渡邉朋也の個展「信頼と実績」が、京都のアート・スペースARTZONEにて、2017年1月7日〜29日まで開催された。ARTZONEは、京都造形芸術大学アートプロデュース学科が授業の一環として運営するアート・スペースである。渡邉朋也(1984〜)は、3Dプリンタやデジタル・デバイスなど最先端の技術を用いつつ、無意味で非合理な行為を膨大に反復することで、先端的なメディアや技術の合理性をユーモラスに脱臼させるような作品を発表している。本展は、立体、映像、平面など約130点の作品展示とともに、「作家/企画者による解説文の二重性」という仕掛けを通して、展覧会という制度や情報供給のあり方についても問うものであった。

sinrai1.jpg

反復・複製・修復・再現

渡邉作品の特徴の一つは、無意味で無価値なものの「修復・復元」や、「複製不可能なものの反復」であり、そのために高度なデジタルファブリケーション技術や徒労に近い手間ひまが惜しげもなく投入されている。例えば、《荒んだ食卓を極力直そう》(2015)。カップ麺やコンビニ弁当の容器、ビニール袋の中から、2本の割り箸が顔をのぞかせている。ただし割り箸の片方は、ピンク色の半透明の樹脂でできている。これは、紛失した割り箸の片割れを、手元に残った割り箸の3Dモデリングを元に、3Dプリンタによって「復元」したものだ。「荒んだ食卓を直す」という目的が、食事内容の改善ではなく、本来は直す必要すらない「割り箸の復元」という無意味な営為にすり替えられている。だが渡邉の身振りを、ただナンセンスなものとして一笑に付してはならないだろう。ここで提起されているのは、3Dプリンタなどのデジタルファブリケーション技術が一般家庭にも普及し、誰もが安価で容易に利用できるようになれば、割り箸と同様のレベルで安易に「使い捨て」られていくのではないか、という真摯な問いかけである(実際、失くした方の割り箸のデータは、インターネット上で誰でも自由にダウンロードして入手することができる)。

sinrai2.jpg
《荒んだ食卓を極力直そう》(2015)

こうした「反復・複製・修復・再現」への執着的な身振りは、渡邉の他の作品においても顕著である。《ツナとマヨネーズ》(2014)では、ポケットの中でくしゃくしゃになったレシートを「折り紙の一種」と捉え、山折り線/谷折り線の複雑な折り図を起こして「再現」可能にしている。また、「複製不可能なものの反復」を提示してみせるのが、《科学と学習》(2015)と《スクリーンセーバー》(2014)だ。《科学と学習》では、ぬりえの上に殴り描きしたぐちゃぐちゃのストロークが、そっくり同形で隣のページに「反復」されている。《スクリーンセーバー》では、本来ジェネラティブなもので、二度と同じ模様が生まれないはずのスクリーンセーバーが、もう1台のパソコンの画面に「複製」されている。一方、「同一データの反復によるズレ」を提示するのが、《敬遠とフォアボール》(2015)。野球のビデオゲームのある試合のスコアに基づき、同じゲームが4つの画面で反復されているが、よく見るとゲーム内の選手たちの細かい挙動はそれぞれ異なっている。

sinrai3.jpg
《ツナとマヨネーズ》(2014)

sinrai4.jpg
《科学と学習》(2015)撮影:砂山太一

二重の「解説文」―展覧会、キュレーション、情報

こうした「鋳型と発現」、「データと出力」の手続きによって現われるのは、「反復・複製における同一性と差異」の問題であり、「二対構造」とそのズレは本展において「作品解説・キャプション」という制度的なレベルにおいても繰り返される。本展の構造が秀逸なのは、「作家自身による解説キャプション」と「企画者による解説文のハンドアウト」を並置し、そのギャップを仕掛けることで、展覧会という制度、キュレーションと共犯関係、情報の「客観性」、「信頼度」に対するメタレベルの問いを発している点である。

説明に説明を重ねる身振りは、ともすれば情報の過剰供給に陥りがちな「現代アート」(とりわけテクニカルな専門用語を交えた難解な解説を要するメディアアート)を揶揄するかのようだ。2種類の「解説」を見比べると、企画者が執筆した解説は、中立的で客観的に見える。一方で渡邉による解説は、一見すると作品とは無関係でナンセンスに思えるが、よく読み込むと、作品のポイントを抽象化して吸い上げ、別の例えやストーリーに置き換えたものであることが理解される(例えば、潜在的な構造の発見と星座についての語り、「同一性と差異」の問題と落語の『粗忽長屋』)。情報の量や質によって見え方が左右されること。どのレベルの深さで読み込むかによって、解釈が可変的なものになること。それは、「私たちは何を信頼して物事を見ているのか」という問いであると同時に、展覧会やキュレーションに対する制度的な問いでもある。

コンピュータ・AIと「アート」の生成―「メディアアート」への批判的眼差し

さらに、コンピュータの技術革新、とりわけAI(人工知能)の進化による「アート」の未来について皮肉を込めて提示したのが、《作品(ars)》(2016)である。《作品(ars)》は、ホームセンターで買った合板の木目に、ラテン語で「技術」を意味する「a」「r」「s」の文字が見出だされた位置をマスキングテープで示した、というものである。「企画者による解説」には、「文字の発見にはコンピュータにおける画像認識のディープラーニングが利用されており、渡邉は、コンピュータによる画像認識の過程を追うことで、そのアルゴリズムを内面化し、ついには自身で「a」「r」「s」を見つけ出すに至った」という、科学技術を根拠にしたウソかホントか分からない文章が書かれている。メディアアートがテクノロジー至上主義に傾いていけば、AI(人工知能)が自動的に「アート」を生み出すプログラム(の優劣)が価値づけされるのではないか。その時、「アーティスト」の創造性や主体性を保証し、コンピュータとの線引きを確定するものは、どこにあるのか。一見ナンセンスな《作品(ars)》に内包されているのは、メディアアートの未来への批判的眼差しである。

sinrai5.jpg
《作品(ars)》(2016)撮影:新居上実

また、《画面のプロパティ》(2014)は、PCのスクリーンセーバー画面を顕微鏡が拡大し、その拡大された画面をデジタルカメラが撮影し、さらにその画面をビデオカメラが撮影した映像が、横のモニターにリアルタイムで投影されている。顕微鏡、デジタルカメラ、ビデオカメラといった機材を(不必要に)投入し、元のイメージが二重、三重の複製の手続きによって「転送」される構造そのものを見せることで、画面の拡大やトリミングがむしろ「見えなくなる」部分を生み出し、元の色調が変わってしまうなど、情報の伝達過程で捨象や改変が起こる事態を示している。「機材の多重的介入」によってメディアアートのテクノロジー偏重を皮肉るとともに、情報伝達の構造がはらむ危うさへの問いも投げかけている。

sinrai6.jpg
《画面のプロパティ》(2014)撮影:砂山太一

このように渡邉は、先端的なメディアや技術を用いつつ、私たちがそれを「信頼」する根拠の危うさや依存性についてユーモアを込めて問うている。そうした自省的な態度に、メディア・アーティストとしての優れた本質性があると言えるだろう。

開催情報

渡邉朋也個展「信頼と実績」
会期:2017年1月7日(土)〜29日(日)
会場:ARTZONE
http://artzone.jp/?p=2773