最近では、大学でマンガが教えられることもそれほど珍しい光景ではなくなった。しかしながら、実際のところそこで何が行われているのか、学生や教職員あるいは関係者でもなければ、その中身はよくわからないというのが実情だろう。

そんなマンガ教育(実作系)の最前線を窺い知ることのできる書籍が立てつづけに2冊発売された。「特集:神戸芸術工科大学まんが教育7年間の総括」と題された『TOBIO Critiques #0』(2014年、太田出版)と、京都精華大学SEIKAマンガ教育研究プロジェクト編による『マンガで読み解く マンガ教育』(2014年、阿吽社)の2冊である。

『TOBIO Critiques #0』は、著者のひとりである大塚英志氏が神戸芸術工科大学に2006年に着任してから2013年に退任するまでの7年間(最後の非常勤講師の期間も入れると8年間)を、「有形無形で支援して下さった方たちへ」説明する必要性を念頭に書かれたものだという。

神戸芸術工科大学での教育カリキュラムは、仮説としての創作理論に基づいた課題を課し、その結果生まれた学生による「実験」作品を検討することで、カリキュラムと創作理論の妥当性をはかり、さらにより精緻な体系化を目指そうとするもの。

それは主に以下の5項目を中心にして行われていたようだ。(1)物語論の応用に基づく教育カリキュラムの構築(2)まんがに於ける「映画的手法」の実証的研究(3)映画的手法の海外ワークショップ(4)デジタル領域におけるまんが・アニメーションの進化モデル(5)文学作品のまんが表現へのコンバージョンに於ける方法論の精緻化、という5領域である。

(1)に関しては以前から大塚氏が様々な著作で提唱している手法であり、物語を「禁止」や「違反」「主人公の出発」といったいくつかの機能の組み合わせであるとみなすいわゆる「物語論」に従って、実際にマンガのシナリオを組み立てていく方法である。(2)は、石ノ森章太郎の『龍神沼』をお手本に、この作品を一度文字のみの脚本に戻したのち、再度カメラを想定した「絵コンテ」にすることで、日本マンガを特徴づけるとされる「映画的手法」を学ばせるというもの。また、これを実際に映画撮影する試みも行われていたようだ。(3)は、この映画的手法を教えるワークショップを海外で開催するもので(この「世界まんが塾」と銘打たれたワークショップについては以前にお伝えしたことがある)、これはいわゆる「クールジャパン」政策が「商品としてのまんがの輸出」ではなく、「日本型まんが」という「表現方法の輸出」であるべきだという大塚氏の信念に基づくものである。もちろんその際には、海外の人間にその方法をただ「押しつけ」るのではなく、異なった歴史を持つ現地のマンガ表現との「出会い」であるべきことは意識されている。また、紙という媒体を離れたところでデジタル時代のマンガが得る表現可能性の探求や、「映画的手法」と共に大塚氏が日本マンガの特徴として挙げる「文学性」を、実際に近代日本文学をマンガ化することで学ぶことなども目指されていたようだ(4と5)。

本書では、この「特集」のほかに、「『科学』が生んだ『カメラ』」、「フランス『おたく』事情とクールジャパン」、「『鉄扇公主』と『海の新兵』」という論考が収録されている。なお、「『鉄扇公主』と『海の新兵』」には「東アジアまんが・アニメーション研究に向けて」という副題が付され、本書が『TOBIO Critiques #0』であると同時に『東アジアまんがアニメーション研究』創刊準備号であることが宣言されている。

神戸芸術工科大学でのカリキュラムは、大塚氏が退任したためにこのまま続けられるかどうかは不明ということだが、大塚氏の次の本務校である国際日本文化研究センターや、氏が中心となって開設された、「東京大学大学院情報学環角川文化振興財団メディア・コンテンツ研究寄付講座」などで、引き続きこれらの創作理論は研究されるという。

もう一冊の『マンガで読み解く マンガ教育』は、2010年から開始された「SEIKAマンガ教育研究プロジェクト」の成果をまとめたもの。京都精華大学でのマンガ教育は以前から有名だが、その歴史は古く1973年に美術科内にマンガクラスが設けられ、2000年に芸術学部マンガ学科が開設、2006年にはマンガ学部として独立した。また2000年に教授に就任したマンガ家の竹宮惠子氏が2014年には学長に就任しており、京都精華大学がマンガ教育を重要視している姿勢が見てとれる。

「SEIKAマンガ教育研究プロジェクト」は、精華大学の人文学部とマンガ学部の教員が学部を横断してマンガ教育に関する共同研究を行ったもので、プロジェクトが始まった2010年はマンガ学部の第一期生が卒業した年にあたる。

本書の構成もその共同研究の態勢が反映されており、(1)大学とマンガ教育(2)マンガを学ぶ(3)マンガで学ぶ、という3つのテーマにそって、マンガ学部教員によるマンガと、それに呼応する教育を専門とする人文学部の教員による論考がセットになっている。また、プロジェクト発足時の代表者であった小泉真理子氏が序文を担当し、執筆者3名による鼎談も最後に掲載されている。

本書は、ひとまず京都精華大学マンガ学部を受験しようとする学生と、進路指導の先生たちに読んでもらうことを想定して書かれている。だがそれだけでなく、大学における教育とは何か、あるいはそもそも教育とは何なのかという問題が、いくどとなく自問される。マンガ「を」学ぶだけでなく、マンガ「で」何を学ぶのかということが常に意識されている本だといえるだろう。

京都精華大学でのカリキュラムは、マンガ家とは職人であり、マンガを教えることなどできはしないという竹宮氏の認識から出発しているようだ。もちろんそれはマンガを描く方法を理論化できないという意味ではない。竹宮氏には創作理論を明晰に言語化した『マンガの脚本概論』(2010年、角川学芸出版)という著作もある。しかしながら、マンガが個人的な制作物である以上、万人に当てはまる創作理論は存在しないだろう。

その認識の上で竹宮氏が重要視するのは、「理解」というフェーズであるようだ。万人に当てはまる創作理論は存在しないとはいえ、最低限習得すべき技術は存在する。画力、ストーリーの組み立て方、ペンの使い方などは、反復練習=修行でしか得られない。だがそこで何よりも重要なのは、その反復練習=修行の意味を学生本人が「理解」することなのだという。もちろんその理解(意味)は、個々人によって異なるものだ(さらにいえば、習得すべき技術というのも人によって異なるのだろう)。教育論においてはある意味もはや古くさくなってしまった「理解」という概念が、ここであらためて思いかえされることになる。

このような創作理論(マンガの教授理論)の複数性に対する自覚は、精華大学の「集団徒弟制」という教育システムによく表されているといえそうだ。学生は1回生と2回生のあいだ、全員(70名)がひとつの教室で8名(4組)の講師、つまり複数の親方からマンツーマンの指導を受ける。それはいわゆるマンガ雑誌編集者との打ち合わせ風景と似ているようだ。ただしそこで受けるアドバイスは自然と講師によって異なることになる(時には正反対の場合もあるだろう)。3回生になるとひとつのゼミ(親方)を選ぶことになるが、そこでもこの相対性を担保するため、3つのゼミを選択することが可能だということだ。

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神戸芸術工科大学と京都精華大学のマンガ・カリキュラムのちがいは、中心となっている教員の個性の差ともいえようが、学生数や教員数のちがいも大きいだろう。また、そもそも、それぞれの書籍の想定読者層が異なっている以上、単純な比較はできない。そして実際の授業風景を見れば印象はまた異なってくるにちがいない。

むしろここで注目をうながしたいのは、両者に共通する姿勢である。それは、一般的にこれまでマンガ業界で行われてきた先生とアシスタントという関係のなかにおいてではなく、またマンガについての教育に特化した職業専門学校でもない、大学という特殊な場においてマンガを教えるということに対しての自意識だ(大塚栄志氏には『大学論』という著作もある)。また、海外におけるマンガ教育の可能性(『マンガで読み解く マンガ教育』でもこのことについては鼎談で語られている)についての意識も共通している。

その意味で、大学でのマンガ教育に興味のある学生、あるいはすでに在籍している学生や教えている教職員のみならず、海外における日本マンガの普及、そして大学教育そのものに関心のある人にとっても有益な本だといえるだろう。

なお、この大学でマンガを学ぶ/教える問題については、かつて日本マンガ学会の第9回シンポジウムでも取りあげられていた(『マンガ研究』Vol.16、2010年を参照のこと)。

『TOBIO Critiques #0』
著:大塚英志、山本忠宏。鈴木賢三、出版社:太田出版
出版社サイト
http://www.ohtabooks.com/publish/2014/04/01182835.html

『マンガで読み解く マンガ教育』
編:京都精華大学SEIKAマンガ教育研究プロジェクト、出版社:阿吽社
出版社サイト
http://aunsha.co.jp/マンガで読み解くマンガ教育/