兵庫県立美術館が注目作家を紹介する展覧会シリーズ"チャンネル"7回目は、京都を拠点として主に映像作品を手がける髙橋耕平(1977〜)の個展が開催された。本稿では、髙橋のこれまでの作品を概観するとともに、写真と映像というメディアの差異にも注目して本展を振り返る。

takahashi.jpg
展覧会チラシ

映像への自己言及的な構造から、「記憶」の主題化へ

髙橋は初期作品において、ある映像を左右反転させ、元の映像と鏡像のように対で並置する《take-mirror》(2007)、独り言を発する自身の映像に「応答」する自己分裂的な状況を作り出した《meeting or monologue》(2012)、自身と弟が互いの発話を交互に復唱する映像作品(2011)など、映像における同一性に亀裂を入れて撹乱させるような試みを行ってきた。このように、行為の身体性を介入させつつ、「複製」「反復とズレ」「同一性と差異」といった映像の構造に自己言及的な作品群から、近年の髙橋は、具体的な人物や場所に取材したドキュメンタリー的な制作方法へとシフトしている。

この移行によって浮上したのが、「記憶」という主題である。《HARADA-san》(2013)は、京都のギャラリー界隈では一種の有名人であるアートウォッチャー「はらださん」という年配の男性を取材した映像と、彼自身の口伝による「個人史」の年表によって構成される作品。《史と詩と私と》(2014)は、自身の母校である、過疎化で閉校した小学校の現在の姿を数ヶ月にわたり撮影・編集した映像作品。また、《となえたてまつる》(2015)は、三重県伊賀市島ヶ原にある観菩提寺に伝わる御詠歌を、本尊の秘仏が御開帳される33年ごとに継承する村人たちを取材したものだ。

ただしそれらは、客観的な中立性や透明性を偽装した「ドキュメンタリー」ではない。《HARADA-san》では、第三者の検証が入らない「個人史」には創作を思わせる真偽の曖昧な個所がいくつかあり、映像には展示場所それ自体が入れ子状に映し出されるトリッキーな仕掛けが存在する。《史と詩と私と》では、地域の文化センターとして機能する元小学校の古い校舎やそこに集う地域住民を映す映像は、スクールデスクの板面をブロック塀のように積み上げた仮設スクリーンに投影される。懐かしさを感じさせる机の板は映像が伝える記憶を支えると同時に、映像は木の板からの物質的抵抗を受け、両者は互いに干渉し合う。また、《となえたてまつる》では、「記憶の継承」を扱う映像内に無音のショットが度々挿入されて「空白=忘却」を示唆するなど、「編集」の存在への自己言及性が高い。このように髙橋の映像作品は、映像メディアそれ自体への反省的意識を常に織り込んで成立していると言える。

他者の経験や記憶へのアプローチ

ここで、上述したドキュメンタリー的要素の強い近年の作品についてまとめるならば、「記憶」を対象化しつつ、「個人」から「場所」の記憶や地域の共同体へ、さらにそこに孕まれた歴史的時間のスパンへと、よりフィールドを拡張するものであったと跡づけられる。

「街の仮縫い、個と歩み」と題された本展では、髙橋の関心は、21年前の阪神・淡路大震災の被災経験という、より広範な社会的コンテクストへと向けられている。それは、「震災の経験」として一般化しにくい特殊性を刻印された経験や記憶、しかも自身が直接体験していない他者の経験や記憶にどうアプローチできるのか、という困難な問いと向き合うことであると同時に、完全な共有や追体験は不可能だからこそ「誤読」がはらむ創造的な可能性があるのではないかという試みでもある。映像と写真で発表された新作は、展示形態の仮設性、移動性という共通点でつながりながらも、それぞれのメディアにおける「憑依とズレ」「時間の接ぎ木」という性質を露わにしていた。以下、それぞれの作品について詳しく見ていきたい。

憑依しながら、ズレ続ける

t01.jpg
会場風景 撮影:表恒匡

展示室に入ってまず目につくのは、展示形態の仮設性、移動性である。映像作品3点はそれぞれ毛布、段ボール、壁にピンで仮止めされたA4の紙に投影され、プロジェクターを置く台や鑑賞者用の椅子は、水の入ったペットボトルにベニヤ板を被せた仮ごしらえのものだ。これらは「震災による避難生活や救援物資」を強く連想させる。一方、映像の被写体やインタビュー内容には、震災との直接的な関係を見い出すことはできない。《鍛治さんの遠征と納車》では、電動車イスの男性の日常生活やプロ野球応援のために上京する様子が記録され、《益田さんの歩行訓練》では白杖で路面を探りながら歩く女性が登場し、《K.M.さんの話》では、聴覚障害を持つ彼が普段どのような注意を払って街を歩いたり車を運転するかについてのインタビュー内容が、字幕で表示されている。

t06.jpg
《K.M.さんの話》2016年|HD video(サイレント、9分19秒)
撮影:表恒匡

では、障害者の歩行と被災経験をつなぐものは何か。髙橋によれば、震災経験を理解しようと資料を読んでいた時に出会った、「少し意地悪な言い方だが、多くの健常者がそろって"障害者体験"をしたと言えませんか」という車イスで生活する男性の言葉であったという。昨日までの快適な都市空間がスムーズな移動を妨げるものに変貌した時、そこには、肉体的な不自由さへの直面とともに、髙橋が「仮縫い」に例える「空間の変容に合わせた新たな身体技法」を開発する萌芽が胚胎してもいる。とりわけ出品作で興味深いのは、《益田さんの歩行訓練》と《K.M.さんの話》だ。前者では、白杖を持った視覚障害者の女性の歩行訓練が映し出された後、画面は暗転し、彼女と歩行訓練官にインタビューする髙橋の会話が音声のみで流れる。「彼女の知覚世界」を疑似的に表現したシーンだが、3名の「声」が全て髙橋自身の声で吹き替えられることで、他者の知覚世界を経験したいという欲望が「声の憑依」として現れるとともに、完全には重なり合わないズレが、分裂症的な不気味さとともにさらけ出される。

一方、《K.M.さんの話》では、日常の歩行や車の運転についての髙橋と聴覚障害者の男性とのやり取りが字幕で表示されるが、歩きながら前後左右に絶えず目を配る、バックミラーで後方車を確認する、といったそこで語られている動作を実際に映像内で行うのは、髙橋自身である。ここでは、行為のトレースが、より身体的な憑依の次元へと押し進められている。

過去を現在に接ぎ木する

t03.jpg
会場風景 撮影:表恒匡

一方、写真作品は、キャスター付きの台車の板の上に貼られて床置きされ、つまづいて蹴飛ばすとコロコロと転がり出しそうな、不安定な様相を呈している。鑑賞者の足元を阻むように置かれたそれらをのぞき込むと、一枚の写真やチラシを地面の上に置いて入れ子状に撮影したものだと分かる。これらは、「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」が一般の人々から提供を受けて所蔵する被災資料(の複写)を、2016年現在の神戸や阪神間の路上に置いて撮影したものだ。

t09.jpg
《神戸市の路上―電線点検作業》2016年|カラー写真
※引用資料:人と防災未来センター蔵

t11.jpg
《神戸市の路上―積雪》2016年|カラー写真
※引用資料:人と防災未来センター蔵

例えば、《神戸市の路上―電線点検作業》では、電線に上る点検作業員の姿を写した写真が、ひびの入ったアスファルトの上に置かれることで地面の亀裂と視覚的につながって見え、復旧された電線と「地震」の記号的な置換が意味の衝突を引き起こす。《神戸市の路上―積雪》では、真冬の出来事であったことを示す雪で覆われた地面の「白」が、現在の路上の白いペンキ跡とつながり、関連のない事象どうしが写真の中で等号で結ばれてしまう。また、求人広告や探し犬の貼り紙などを、おそらくかつて貼られていた場所に置いて撮影したと思われる写真もある。ここでは、形態や色彩を読み替えの因子として元の写真の意味づけや文脈がズラされ、あるいは「かつてあった」場所に再配置されることで、過去が現在へと唐突にも接ぎ木されているのだ。

だがそれは、遊戯的で恣意的な次元に留まるものでは決してなく、「過去のある光景を写した写真」が「現在時において眺められる」という、常に遅れや時差を伴った写真の受容経験についての優れた批評である。またそれは、「将来、他人によってこのように眼差されるかもしれない」シミュレーションとして、「震災資料」の見方を「更新」することで、写真における解釈コードが無数に存在しうること、色彩や形態へと恣意的に還元されうる写真の二次元性、現実の場所・物理的コンテクストに根差しつつもそこから分離・切断される矛盾、といった写真がはらむ複数の性質を照射する、写真についてのメタ的な考察の実践でもある。写真の「意味」は常に決定不可能な揺らぎの中にある。髙橋は、元の文脈やキャプションから写真を引き剥がし、「震災の記録」として一元化して眺める視線の下ではこぼれ落ちてしまうそうした写真に内在する綻びを、意図的な「誤読」として押し広げてみせる。

「資料のアーカイブ」の創造的活用

こうした髙橋の実践はまた、「震災資料のアーカイブ」をどう活用するか、という倫理的/創造的な問題も含んでいる。通常は、美術作品(の素材)としては見なされない「震災資料」を美術館という場に持ち込むこと。さらに、単に「防災」「記憶の継承」といった観点を超えて、美術のコンテクストへの置換がどのような創造的作用をもたらすのか。その成果は上述した通りだが、おそらく、今回用いられた「資料」が、公的な記録ではなく、アマチュアの人々が撮影した写真という私的・個人的かつ匿名的なものであったことも大きい。もちろん、震災の経験や記憶それ自体を軽んずる訳にはいかないが、元の文脈(撮影者の意図、撮影場所、保管されていたアルバムなど)から引き剥がし、「震災資料のアーカイブ」というよりメタな文脈からも切断して眼差した時、写真は新たな生を獲得して別の光を放ち始めるのである。

注目作家紹介プログラム"チャンネル"7 髙橋耕平「街の仮縫い、個と歩み」展

会期:2016/10/15〜11/20
会場:兵庫県立美術館
http://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/channel7_takahashi/index.html

髙橋耕平
http://www.takahashi-kohei.jp/