平成28年度「メディア芸術連携促進事業」:連携・協力の推進に関する調査研究 「超」領域展覧会の企画立案: 「少女マンガ誌・およびふろくにまつわるオーラルヒストリー」(第5回調査報告研究)

1.調査研究の目的

「超」領域展覧会の研究目的は、マンガ、アニメ、ゲーム、メディアアートの4領域の史資料やコンテンツ等の「共同利活用を実現する」ため、特に史資料やコンテンツの利活用のモデル(案)として、連携展覧会(領域横断・資源シェア型)が効果的であることを実証する「モデル展覧会(案)」の立案を行うことにあります。

昨年度事業として実施した「少女雑誌ふろくの歴史・展示」研究では、戦前から刊行されている代表的な少女マンガ雜誌や、戦後刊行され現在も継続し、60年の歴史を持つ集英社『りぼん』とその「ふろく」に着目して、それらが果たしてきた社会的な意義、読者への影響などを読み解く「展覧会」を開催するための準備作業を行いました。

今年度はこの成果を基に、少女マンガ誌史上最高発行部数である255万部を達成した、1990年代の『りぼん』編集者や関係者への聞き取り調査を行い、オーラルヒストリーとしてのとりまとめを行っています。昨年と今年の研究成果は、2016年12月から2017年2月まで京都国際マンガミュージアムで開催され、2017年6月まで明治大学米沢嘉博記念図書館にて巡回している「LOVE♥りぼん♥FUROKU 250万乙女集合!りぼんのふろく展」の展示内容にも活用されています。

2.調査結果の公開

聞き取り調査は以下の方々へ実施しました。

りぼん編集長 冨重 実也氏
りぼん副編集長 後藤 貴子氏
元りぼん編集者/児童書編集部 編集長 江本 香里氏
元りぼん編集者(現在は集英社を退職) 岩本 暢人氏
元りぼん編集者/学芸編集部企画出版 編集長 小池 正夫氏
元りぼん編集者(現在は集英社を退職) 宇都宮 紘子氏

 貴重な研究成果が得られたため、聞き取り調査の記録を公表することとしました。公表は、とりまとめが完了した順に実施していく予定です。

調査記録の公開に際して

1955年の創刊以来、日本の少女マンガ誌およびふろく文化を牽引してきた一つに『りぼん』があります。本誌は特に1980年代後半から1990年代前半にかけては発行部数が上がり1994年には少女マンガ誌史上最高発行部数となる255万部を達成しました。その記録はいまだに破られていません。当時の『りぼん』では、読者のことを「250万乙女」と呼び、作品のキャッチフレーズなどに採用していました。

さて、かつての「250万乙女」は今や30代。仕事に子育てに活躍している女性が主です。なぜ今のアラサー女子がこんなにもパワフルなのか?そのパワーの根源に『りぼん』は存在するのではないでしょうか?250万という膨大な数字が現在の女性たちとリンクしないはずはありません。『りぼん』は読者に明日を前向きに切り開く様々な術を教えてくれました。もちろん、この世代や『りぼん』に限ったことではありませんが、今回はこの250万乙女の原風景はいかにして作られたかに迫りたいと思いました。

今回のオーラルヒストリーで対象としたのは、80年代から現在までを対象に、『りぼん』を作った編集者たちの話です。特に、ふろくについては、70〜80年代までの研究蓄積は先行研究本や展覧会で語られることはありましたが、それ以降の年代については、ほとんど語られることが少ない分野になります。

なお、このオーラルヒストリーの内容は、京都国際マンガミュージアムで2016年12月から2017年2月まで開催され、2017年6月まで明治大学米沢嘉博記念図書館で巡回中の「LOVE♥りぼん♥FUROKU 250万乙女集合!りぼんのふろく展」の内容の参考にもさせていただきました。オーラルヒストリーと合わせてお楽しみいただければ幸いです。

倉持佳代子
京都国際マンガミュージアム
京都精華大学国際マンガ研究センター

調査記録5 宇都宮紘子氏

 『りぼん』のふろくは1970年代にはすでに定評がありました。ふろくのために高校、大学、時に社会人になっても『りぼん』を買い続ける読者が大勢いたほどです。
宇都宮紘子さんは、その勢いが少し衰えた1982年にふろくの現場を引き継ぎ、確かな美意識を支えにその息を吹きかえさせました。同時に、250万部を発行した大量生産時代を、質を落とさず乗り切る制作システムを確立なさいました。

 第5回目では、『りぼん』に受け継がれた「ふろくの現場」が生まれる過程を追います。

少女マンガ誌・およびふろくにまつわるオーラルヒストリー 第五弾

実地日:2016年11月10日(木)

対象者
■宇都宮紘子(元りぼん編集者)1970年集英社入社
りぼん在籍期間:1982年〜1994年
インタビュア
倉持佳代子、ヤマダトモコ
構成
ヤマダトモコ

■『りぼん』の「ふろくの現場」が生まれる過程

「『りぼん』のふろくのお話を聞きたい」とお願いすると、どの編集者さんもマンガ家さんも「宇都宮さんからお話を聞いたほうがよい」とおっしゃいます。

<宇都宮>

 ずいぶん昔のことですので記憶が曖昧で正確なお答えができるか不安です。

宇都宮さんは、元々は『別冊マーガレット』(以下『別マ』)にいらしたんですよね。ふろくを担当するために『りぼん』に異動になったとお聞きしました。ふろく担当に抜擢された理由は何だったのでしょうか。

<宇都宮>

 異動になる前の私の『別マ』での主な仕事は表紙、口絵、懸賞などでした。応募して抽選で当たる懸賞の賞品は市販の女の子がほしそうなものに加えて、必ず毎月、掲載中の人気マンガのキャラクター入りの特製品を数種つけていました。例えば新年号にはくらもちふさこ先生のマンガキャラクター入りプリント柄の布製カバー付ダイアリーだったり、初夏ですとマンガキャラ入りTシャツ数種などなど。これらの特製品は布製、ビニール製など素材は自由で単価もかなりかけていました。自分だったら「こういうものがほしい」という感覚で作っていました。それと年2度位の「応募者全員プレゼント」の企画、これは編集スタッフ全員が候補グッズを持ち寄り、全員で決めていました。そんな私の仕事のやり方を見ていて、ふろく作りに向いているのではと、異動になったと思います。

 『りぼん』は創刊も古く、社にとっては柱となる雑誌の一つだったと思います。それが講談社の『なかよし』に部数を抜かれたため、「ときめきトゥナイト」の新連載に合わせ、宣伝費をかけアニメ化したり、ある期間、採算は度外視してふろくの原価アップも容認してくれていました。ラジオで放送されていた「全国子ども電話相談室」1も、その当時は、「子どもの本の集英社〜♪♪」というメロディーで始まり、集英社もスポンサーになっていました。それだけ会社は子ども向けの本に力を入れていたのだと思います。

『別マ』には何年ぐらいいらしたのでしょうか。また、特製品などの作り方とふろくの作り方とでは違う点もたくさんあったと思いますが、そのノウハウはどのように学ばれましたか。先輩から教えられたことなどはありましたか。

<宇都宮>

 『別マ』には10年以上いました。私が『りぼん』に異動する少し前までは、先輩の女性がふろく担当でしたが、幼児向け絵本を作るということで書籍を作る部署に異動されていて、ふろく担当は男性でした。彼の仕事のお手伝いをしながら徐々に覚え、メインの仕事は『別マ』時代と同じように表紙と口絵、プラス読み切りマンガを担当していました。1年くらい経ってから表紙担当を離れ、ふろく担当、プラス数名のマンガ家の担当になったかと記憶しています。
ふろくを作る素材は、硬質フィルム、ビニール、金属など、紙以外にもいろいろで、毎月使用する素材が変わりますので、製作部スタッフ、資材部スタッフ、編集長、ふろく担当の計7〜8名が集まり、月1度のふろく会議がありました。当時、なぜかこのふろく会議に社長自らも出られていたのです。それがある日、「これから僕はこの会議に出ない。1年後に出るから、その時は確実に『なかよし』を抜け」と言われました。

それはすごいプレッシャーですね。当時のふろくはどのような体制で作られていたのでしょうか。

<宇都宮>

 私が『りぼん』に異動した当初は、紙製の組み立てふろくのノウハウをいろいろ持っていらした松下印刷のおそらく専属デザイナーの方だったと思いますが、中年の男性デザイナーが毎月、アイディアを持ち込んでくれていました。ふろくのヒントになりそうな商品あつめは、外部の中年の女性に毎月お願いしていました。
毎月のそういう流れの中でふろく担当者はいろいろ考え、ふろくを決めていたと思います。ふろく担当になってまだそう長くないその男性編集者は、楽しく作っている感じはしませんでした(笑)。当時は少女マンガ誌に配属され、しょげている男性もいるように見受けられました。ふろく付きマンガ誌とはいえ、「マンガ」ではなく、ふろくの担当に指名され、がっくりきちゃう人もいたかと思います。もちろん男性でも細かいものを作るのが好きな方もいらっしゃったとは思いますが。ふろくは人気マンガがないと輝きません。どこにも売っていない大好きなマンガのキャラクターのついたふろくを待っているんです。
私が異動した当初のふろく製作現場はそういう状況でした。当時、各編集部には、それぞれ「小道具室」と呼ばれる倉庫部屋が割り当てられ、その中には抽選前の懸賞賞品や撮影の小道具、そしてふろくのアイディア用に購入した使われていない数年分の小物がいっぱい入っていました。それを見て「ふろく」は人まかせにしないで自分の足で歩きまわり、ヒントとなるものを探しださなければ自分の作りたいいいものはできないと思いました。

当時は少女マンガも、ましてや少女マンガのふろくも社会的な地位がとても低かったのですね。

<宇都宮>

 社会的地位はそうだったかもしれませんが、今とちがっていろいろな楽しみが少なかった当時は、少女たちにとっては月1度のふろく付きマンガ誌の発売日は待ち遠しかったと思います。ともかく、私はふろくを少しでもよくしたいと思っていました。ふろくは特製品や全プレの製作とは違い、日本雑誌協会がまとめた「雑誌作成上の留意事項」の中で「ふろく」についても細かく取り決められていました。例えば、「硬質フィルムの厚さは○○ミクロン、サイズはA5まで使用可」「紙の厚さは何ミリまで」「ポスターは雑誌のサイズまで折りたたむこと」「ふろくの点数が多い場合は3つの単位にまとめること」等。他にもありましたが忘れました(笑)。小学館、講談社、集英社の各ふろく雑誌はこのルールを守りながら、ふろく作りをしていました。

これを守っているかどうかはどうやってチェックしていたのですか。

<宇都宮>

 お互いに見ていたと思います。「わー、すごく素敵、負けた!!」とか「えー、この硬質フィルム、厚い。違反だよ!!」とか(笑)。

毎月、他誌のふろくは見ていましたか。

<宇都宮>

 もちろんです。編集部は関連雑誌をすべてとっていました。私は『りぼん』に配属されて初めて『なかよし』『ちゃお』のふろくをチェックしだしました。ふろく付学年誌やアニメ誌なども。

 当時の『なかよし』のふろくはきめ細やかな工夫があるし、ふろくの点数も『りぼん』に比べて多かったんです。『なかよし』に負けないふろくを作るには全てではなくても、全体の60〜70%は魅力的なふろくにしないとダメだと思い、それを作るには私ひとりでは無理だと思いました。それで『なかよし』はどんな体制でふろく作りをしているのか知りたくて、知り合いのデザイナーの友人がたまたま同じ講談社の雑誌のデザイナーだったので、そのルートで大まかな製作現場の様子を聞いてもらいました。ふろく担当者は男性でしたが、美大出身の若い女性にふろく専門のスタッフとして参加してもらっていて、また、複数の印刷会社かデザイン事務所からも毎月アイディアをプレゼンしてもらい、決めているとのことでした。ともかくしっかりしたふろく作りのシステムができているのにびっくりしました。『りぼん』はさっきお話したような状況でしたから。……スパイみたいなことをしてしまいましたが……。

それはリサーチですよね。すごく大事なことだと思います。

<宇都宮>

 それでこちらも、ちゃんとした体制をつくらなければと思い、現実には費用のかかることですので、編集長のOKをもらい動き始めました。
毎月、アイディア代をお支払いするということで、美大出の細かいものを作るのが好きな若い女性を紹介してもらい参加してもらいました。この方は1年間程の間のみでしたが。同時に大日本印刷にも「ふろくのアイディアがあったらお願いします」と頼み、大日本経由でデザイン事務所のスタッフが毎月アイディアを持ってきてくれるようになりました。松下印刷にも美大出の若い女性が入社し、かわいいアイディアを出してくれました。そのうち、凸版印刷も「うちも参加させてくれ」ということで、毎月いいアイディアを持ち込んでくれました。そんな中で、「アイディア採用のふろくは持ち込んだ印刷会社の仕事」というルールを作り、おかげで各デザイン事務所がアイディアを競い合い、ふろくの質も徐々に上がっていったかと思います。手内職が入る組み立てふろくは今まで通り、松下印刷に発注していましたが。

宇都宮さんが入られるまでは、アイディアは松下印刷1社で、他の印刷会社同士のコンぺとかもなかったのでしょうか?

<宇都宮>

 いや、あったかどうかもわからないです。教えてもらってないので無かったと思うけれども……。もちろん私が入った時でも『りぼん』は創刊から30年近く経っていましたから、1月はカレンダー、6月はノートのセットとか ─メインのふろくを第一ふろくっていうんですけど─ それはもう何となく決まっていました。それ以外のふろくはコンペでのいいアイディアがとり入れられ、各マンガのキャラが生かされた楽しいふろくが徐々に増えていったと思います。
それでそのうち200万部の時代がやってきて、私が異動する少し前に250万部になりました。マンガ家たちはもちろん、編集部みんなでがんばったからなんでしょうが。

私たちは、ふろくの力がものすごく大きかったことを実感しています。

<宇都宮>

 そういっていただけるのは嬉しいけど、実際はマンガの力です。その当時の『りぼん』は他誌よりマンガのジャンルが広くパワーがあり、読みごたえがあったと思います。部数が増えたことで、ふろくの進行も影響を受けました。ふろくには毎月必ず内職作業が含まれますからこれに該当するふろくはより進行を早めなければならなくなりました。細かいふろくを1つにまとめる袋づめの内職は、さっきも話に出た徳島県の松下印刷さんに大抵やっていただいていました。また、250万部と部数が膨大になっていくと、印刷が間にあわなくなって、ある時期から中国の深圳(しんせん)の工場でやってもらうこともありました。松下印刷から中国の工場にオーダーして、向こうで作ったふろくを船で徳島県に送ってもらうという方式で。仕分けとか、トランプを型からはずして箱につめて袋に入れるというような細かい仕事も徳島でやっていました。

私(倉持)の職場に徳島出身の同僚がいます。その子いわく、友達のお母さんが内職でふろくの袋づめなどをやっていたとのこと。徳島には、かなりの割合でそうした内職でふろくの袋づめをやっていたという人がいるはずです。

<宇都宮>

 そうでしょうね。私も、徳島に見学に行ってきました。松下印刷が仕事の現場を見に来てくださいということで。それで、その作業がいかに大変かわかりました。しかし、現場の人達は「助かります」って言ってくださいました。足が悪くて通勤できないという人も自宅でできるし、小さな子どもがいる人は子どもが寝た後などの空いた時間にできる仕事なので。

家にいて時間を選べて出来る仕事というのは、ありがたいですよね。

<宇都宮>

 だけど気が遠くなる数ですよね、200万部とか250万部って。その数を内職でよくやってくださったと感謝しています。雑誌の発行部数によって原価は違いますし、採算率も変わりますが、普通、90%売れたらOKですよね。『りぼん』のその当時の部数からいうと90%でも、20万部破棄することになります。すごい数ですよね。

もったいないですね。

<宇都宮>

 ですよね。以前、靖国神社でお祭りがあって、「そこでふろくを売ってたよ」って人が教えてくれたことがあります。

書店では、時期が来たら雑誌本体は返本しなければいけないけれど、ふろくはむしろ返品しないんです。今もそうかは分かりませんが。以前は、町の小売りの駄菓子屋さんみたいなところで雑誌を置いていたりして、そういうお店ではふろくを捨てないで、ふろくだけを10円とかで売っていたこともありましたね。縁日におろすルートなどもあったようですよ。

<宇都宮>

 そいういうことは知らなかったですね。どこかで役に立って喜んでもらっているんだったらいいかなと私自身は思います(笑)。

■マンガ家とのやりとり、アイディア探し

1983年1月号の「ふろくファンルーム」に「ヒロコねーさん」(後には「ヒロコ姉」)として宇都宮さんが登場なさいます。「ケンちゃん」と一緒に。

<宇都宮>

 そうです。私はこの「ケンちゃん」のアシスタントになりました。年齢は、彼のほうが私より若かったんですけど。この「ケンちゃん」は『りぼん』には何年か前からいらしたけど、ふろくの担当はこの時からだったと思います。

1982年12月号までの「ふろくファンルーム」の担当キャラクターは「ひげちょぼ」と「りょうこ記者」ですね。この「りょうこ記者」は「『りぼん』おとめチック♥ワールド 陸奥A子」2という本でインタビューに答えている「宇野良子」さんですよね。

<宇都宮>

 そうです。「りょうこ記者」が、さっき書籍に行かれたと言っていた方です。正確には出版部という部署に行かれたんです。

私(ヤマダ)は、宇都宮さんがキャラクターとして「ふろくファンルーム」に登場した少し前の『りぼん』に、「Dr.スランプアラレちゃん」のふろくがついたりして、びっくりしたことがありました。

<宇都宮>

 部数が落ちている時は新しい発想で取り組もうという姿勢がありますから、『週刊少年ジャンプ』で大人気だった「アラレちゃん」のキャラクターをつけたりしたのでしょうね。口絵で「なめ猫」とかも特集していました。ねこが不良のかっこをさせられていたあれね。

覚えています。なぜ『りぼん』でって驚きました。

<宇都宮>

 あの当時は、流行っていましたから。きっと読者も喜ぶのではと考えたと思います。

先ほど言った本にある宇野良子さんのインタビューの中でも「アラレちゃん」のふろくはちょっとだけお話しされていましたね。
ふろくの案は、全部デザイン事務所のデザイナーさんにおまかせという感じだったのでしょうか。マンガ家さんにはどうやってイラストの指示をだしたりなさったのでしょうか。

<宇都宮>

 ふろくの70〜80%はコンペでのアイディアを採用させていただきました。その結果、私もだいぶ楽になりましたが、トータルで仕切らなければなりませんから、外歩きは常にしていました。今、ヒットしているものは? 流行している色は? ヒントになりそうなグッズも相変わらず購入していました。つけるふろくが決まりますと、大まかな出来上がりを頭に思い浮かべ、それが形になるようにカードや写真のシーンの資料を用意し、マンガ家さんにお渡しし、ラフコンテを描いてもらっていました。その案にマンガ家さんが乗り気でない時は、ご本人におまかせし、違う発想のものを描いてもらった時もありました。私が美術の短大でデザインを専攻していたので、色や形にかなりこだわっていたかもしれません。
当時は地方のマンガ家さんも多かったので郵送したり、東京のマンガ家さんには連載の原稿が終わったら、すぐふろくの原稿を描いてもらわないと間にあいませんから、描き終わってすぐの夜中に絵コンテの打ち合わせに押しかけて、「いや、これはこうしたほうが」「もうちょっとこんな感じで」とか、そういうやりとりをしました。みんな若かったというのもあったのかパワフルでした。水沢めぐみ先生も夜中に原稿を上げてからとかだったし、吉住渉先生も品川のプリンスホテルだったかな。ロビーで夜中の2時か3時ごろ会ったりしていました。ふろく原稿が出来上がると、最後はりぼん編集部の専属デザイナーがおしゃれなふろくに仕上げてくれました。

それはマンガ家さんも大変ですが、宇都宮さんも大変でしたね。

<宇都宮>

 「やるっきゃない」の心境でしたね。毎月歩き回ったのはもちろんですが、プライベートの旅行でも「あ、これ面白そう、使えそう」とか海外旅行に行ってもその国の雑貨屋さんに立ち寄っていました。ちょうどこの頃サンリオが勢いづいてきた時期で、そこからもいろいろアイディアをもらいました。

先日取材させていただいた江本さん3、「海外のカードはセンスがいいから買っておいたら」って宇都宮さんに教えてもらったっておっしゃっていました。

<宇都宮>

 江本さんはセンスがいいし、細かいものを作るのを苦にしていないようでしたから、ふろく担当者にピッタリ(笑)。でも、もしかしたら大嫌いだったかも(笑)。

どのマンガ家さんにメインを頼むかというのは、編集部全体で決めるんですか。

<宇都宮>

 毎月人気の順位が出るでしょ。それでだいたい決まりです。それと「これを編集部で盛り上げよう」という時は順位にこだわらず少し続けてつけたりはしていましたね。

部数が上がっていくのを実感できた経験などはありますか。

<宇都宮>

 部数が上がっていくのは嬉しいんですが先程申し上げましたように、内職が大変ですから早く入稿しなくちゃならない。それで発売の半年前ぐらいにはイラスト原稿を依頼しなきゃいけないということになりました。

連載が始まる前にふろくの依頼が先に来るので、キャラを初めて描いたというのが実はふろくだった、というマンガ家さんも多かったようですね。予告カットよりも先にふろくのイラストの依頼が来るので。

<宇都宮>

 そうでしょうね(笑)。でも、内職の必要がないふろくは、半年も前から準備する必要はないので、メインのふろくはもう少し余裕がありました。

■ふろくにまつわる思い出、色味の工夫など

一番印象に残っているふろくはなにでしょうか。

<宇都宮>

 うーん……。なんだかともかく自転車操業だったから……。

ふろくを作られた時の失敗談などはありますか。

<宇都宮>

 グレッグ印刷4ってわかりますか。シールなんですが、普通のシールよりは粘着力の少ないのりを印刷するんです。

切手みたいなもののことでしょうか。

<宇都宮>

 そうです。そののりが、のり付けを指定したはずなのに、印刷所の手ちがいで30万部程分ついていないのがわかり、その印刷所の一部社員がゴールデンウィークに出社し、手作業でのり付けをしたと聞いています。

現在の印刷部数よりたくさんの直しですね……。

<宇都宮>

 ひやっとしますね。

「シールを切り離す抜き型の指定を入れなくて失敗したことがある」といった体験を現編集長・冨重さん5がおっしゃっていました。リアルタイムの読者だった私(倉持)は、あまり気にならなかったのか、言われて「そうだったのか」という感じでしたね(笑)。

<宇都宮>

 ビク指定と言って、シールをはがしやすいように絵柄の周りに切り込みを入れる指定をするんです。ビク指定でもいろいろ工夫したりしましたね。四角くしちゃえば簡単だけど、丸くしたりね。印刷所は指定された通りの型の金型をつくり、シールの絵柄の周りにその金型を上から落とし、もちろん機械でですが、切れ目を入れるんです。

 私の一番の大きい失敗は、トランプをつけた時です。トランプの販売にはその当時、税金がかかったんです。ギャンブル対策で。だから子どものふろくはサイズを小さくして、ちゃんと税務署に申告して「児童用トランプ」ってトランプの箱に入れるのがルールでした。そのルールを一度忘れてしまって、箱の見本刷りを見た製作部の担当者が気づいて大さわぎ。ふろくをやりだして5年くらいの頃でした。ちゃんと教えられていたんだけど、完全に私のミスでした。

トランプ類税のことですね。1989年には廃止されましたが。「児童用トランプ」と入っていた理由はそういうことだったのですね!

<宇都宮>

 そうです。トランプの箱はその他のふろくと一緒にもう袋づめされていて、もう間にあわないということになって、急遽、雑誌のほうに、「児童用トランプ」って入れて刷り直した箱を口絵として挟み込みました。

ああ、ありました。1988年8月号の「わくわくアイドル5人しあわせ花ことばトランプ」ですね。本誌の口絵に箱の型紙が挟み込まれていていましたね。

<宇都宮>

 紙代も部数が多かったので、すごくコストがかかってしまいました。当時売れ行きがよかったので、珍しく取材という形で旅行に行かせてもらえることになっていましたが、立ち消えました……。

残念ですね。

<宇都宮>

 それでも翌年行かせてくれましたけどね(笑)。そうそう、トランプで思い出しました。印象に残っているふろくといえば、さくらももこ先生のカルタです。ことわざがさくら先生らしくアレンジしてあって。

「まるちゃん ことわざカルタ」(1989年2月号)ですか?

<宇都宮>

 そうです。カルタとかトランプは松下印刷が内職で丁合するわけです。絵柄が全部違いますから1セットずつにまとめる作業があるんです。だけど、さくら先生はお忙しかったからそんなに早く原稿はお願いできません。あれは切り離さないで入っていたでしょ? 絵柄とあの文章は秀逸でした。さくら先生ご自身が考えられたことわざです。

あの「まるちゃんのカルタ」はお正月で大活躍でした。他には何か印象に残っているふろくはありますか。

<宇都宮>

 萩岩睦美先生のふろくです。便せんの表紙の地色を特色ブルーにしたのを覚えています。萩岩先生の絵はかわいらしくて、ふろくに向いていました。当時は「女の子は赤が好き」みたいな考えがあったと思います。ブルーにしたその便せんのふろくは、その号のすべてのマンガ、ふろく、口絵、表紙を含めた人気順位アンケートで3位か4位になり、それが実績になり、発言力が少し強くなりました(笑)。赤もかわいいし、赤のふろくもたくさん作りましたが、その時はブルーにしたらおしゃれになるんじゃないかと思い、決めました。アンケートで好きな色をかいてもらうと、「赤が好き」っていう人は大勢いましたし、私自身も赤が好きなのですが、あの時はあの色がベストだと思ったんです。とは言いつつ、何色にするかは人の好みですから正解はありませんね(笑)。

そのふろくは「1982年11月号の萩岩睦美 むっちゃんのジョイフル・レターセット」ですよね。今、改めて見ても鮮やかなブルーがおしゃれで可愛いですね。
色合いに宇都宮さんはかなりこだわっていらっしゃったようですが他にも何かありますか?

<宇都宮>

 表紙のお話をしますね。『りぼん』の表紙はその当時、通常計7色使っています。基準4色(アカ、キ、アイ、スミ)に特色2色(ウスアカ、ウスアイ)、そしてFCP(フラッシュカラーピンク)、蛍光色のピンクのことです。特大号のときはこれに金色を入れることができました。これだけの色を使うと、表紙はかなり原画に近い色を再現できます。ふろくは5色(ないし)6色使えました。多くの場合、アカ、キ、アイ、FCPに特色、計5色です。墨(クロ)はアカ、キ、アイのかけ合わせで表現できるので普通その分特色を使いました。例えば、原画のきれいなグリーンを出すために(キとアイ)のかけ合わせではなかなかその鮮やかさがでないので、DIC6の色見本の中から一番近い色を一色選ぶんです。とてもきれいな仕上がりになります。そして、原画の人物の肌の色にもこだわりました。普通、肌の色は(アカ、キ)で表現しますが、FCPが使えるのでアカ(マゼンダ)を使用しないで(キ+FCP)で表現しました。マゼンダが入ると濁った肌色になり、原画の透明感のある肌色は表現できません。印刷所の製版者にとってはめんどうな作業だったと思いますが、協力してくださったおかげで原画の良さが生きた、おしゃれなふろくになりました。

色指定にそんな工夫をされていたのですね。『りぼん』の表紙はいつごろ担当されていたのですか?

<宇都宮>

 異動した直後、1年ほどやっていました。絵柄を覚えているのは池野恋先生の「ときめきトゥナイト」の連載開始の号です。アニメ開始も同時でした。蘭世の口からキバがでている楽しい表紙です。

ちょうど宇都宮さんがふろくを担当されたはじめたころ、連載マンガのキャラクターがふろくに描かれるようになったと思います。まさに「ときめきトゥナイト」が始まってからで、本作のキャラクターのふろくが増えていき、ふろくに連載マンガのキャラクターが描かれることが常になりました。それまでの『りぼん』のふろくは連載マンガのキャラクターじゃなくて、ふろく用にイラストを描きおろすことが多かったと思います。そうした点を変えたという意識はありましたか。

<宇都宮>

 それはあんまり気がついていなかったですね。

そうなんですね。あとは『りぼん』では「ガキ絵」って呼んでいるようなのですが、マンガのキャラクターをちょっと幼いチビチャラにしますよね。その伝統も、ふろくにキャラクターを積極的に登場させるようになった80年代ぐらいからなのではないかなと思うのですが。

<宇都宮>

 マンガの中にキャラクターが落書き風に描いてあるのがあって「かわいい!ふろくに使いたい!」という思いからだったと記憶しています。マンガ家全員にお願いしたわけではなりません。あまり好きじゃない先生もいらっしゃいましたから。

なるほど。特にそれを強制したわけではなく、自然とふろくと言えば「ガキ絵」ということになっていったのでしょうか。

<宇都宮>

 流れでそうなったのかもしれません。全部が全部ではありませんでしたが

ガキ絵がうまく描けるかどうかはふろくの人気的に重要なように思うのですが。

<宇都宮>

 そうでしょうね。人気マンガ家さんはやっぱり能力が高いから、すぐ描き分けることができるようになる方がほとんどでした。マンガ家さんの才能は本当にすごいと思います。

それはもちろんそうですが、宇都宮さんのふろくに対する信念みたいなものが、みんなに伝わったからがんばってくださったのではないでしょうか。マンガ家さんも宇都宮さんとの思い出がとてもあるのではないでしょうか。

<宇都宮>

 夢中になってやっていましたから、私をうっとおしいと思われた先生もいらっしゃったかもしれません。今思うと、本当にタイトなスケジュールの中で先生方はレベルの高い原稿を描いてくださったと思います。

80年代後半くらいから、立体ふろくの複雑なものがさらに作られるようになったと思います。ひきだしがついたり、微妙な曲線の箱だったり、大きさも大きかったり。そういうのも競合の中から生まれてきたのでしょうか。

<宇都宮>

 印刷機も年々進歩し、複雑な加工ができるようになってきました。競合の中からというのではなく、いろいろな業界から多種の要望によって必然的に生まれたと思います。立体ふろくでも機械で仕上げられるものはスピーディーですし、安価ですので、大日本印刷や凸版印刷に仕事が行くようになりました、手内職が入る立体ふろくは以前通り、松下印刷への発注でした。

94年に『りぼん』から異動になられたとのことですが、どちらにの部署になられたのでしょうか。

<宇都宮>

 「コミックメディア編集部」という新設された部署に行きました。『少年ジャンプ』出身の角南攻7氏が部長兼編集長で、ジャンプ出身の男性スタッフと私とで、ジャンプ、りぼんでアニメ化され、その時点で放映中のもののアニメ絵本をつくるというセクションでした。しかし、採算があわず、途中で廃刊になりましたが(笑)。その後、「キャラクター出版」というりぼん、ジャンプの人気キャラを使っての子ども向け勉強本を作る部署が新設されそこに異動しました。

最後の質問なのですが、『りぼん』のふろくをご担当なさって、宇都宮さんは楽しかったですか。ざっくりした質問で申し訳ないですが。

<宇都宮>

 自分が好きでしたから、きつかったけど楽しかったですね。部数が多かったこともあり、印刷所も私のわがままをずいぶん聞いてくれました。例えば、ふろくの見本刷りでは地色違いを数種刷ってくださったりしたおかげで、その数種を見比べて即、地色を決めることができました。また、校正刷りの段階で、デザインや色が気になりだし、手直しのために夜中に編集部で一人コツコツやったこともありました。若かったからできたんですね。

今回、このオーラルヒストリーの事業と並行して進めている「りぼんのふろく展」では、宇都宮さんが担当されていた時代のふろくが大量にでます。それをスタッフとひたすら組み立てたり、どれを並べるか考えたり。大変ですが、とても楽しい作業です。

<宇都宮>

 よく残っていましたよね。

京都国際マンガミュージアムにも、ここ(取材場所である明治大学 米沢嘉博記念図書館)にも残っています。あとはもちろん弥生美術館さんにも。展示ではこの3館のものを使って、一部はコレクターの方からお借りしています。

<宇都宮>

 そうなんですね。今日はこれまでまったく話したことのないことを話してしまいました。職場の人にも話す機会はあまりありませんでしたし。

貴重なお話をありがとうございました。宇都宮さんは、『りぼん』にふろくづくりのシステムを導入なさった方ですね。先日からいろいろな方に取材して話を聞かせていただきましたが、その方たちがおっしゃっていた、制作システムを整えられた方だということがわかりました。

<宇都宮>

 それはちょっと大げさ過ぎます。私がたまたま知らなかっただけで、前の人もやっていたかもしれないし。『なかよし』さんのことを聞いて参考にしたり、わからないから動いてみたというだけで……。

りぼんは宇都宮さんの代より前のふろくもすごくステキでしたので、先輩たちががんばってこられたのは確かでしょう。ですが、宇都宮さんのふろく作りの信念や、そのために整えたルール、システムは確実に250万部時代の背景にあったし、現在の女性たちの原風景を作ったと思います。宇都宮さんはただ必死になさっていたとだけいうことかもしれないですが。
 今日は少女マンガ誌の歴史にとって貴重なお話を、本当にありがとうございました。

1  1964年から2008年までTBSラジオなどJRN局で放送されていた子どもの疑問、相談を受けるラジオ番組。「ダイヤル、ダイヤル、ダイヤル、ダイヤル、まわして〜!」というフレーズのテーマソングから始まる長寿番組だった。

2 「『りぼん』おとめチック♥ワールド陸奥A子」外舘惠子編 河出書房新社 2015年

3 江本香里氏については、第3回オーラルヒストリーを参照。

4 グレッグ印刷:一台の印刷機械が「印刷」「のり付け」「折り」等、数種の加工を一工程で仕上げる

5 冨重実也氏については、第1回オーラルヒストリーを参照。

6 DIC:大日本インキ化学製の何百色ものインクの色見本チップ。

7 元『少年ジャンプ』『ヤングジャンプ』編集者。『ハレンチ学園』『トイレット博士』『リングにかけろ』などを担当。著書に「メタクソ編集王 少年ジャンプと名付けた男」。