近年、アニメーションにおける新たなジャンルとして定着した感のあるアニメーション・ドキュメンタリーについての本格的な研究書が出版された。イギリスの研究者アナベル・ホーネス・ロウ氏による
Animated Documentary (Palgrave Mcmillan, 2013)である。
現実を記録するドキュメンタリーと、作り手の世界観を自由に構築することのできるアニメーション。水と油のように相性が悪いように思える両者は現在なぜ混ざりつつあるのか? この本は、その両者の融合について、既存のアニメーション・スタディーズにおける当該ジャンルの作品への言及と理論的考察を批判的に再検討しつつ、また、ドキュメンタリー研究の成果、美学理論などでの写真に対する最新の知見などを材料としながら、ドキュメンタリーがアニメーションを利用する必然性について分析を行っていく。
この本は、基本的な立ち位置として、アニメーションは実写が記録しえない範囲の現実を捉えることを可能するもの、つまり、ドキュメンタリーのポテンシャルを拡大するものとして考える。
ロウ氏は、アニメーションがドキュメンタリーにおいて果たす主要な機能を3つに分ける。模倣による代替(mimetic substitutions)、非模倣による代替(non-mimetic substitutions)、そして喚起(evocation)である。
模倣による代替は、実写では捉えることのできない対象を、アニメーションを使って代わりに表象するものだ。アニメーション・ドキュメンタリーの最初期の成果と言えるウィンザー・マッケイ監督の『ルシタニア号の沈没』(1918)がその好例となる。ルシタニア号は第一次世界大戦中にドイツ軍によって沈められたアメリカの客船だが、沈没自体の記録映像がないなかで、マッケイ監督は「事件に関する初の記録映像」としてアニメーションを代替の手段として用いている。当時の観客もまた、それを真正な記録映像として受容していたこともまた、ロウ氏は指摘する。
非模倣による代替は、実写とは見た目の著しく異なる映像スタイルを用いるケースであり、アニメーションの美学的特質を活かしつつ、現実との接点を保とうとするものであると言える。インタビュー音声を用いたアニメーション・ドキュメンタリー作品において、非模倣による代替は、インタビュイーの語る言葉をビジュアルとして提示することで、解釈を施し理解を促すという点で効果を発揮する。また、社会的なタブーや法に触れるテーマなど、インタビューに答えた個人が特定されることでその本人に著しく不利な結果がもたらされる場合、インタビュイー自身を本人とは異なるビジュアルとして提示することにより、プライバシーを保護することができる。それもまた、非模倣による代替の重要な機能である。
喚起は、実写では伝えづらいある種のコンセプト、感情、心の状態をテーマとするドキュメンタリー作品において多く用いられる。とりわけ、社会の多数派に属さない人々にとってのリアリティを取り上げる際、アニメーションがその内的世界の状態を解釈し、提示することによって、本来であれば理解や共感の難しいそういった人々の存在に対し、観客の想像力を誘発するものだ。たとえば、サマンサ・ムーア監督の『アイフル・オブ・サウンド An Eyeful of Sound』(2010)は、共感覚者の世界を捉えるためにアニメーションを用いる。聴覚的刺激が視覚に影響を及ぼすような状態は、アニメーションにこそ向いているというわけだ。
Animated Documentary
はこのような理論的枠組のもとに議論を進めていくが、そこには、アニメーション・ドキュメンタリーについての直接的な考察のみならず、観客が何をリアルと感じるのかという根本的な問いも含まれている。
BBCの恐竜に関するテレビドキュメンタリー『ウォーキング with ダイナソー〜驚異の恐竜王国』(1999)は、科学的知見に基づいた恐竜の生態をフォトリアリスティックなCGアニメーションを用いて提示する。しかし、その「リアル」さは、当時まだ記憶に新しかった『ジュラシック・パーク』(1993)における恐竜の描き方であったり、もしくは動物の生態を観察するドキュメンタリーが頻繁に用いるカメラワークを意図的に使っている。そのことが示すのは、ドキュメンタリーの真実らしさとは、実写映像が現実を記録するからというだけで保証されるのではなく、真実らしさを構成する様々な社会的要因の関わりのなかで生まれるということだ。
Animated Documentary
はドキュメンタリーにおける実写映像以外の重要性に目を向けるものだが、なかでも、真実の担い手としての声の役割に大きく注目している。音声インタビューはアニメーション・ドキュメンタリーにとって欠くことのできない重要な要素だが、声が語る内容はもちろん、声色やその調子、口ごもりなどの語り方自体もまた、語られる内容についての大きな情報を担っている。アニメーションは、声の担うそういった情報を増幅し、ビジュアルとして具現化するツールとして、非常に有益なものなのである。
Animated Documentary
を貫くのは、世界の豊かさ・複雑さに対する視線を失わないという態度だ。それはたとえば、ドキュメンタリーをめぐる言説がアニメーションを排除しがちであることへの反発であったり、ポストモダン以降とりわけ顕著になった現実の不安定性・偶然性への認識であったり、アニメーション・ドキュメンタリーを通じたマイノリティによる世界の眺め方への着目への促しであったり、この本において様々なかたちで現れてくるものである。
アニメーションがドキュメンタリーのポテンシャルを押し広げるという視点も、実写に対するアニメーションの優位性を示すというよりは、現実との関係性の構築のための選択肢を増やすものとして常に提示されている印象がある。
それは、ドキュメンタリーはもちろん、アニメーションに対しても新たな視点を投げかけるものである。著者自身は直接的には指摘していないが、この本で提示されるアニメーション美学は、ドキュメンタリーのみならず、フィクション作品においても適用しうるはずだ。たとえば、個人作家のアニメーション作品の言説を紐解けば、内的な世界をビジュアライズするための手段としてアニメーションを用いているという旨の発言は多く見出せる。この本の表紙を飾る『フィーリング・マイ・ウェイ Feeling My Way』(1997)のジョナサン・ホジソン監督のアニメーション作品は、ドキュメンタリーにアニメーションを提供した場合のみならず、フィクション作品であっても、この本で取り上げられた多くのアニメーション・ドキュメンタリー作品と似た雰囲気を持つ。デッサンやスケッチをベースにした彼の作品は、現実を捉える視点の多様性のひとつを提示してくれるからだ。
Animated Documentary
は、ドキュメンタリー映画に対する考え方を刷新しようと試みるのみならず、この本が提示するアニメーション観を足場として、オルタナティブなアニメーション史を組み上げることもまた、夢想させてくれる本である。
Animated Documentary
著者:アナベル・ホーネス・ロウ 出版社:Palgrave Mcmillan
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