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 1951年11月に国内初の公立近代美術館として設立された神奈川県立近代美術館鎌倉館(通称・カマキン)。坂倉準三設計によるモダニズム建築の傑作としても知られる鎌倉館だが、老朽化や耐震基準の不足を理由に2016年1月末をもって美術館業務を終えることが決定された。

幻の中庭スクリーンが復活

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 2015年4月から始まった鎌倉館最後の展覧会「鎌倉からはじまった。1951-2016」は3期に分けて開催されてきたが、最後の第3期にあたる本展の関連企画のひとつとして、写真家のトヨダヒトシによる2日間限定のスライドショーが催されることとなった。ここで写真家の紹介に入る前に、なぜ鎌倉館の閉館イベントにスライドショーが上映されることになったのかについて、すこし触れることにしたい。

 鎌倉館の開館当初、中庭の壁面には映写用ロールスクリーンが設置されていた。記録によれば、教育目的のため、スライドをスクリーンに大きく引き伸ばして投影しながら作品紹介をしていたとのことらしい。だが、ある時期からそのスクリーンも撤去され、幻の存在となっていた。しかし、鎌倉館の最後を飾るにあたって、その幻の中庭スクリーンが期間限定で「復活」することになったのである。それと同時に、映像を投影して文字通り中庭スクリーンを「復活」させる大役も必要となる。

 そこで、白羽の矢が立ったのがトヨダヒトシである。

 トヨダヒトシはスライドショーのみを自らの表現媒体とする稀有な作家である。横浜トリエンナーレ2014の出展作家のひとりとして横浜の各地で上映していたことは、記憶に新しいだろう。トヨダがスライドショーのみで作品を作り始めたのは、1993年にニューヨークに拠点を移してからである。日々が一瞬一瞬で過ぎゆくように「遺す」ことではなく「消え去る」ことを追い求めたトヨダにとって、印画紙よりもスライド・プロジェクションを選択したことは、ある意味で当然のことだろう。以来、ギャラリースペースや美術館、映画祭のほかに駐車場や公園、教会、遺跡跡、小学校の校庭といった屋内屋外問わず、様々な場所で上映を行っている。その上映スタイルも特徴的で、映写機の自動送り機能は使わずに写真一枚一枚を手動で投影している。そのため、同一タイトルの作品を上映しても全く同じものにはなり得ず、一回限りの体験となる。

サウンド・アーティスト吉村弘の遺した写真

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 スライドショーのイベントは2日間限定で行われ、10月24日(土)に2010年に初めて発表した『白い月』(2010-2015)を、10月25日(日)には新作となる『for Nine Postcards』を上映した。今回は、25日(日)に上映された『for Nine Postcards』について触れていくことにしたい。

 この新作は、トヨダにとっても初の試みであった。というのも、美術館からの依頼で行うコミッション・ワーク方式の制作であり、この作品に使われた写真群もトヨダとは別の人物が撮った写真から成っているのである。その人物とは、戦後日本の環境音楽に多大な功績を残したサウンド・アーティストの故・吉村弘(1940-2003)である。吉村は鎌倉館と葉山館の開館と閉館の音楽「SOUND LOGO」全4曲(音楽集「Four Post Cards」)を作曲するなど、鎌倉館と非常に縁が深い。

 『for Nine Postcards』は、全5章から成る本章にエピローグを加えた構成となっている。トヨダが「編んだ」写真は、吉村が生前撮影した2,800余枚のスライド写真(現在、鎌倉館が収蔵)と、家族が所有する生前の吉村の姿を捉えた写真からセレクトされたものである。トヨダは吉村の遺した様々な音源を聞き、鎌倉館に所蔵されている彼の遺した制作ノートを読むことで、ついに写真を編む決心がついたという。普段は音をつけずに上映するトヨダが伴奏音として選んだのが、吉村のファースト・アルバム『Music for Nine Post Cards』(1982)だ。本章には『Music for Nine Post Cards』から5曲、エピローグには先述した『Four Post Cards』から鎌倉館の閉館の曲が使用されている。「9枚のポスト・カードに記した小さな音の断片をもとに、フレーズを幾度も繰り返し、雲や波のように次第にかたちが変っていく」(吉村弘「ナイン・ポストカードについて」)スタイルは、一日一日という小さな生の断片(=写真)を丁寧に縫い合わせ、その生の繰り返しのなかにふと変化の兆しを見てとるトヨダの制作スタイルとどこか通底しているように思える。では、トヨダの編んだ各章を簡単に見ていくことにしよう。

音と写真が織りなす「繰り返し」と「変化」

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 『for Nine Postcards』はあるバス停の光景から始まる。大通りに面した建物の4、5階ほどの高さからバス停を見下ろす俯瞰的な視点で、バス停で待つ人、自転車で通り過ぎる人、バス停に停車するバス、行き交う人や車の群れを定点観測するように撮ったカットが繰り返される。いつの間にかカメラの視点は地上に降り立ち、先ほどのバス停が「広尾橋」であったことを告げる。先ほどの俯瞰視点は広尾に居を構えていた吉村の自宅からの眺めだったのだろうか。秋の落葉が始まった地上の光景がいくつか続いた後、再び視点は上空に舞い戻り、俯瞰視点を繰り返す。

 第2章は第1章ともまた異なった「繰り返し」と「変化」が起きている。横断歩道の白線や車道と歩道を分かつ白線、マンホール、道路埋込型の誘導灯、タイヤ痕。白線が五線譜に見えるかと思えば、次の瞬間にはピアノの鍵盤のようにも見えてくる。マンホールは音符に、誘導灯は休符に変貌し、まるで街のなかに音が溢れているかのようである。その後、電車の車窓が繰り返される第3章、1970年代後半に吉村自身が参加した即興演奏音楽集団「タージマハル旅行団」(フルクサスのメンバーであった小杉武久らによって結成)の全国行脚の様子を伝える第4章と続き、最後の第5章では空模様、波間、木漏れ日、フェンスに絡まるツタなど、まるでこの世界のいたるところから採譜したかのような「繰り返し」と「変化」が随所に散りばめられている。

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 そして、全5章が上映されたのち、小型のプロジェクターを携えたトヨダが中庭に立って、生前の吉村の姿を捉えた写真を正面のスクリーンと側面の壁の二面を使ってゆっくりと投影する。背後に流れる鎌倉館の閉館の曲が、このスライドショーの終りを静かに告げる。

 繰り返しながら静かに変化する音と日々、吉村の聴く風景とトヨダの見る風景が表裏一体のものとしてスクリーンに浮かび上がる。トヨダは吉村の「見た音」「聴いた風景」をその響きは残しつつ、日々過ぎゆく一片の生として新たに織り込んでいく。この作品はトヨダによる吉村(の音楽)へのオマージュというよりは、むしろ吉村とトヨダの時空を超えた「共作」と言えるのではないだろうか。

収蔵品活用の新たな可能性

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 『for Nine Postcards』は、実のところ不思議な存在だ。トヨダヒトシの上映作品であり、物故作家の資料アーカイブであり、美術館の収蔵品でもある。さらに、今回は屋外での上映だったので、サウンド・アーティストとして吉村が長らく実践してきた「環境音」への気付きを美術館周辺の音で体感する視聴者参加型イベントでもあった。作者と作品、作品と資料といった従来の関係性では捉えにくい事態がここでは起きている。

 今回の上映イベントは美術館の収蔵品に新たな可能性の光を投げかけているように思われる。美術館の役割は主に作品の収集・保存・展示とされており、作品の背景を知るために作家の資料も数多くアーカイブされている。だが、その位置づけは作品をよりよく理解するための資料であり、副次的な存在に留まっているのが現状だ。しかし、その資料は本当にそのような使い道しかないのだろうか。

 今回のように物故作家の資料アーカイブが新たな視点をとおして「作品」化されることで、単に資料として眺めていたときには体感できなかったであろう物故作家の視点や息遣いを臨場感たっぷりに味わうことができるであろうし、物故作家の思いを超えてその資料に宿る新たな魅力を別の作家が見出すこともありうるだろう。そのとき、資料は資料でありながら資料以上のものとなる。

 『for Nine Postcards』のような試みはそう頻繁に行える類のものではないが、美術館とアーティストが協同する創造的営為として今後積極的に検討する余地は大いにあるのではないだろうか。

(調 文明)

トヨダヒトシ

http://www.hitoshitoyoda.com

神奈川県立近代美術館

http://www.moma.pref.kanagawa.jp