのボタンを用いて音を奏でたりすることはできるが、それらの操作が山の世界に何らかの影響を与えることはない。いったん出来上がった山をキャンセルして新しくリスタートすることも不可能だ。新しい山を作るには、50時間ほど眺めていると突如として訪れるエンディングを待つ以外に方法はない。

操作を拒絶するがゆえに非ゲーム的にも思えるこのゲームの醍醐味は、その「眺める」という作業が生み出す余白にある。眺めていると、山は少しずつその姿を変えていく。昼と夜を交互に迎え、四季も移り変わる。雨や雪も降る。ときおり宇宙のどこかからオブジェが飛んできて、山に突き刺さる(レコードプレイヤーや馬の模型、巨大なサイコロなど、飛んでくるものは様々だ)。神々しい音楽が響き、誰のものか分からないメッセージが画面に表示されることもある。そのメッセージは、山の内言にも思えるし、山を眺める神のものにも見え、その言葉の余白の多さは、プレイヤー自身の過去の記憶を呼び起こし、現在の心境を前景化するだろう。

オライリー氏の過去の短編アニメーション作品においても、余白は常に重要なものだった。オライリー氏は、自らの表現の特徴について、「野生の領域」を重要視すると語っている。手描きのドローイング作品や人形アニメーションは、アニメーターの手作業の痕跡を作品に残す。その特徴はアニメーションをめぐる言説においてはポジティブなものと捉えられることが多いが、オライリー氏にとっては、な何らかのリファレンスを伴ってしまうそれらの手法は映像そのものを飼いならしてしまうものであり、「野生」からはほど遠い。彼は、現実模倣的なCGとも異なる、意味を担わされる前のポリゴンが、いかなる意味にも回収されないがゆえに「野生」の力を持つと考えているのだ。CG表現は人間の手の関与を感じさせないので「冷たい」と非難されることも多いが、その非人間的な冷たさこそが、オライリー氏にとっては可能性の源なのである。

「Mountain」における神の視点は、創造物に対する直接的な働きかけを許さない。プレイヤーは自動的に移り変わるその山の時間の変化をただ眺め、物思いに耽るだけだ。創造者と被創造物とのこのような関係性は、『プリーズ・セイ・サムシング』に一瞬だけ登場する神様のキャラクターを思い出させる。頭にプロビデンスの目をつけたタコのような風貌のその神様は、雲の上から下界を眺め、「いつかきっと理解してみせる」とつぶやく。創造者は、自らが作り出したものを理解しているとは限らない――「Mountain」が生み出すのは、創造物と被創造物とのあいだの、不明瞭な関係である。プレイヤーが最初に描いたドローイングは、山の造形やその終焉、途中で山に降り注ぐオブジェと果たしてどれほど関係しているのだろう。キーボードで奏でた音楽や眺める視点を動かすことは、山の行く末とのあいだに一見直接的な関係を持たないが、それを本当にそうだと言い切ることはできるのだろうか? 画面上に現れる抽象的で詩的な言葉は、もちろん、プレイヤー自身が打ち込んだものではない。しかし、その言葉が山の状態とあいまってプレイヤーの深い記憶に触れたとき、その言葉はプレイヤー自身のものであるとも言えてしまうのではないか?

オライリー氏の作品は、常にアニメーション概念への批判的考察を隠している。「Mountain」もまた、そのひとつの試みとして捉えることもできるだろう。「Mountain」は、極めて非アニメーション的でありつつ、そうあることによって、伝統的なアニメーション観では回収しきれない何かをCGアニメーションが持っていることを明らかにする。たとえばコマ撮りやドローイングといった伝統的なアニメーション手法は、アニメーターの行う作業の結果を、創造物に反映させるだろう。つまり、一対一の関係が築かれるのだ。その観点から考えれば、自動的に生成していく「Mountain」のその世界は、まったくアニメーション的ではないだろう。しかし、創造者と創造物とのあいだの関係性に断絶を走らせるそのあり方は、逆説的に無限とも言える関係性の解釈を許容し、断絶のうえに新たなつながりを見いださせ活性化させるという意味において、アニメーションに新たな可能性を発見しようとしているとも言えるのだ。

デイヴィッド・オライリー公式ホームページ
http://www.davidoreilly.com/