『超絶入魂!時代劇画の神 平田弘史に刮目せよ!』展が、東京・根津の弥生美術館で2017年1月3日(火)〜3月26日(日)(2月14日から後期展示替えとなる)まで開催している。平田弘史はこの会期中に80歳を迎える、劇画歴60年に及ぼうとするマンガ家である。徹底した時代考証と確かな筆致の時代劇画には一般読者のみならず、編集者やマンガ家にも絶大なファンが多く、2013年には第42回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞を受賞している。
平田弘史は1937年2月9日生まれ、東京都板橋区に6人兄弟の長男として育つが、親が天理教布教師の一家は極貧の生活だったという。1945年3月には空襲を逃れるため、一家は奈良県天理市に移る。平田は小学校の頃から機械いじりが好きで、映写機やラジオに興味を持つ少年だったが、天理高校へ入学するも即日退学して、父のポンプ水道店で働くようになる。しかし翌年には父親が急逝してしまい、一家を支えるために大阪の設備会社へ就職して現場周りをするようになる。ところが21歳の時(1958年)に、通勤電車の中で中学時代の先輩でマンガ家となっていた宮地正弘と偶然再会する。中学時代に学校新聞に四コママンガを描いたことはあったものの、マンガには全く興味が無かった平田だが、宮地の勧めでマンガ道具一式を借りて時代劇マンガ16頁をわずか一晩で描いてしまったという。原稿料に魅力を感じた平田は設備会社を辞め、この「愛憎必殺剣」で大阪の貸本漫画『魔像』第5集(日の丸文庫)でデビューする。
展示の最初のコーナー「前代未聞 突然のデビュー」では、平田の生後120日目の写真や近影、デビュー作「愛憎必殺剣」や後の問題作「つんではくずし」の単行本のページと共に、「我が剣の握れるまで」の原画を展示する。
平田は1作目こそ一晩で描きはしたが、デッサンや時代劇に必要な日本画の素養なしにデビューしたことで2作目を描くまでには大変に苦労をする。他のマンガ家の作品は全く読まずに、時代小説の挿絵を参考に独学で勉強し、特に挿絵画家の木俣清史を手本としたという。更に天理図書館に通い時代考証の猛勉強も行い、大阪の古書即売会に時代考証の資料探しに通った。歴史書や古文書を解読し、建物・服装・所作・小道具など徹底的に調べ抜いたという。展示された習作では挿絵の模写や、鉛筆の下書きの残る描きかけの原画も展示されている。
日の丸文庫『魔像』で次々と作品を発表し人気作家となった平田は、読者の人気投票では、さいとう・たかを、手塚治虫を押さえて1位となることもあった。会場にはそんな頃の『魔像』の読者投稿欄のコピーを読むことが出来る。
そして1961年の『魔像別冊・平田弘史特集』の「復讐つんではくずし」ではその残酷描写が読者にトラウマを与えるとされながらも人気は不動のものとなった。しかし翌年の『魔像別冊』の「血だるま剣法」では、その不遇な主人公の出自が問題視されて一部回収騒ぎとなってしまい、この「つんではくずし」と「血だるま剣法」は2004年に青林工藝舎から復刻されるまでは長らく幻の作品となっていた。
この展示コーナーでは『魔像』など貸本漫画の展示や、まだマンガタッチを残した「意外なる死因」「目玉のカジちゃん」の原画や、少年の目を通した優しい作品「ボクのおじさん」のパネルを展示している。更に日の丸文庫の少年誌『まんがジャイアンツ』掲載の「0伝」の展示では、劇画とは真逆の少年マンガタッチの作品も描いていたことも判るのが面白い。
また日の丸文庫「士魂物語」第11巻(1964年)に掲載された"どのようなペン先やインクを使っているか"の質問に対する解説ページのコピーを手にとって読めるようにしている。ちなみに2階の展示室には平田の愛用のペンとペン軸を展示し、画材についての解説もある。アルミ製のカブラペンで5ミリ幅から細線まで描きわけていたのだが、ペン先が鉄のメッキ製となってからは平田の筆圧に合わず生産性が落ちてしまったという。
1965年に28歳となった平田は、衰退しつつある貸本漫画に見切りをつけて、何か他の仕事を探そうと東京へ上京して劇画家・佐藤まさあきの元に居候する。将来の見通しも無い中で翌年には結婚して国分寺に転居するが、偶然にも少年画報社の『少年キング』と芳文社の『コミックMagazine』から仕事の依頼が入る。折からの劇画ブームで家族を養う為もあり平田は数々の時代劇画を連載することとなる。
しかし時代考証を追求し、納得するまでは描けず、妥協を許さない創作姿勢は原稿の遅れに繋がり、当時の編集者によると手塚治虫と平田弘史の二人は原稿が遅い作家として特別扱いだったという。アシスタントも雇ってはいたが、平田の厳しい指導の下で時にはアシスタントが2週間掛けて描いた絵でさえも気に入らなければ破り捨てられることもあったそうだ。
展示ではそのような頃の作品「日陰者の死」「被虐の愛太刀」「嘘」「反骨刀傷記」「刀返し斬法」「それがし乞食にあらず」などの原画が並ぶ。また当時の時代劇映画の宣伝の為に劇画化が企画された際、平田にも声が掛かり、映画『風林火山』を題材とした「片目の軍師」の他に「座頭市」「御用金」「人斬り」、といった作品も手掛けるが、平田は映画原作に囚われないで自分が納得する内容で描いたのだという。
更に「茶筅髪禁止令」では戦国時代の茶筅髪(ちゃせんがみ)を髷(まげ)にする幕府の命令に対して、主人公らの反発から切腹にまで至るストーリーは平田ならではのものだが、武士の切腹を描く上で、平田自身の19歳の時の麻酔無しでの盲腸の手術の体験を意識して描いたというエピソードにも驚かされる。
職人気質の平田は締切りが近づくと徹夜を続け、アシスタントが体を壊して辞めてからは、夫人を指導して手伝わせるようにし、夫人は子育てと家事をしながら原稿を手伝ったのだという。しかし1970年の「弓道士魂」の連載時に平田は体調を崩してしまい、仕事を減らしたことで経済的に困窮する。また1972年の「首代引受人」の連載が掲載誌休刊により終了して、またも仕事量が減少してしまうが、1975年に『増刊ヤングコミック』からの原稿依頼により状況が好転し、他社からの原稿依頼も増えてくる。そして代表作とも言える「薩摩義士伝」を連載するも1982年には未完で終了。1983年には「黒田三十六計」を連載開始するがこれも1985年に未完のまま一度は終了したものの、2001年から新たな掲載誌で不定期ながら再開をしている。
その一方で、劇画への意欲を失った1982年には平田は電気工業の仕事をしたこともあったという。少年期には電子工学や精密機器関連の仕事に就きたいと考え、愛読書はメカトロニクス関係だという平田は、自宅にはプロ用の旋盤を持ち、劇画を描くためのペン立てなどの道具や、更には映写機を自作する。またシンセサイザーで作曲までするそうだ。駐車場作りや、電気工事、水道工事など常にプロを目指すと言ってDIY(Do It Yourself)をこなす多才ぶりは、劇画を描き始めた時の猛勉強にも通じる平田独自のものだろう。しかし1987年の50歳の時に静岡県伊東市に新居を構えて引越ししてからは、それまでの社会への不満や怒りをぶつける創作態度に疑問を持ち始めて作品を描けなくなり、生活も困窮してしまい、アルバイトのつもりで『週刊ヤングマガジン』誌に自分自身の日々の考えや生活の様子を題材としたエッセイ・マンガの「平田弘史のお父さん物語」を連載して周囲を驚かせる。そこには平田ならではの劇画の筆致でありながら、原稿の締切りの合間に大工仕事を楽しみ、"自分とは何か"と悩み、時には子供たちへ生き方を説く自身の姿がユーモラスに描かれていたからだ。この作品を経て心機一転した平田は、「無名の人々 異色列伝」では実在する知られざる過去の偉人を綿密な取材で描くシリーズを手掛ける。更にはその中のエピソードから伊豆の城主の妻を主人公とした「怪力の母」も連載する。
その後は、電子、機械好きの性格が劇画作りにも反映されることとなり、58歳となった1995年には前年から連載中の「怪力の母」でMAC(マッキントッシュ)パソコンを導入し、表紙絵をコンピューターで作画する。1997年の『月刊アフタヌーン』連載の「新首代引受人」ではAdobe社の画像編集ソフトのPhotoshopによる様々な作画技法を試みてもいる。元からの画力に加えてのこのデジタル作画は注目を集め、当時の『MACLIFE』誌でその技法が紹介され、更にマック・エキスポに参加した平田はイラストレーター達と意気投合し、平田の貸本時代の作品をデジタル化して残そうという活動が起こり、これがラピュータの『平田弘史時代劇画創世記傑作選<全5巻>』復刻・刊行へと繋がった。またペンタブレットのメーカであるワコム社と共同で「劇ペンソフト」開発プロジェクトが立ち上がるが、平田の微妙なペンタッチの再現や描画速度の追従などは当時のハードとソフトでは限界があるとして二年かけた開発は終了してしまい、平田自身もペンと原稿用紙の作画スタイルに戻ることとなった。それでも2001年には平田は自身のHPを開設するなどデジタルとの付き合いは現在も継続しているようだ。
(平田弘史HP http://www2.wbs.ne.jp/~tesh/)
1978年に平田はアメリカのサンディエゴ・コミック・コンベンションに原画を出品して大絶賛を得る。その中には「ターザン」で有名なコミック作家のバーン・ホガースや「バットマン」「スーパーマン」を描いたニール・アダムスもいたそうだ。こうして海外での評価が高まり、2004年のフランスを皮切りに、スペイン、アメリカ、インドと翻訳版単行本の出版が続く。2009年にはフランスの第36回アングレーム国際バンド・デ・シネ・フェスティバルで「無名の人々 異色列伝」がノミネートされるなど海外での評価は今も高まり続けている。
また劇画だけでなく、平田流ロゴ(書体)と呼ばれる独特な書体も忘れてはならない。ごく初期から平田作品の扉のタイトル文字などは平田自身の筆書きである。これは父親の書体や資料として集めた古文書から学んだものだという。今回の展覧会のために、平田が筆書きで書き下ろした作品タイトルなどの書も展示しているので見過ごさないようにしたい。また大友克洋の「AKIRA」や山口貴由「変蛮引力」「シグルイ」、みなもと太郎「風雲児たち」など、作者からの依頼によりタイトルロゴを平田が手掛けた作品は数多い。そういった交流のある多数の作家たちから寄せられたお祝いの色紙も会場に展示されている。
(平田弘史応援隊 http://www.laputa.ne.jp/ouentai/index.html)
なおこの展覧会の図録として弥生美術館の松本品子学芸員の編集によりラピュータから『鬼才!時代劇画家 平田弘史その軌跡』が発売されている。また平田の劇画の技法解説書として玄光社から『プロのマンガテクニック超絶サムライ画の描き方 平田弘史』も発売中なので、併せて読んでみてはいかがだろうか。