筆者は2003年の4月から10年以上、山口情報芸術センター(Yamaguchi Center for Arts and Media - YCAM)の教育普及専門員として従事してきた。YCAMは複合文化施設として、メディアアート作品の展示、演劇、ダンスパフォーマンスの公演、映画上映、サウンドイベント、ワークショップやレクチャーなどを開催しているが、本稿では、YCAMの教育普及の活動の特徴と考え方についていくつかの切り口から述べてみたいと思う。
教育普及活動は、重要なコンテンツのひとつ
「YCAM WORKSHOPS」
教育普及、またはミュージアムエデュケーションというのは、通常の美術館の中では学芸員の一部またはサポートのような形で、企画展の説明や地域との連携を補助していく活動が多かった。しかし、近年では文化庁主催のミュージアム・エデュケーター研修が開催されたりするなど、日本国内においても教育普及という部門がようやく注目を集め始めたと言える。 YCAMは、設立当初から教育普及という部門を独立して擁立し特徴的な活動を継続してきた。メディアを用いたオリジナルのワークショップを開発したり、近年ではコロガルパビリオンという企画展示をプロデュースしたりしている。国内外のミュージアムや教育施設にて招聘ワークショップが開かれたり、札幌国際芸術祭でコロガル公園という展示企画が招聘されたりといった形で、外に飛び出して行くことも増えてきた。また、ワークショップのスクリプト(進行台本)を著した「YCAM WORKSHOPS」というブックレットも配布し、内容を護るのではなく、より拡げていきたいと考えている。通常の美術博物館の館内、または地域内に収まる教育普及の枠から飛び出し、YCAMのネットワークを拡げるコンテンツの一つとして、同部門の活動は重要度を増しつつある。
ユーザーとともに成長する
「映画を2回観る会」のチラシ
2003年の設立当初、教育普及の方向性は二つ考えられた。一つは地元の表現者やアーティストを育成するという方向。もう一つは目の肥えた観客を育成するという方向。結果として後者の方向を目指そうとした理由は、よい表現者は必ずしも地元で全てを学ばなくてもいろいろな場所に移り住み研鑽を積むだろうと考えたことと、YCAMでよい作品を創作・発信するためには、地元観客の厳しく、そして肥えた目が必要になるだろうと予想されたからである。 山口には歴史上においても、画聖・雪舟が滞在して制作を行ったり、ザビエルが日本で初めて布教を許された土地であったり、という実績がある。つまりヨソモノを受け入れる土壌があると考えられる。ただし、何でもウェルカムという訳ではなく、厳しい目と誇りを持って迎え入れるという特徴もある。開館当初、建設反対運動が起きたこともこういった土地柄と無関係ではないだろう。 YCAMが専門としているメディアアートという芸術ジャンルは通常の義務教育の中で学ぶ美術ともかけ離れていて、つまり誰も「見方」を教えてもらったことがない。そこで丁寧かつ真摯に「見方」を教育する必要があると考えた。作品の見方を教育するといっても、表現を鑑賞するためには鑑賞者自身の脳で思考を働かせる必要があるので、単純に知識をコピーするやり方ではうまく行かない。ましてや、滞在制作で生まれたばかりの作品は、歴史や時間という評価も下される前であり、批評家の解説が書かれるよりも先に一般の観客の目の前に提出される。そこで重要な問題意識の一つは、得も言われないアート体験を、いかに言語化し他者と共有するか?ということである。実際、私たちは言語化や共有というキーワードを基にして教育普及プログラムをデザインしてきた。具体的な事例としては「映画を2回観る会」や「感想共有システム」といった企画である。いずれも、作品を観た後にその感想や印象を言葉にして、他者と交流する場を作り出している。このことはいずれ作品の批評へとつながり、作品鑑賞を通じて自分と向き合ったり、批評を通した表現へと繋がって行くものである。だから、どんな感想も不正解とせず、他者との違いを認めあうことで、作品の在り方が一つではない、豊かな読み解きが可能であることを示すように促している。 もちろん誰もが簡単に作品の見方を獲得するわけではない。成功までには、今後もじっくりと丁寧な取り組みを、真摯にかつ継続的に行っていく必要があるだろう。これらのプログラムに参加してくれたユーザーが、作品に対する批評の目を肥やし、翻ってアーティストが良い作品を生み出さざるを得ない状況を作り出すことができれば、新作を制作する環境、そして鑑賞者と新作の触れ合いの場として、一層よい環境を作っていけると考えている。
利用者との距離感、間合いについて
確固たる根拠があるわけではないが、着任した当初から15年というのが教育普及活動の一つのサイクルになるのでは?と考えてきた。メディアアートというジャンルが街に馴染むまでにかかる時間もさることながら、ワークショップに来る小学生が、自分の子供を連れて再び訪れるような時間間隔だ。親子の間で一つの記憶が共有できるならば、市民の人生と共に寄り添うようなミュージアムもイメージしやすいだろう。 利用者との距離感の意識は、具体的な利用スタイルの中でも考えることができる。例えばYCAMでは展覧会は無料で観ることができる。メディアアートというジャンルは、作品と鑑賞者とのインタラクションが前提になっている作品も少なくないので、鑑賞のスタイルとしても単純に眺めていればよいというわけにはいかない。はじめて目にする作品で、何を取っ掛かりに鑑賞すればよいのか分からず面食らう場合もあるだろう。この場合、無料で何度でも観ることができるのは鑑賞教育の観点からも、とても有効だと思われる。徐々に間合いを詰めていく形で作品の要素を発見し、その技術的な背景にも興味を抱くというような形で段階を追ってアプローチできるのである。 このときに重要な役割を果たすのは展示監視を担うサポートスタッフというアルバイトのスタッフである。地元の学生や主婦、シニア世代など多様な市民が非常に研究熱心に作品への理解を深め、また一方的な解説に陥らない、来場者と視線を共にするような解説を心がけてくれている。来場者にとっては専門家がまくし立てるよりもよほど親近感を覚えるガイドとなっている。
コロガルパビリオンについて
仮設のメディア公園「コロガルパビリオン」
2012年の教育普及展「glitchGROUND」で好評だったコロガル公園のコンセプトを引き継ぐ形で、YCAM10周年記念祭にも「コロガルパビリオン」という仮設のメディア公園が出現した。これは、スピーカーやマイク、LED照明などのメディアが埋め込まれた半屋外型の公園で、斜めの床や波打つ床、光や音などのメディア装置などが一体となった仕掛けが地域の子供たちを中心に大変な人気を博した。
「コロガルパビリオン」で遊ぶ子供たち
この公園の特徴は、自己責任で自由に遊ぶためにルールや禁止事項を極力減らしていることと、遊びの要素を自分なりに発見したり発明したりすることが奨励されていることだろう。遊具としての仕掛けを工夫するだけでなく、遊びのアイデアを子供たちから広く募集して、子供たち同士で追加の機能を話し合ってYCAM InterLabがそれを実装してしまうという「子どもあそびばミーティング」や、子供たちが自発的に始めたワークショップやおみこしなどのイベントが開催されるなど、学校や家庭で経験できない体験を提供できたのではないかと考えている。特に、会期の延長を求める署名運動が子供たち主導で巻き起こるなど、顔見知りの友達同士だけでなく、この場を共有する全てのユーザーと共に、子供たち自身があそびば環境を存続させるために行動を起こしたということは、教科書では伝わらないような「公共性を学ぶ」機会になったのではないだろうか。
YCAMの考えるメディアリテラシー教育とは
コロガルパビリオンをはじめとするイベントの仕掛け、または10年間開発してきた各種のオリジナルワークショップにおいても、教育普及としてはメディアリテラシー教育という側面は常に意識している。一握りの天才のため、というよりも、メディアに取り囲まれた環境を生き抜く民の知恵として、メディアについて知っていることが重要だと考えているからである。 メディアについて知るというのは、学術的な定義がすらすらと述べられるという意味ではない。例えば、海に生きる民は雲の動きや海面の色から今後の海の荒れ模様を予測できたりする。また森に生きる民は、山の中で水が流れている方向を読み取ったり、食べられるキノコを見分けたりすることができる。環境の中で生きる人はその環境について、体験を通じて知っている。人間が育つ過程で「水」というものがどういうものか知るのに、化学式からスタートする人はいない。触ったり飲んだり浸かったりしながら徐々に触れ合い、時に危険な目にも遭ったり、恩恵を感じたりしながら理解していくのである。 翻って、美術史を含む歴史の知識が美術を読み解く手がかりになるのと同様に、メディアリテラシーの知識がメディアアートを読み解く手がかりになることももちろん想定している。前提や知識がなくても楽しい鑑賞や批評活動はできるが、知識を手に入れることでより豊かに実ることの方が多い。
まとめ
筆者自身がミュージアムエデュケーションの専門教育を受けてこなかったことと、新設のメディアアートセンターであったことから、分かりやすいお手本がないままがむしゃらに突き進んできたというのが実際の経緯である。だからこそ全力で考えてその時考えうるベストな形を探ってきた。今後もこの地域に残るアートセンターとして、来場者、市民とともに寄り添いつつ、新鮮な驚きを提供していきたいと考えている。
次回後編では、YCAMの事例をふまえて、地方社会におけるメディアセンターの役割についてまとめてみたい。