アニメ・特撮・ゲームなどのメディア芸術の世界における「音」の表現を切り拓いてきた先駆者にお話しをうかがうインタビューシリーズ。その第1回目にふさわしい人物として登場していただくのは、80年代から現在まで、一貫してアニメ・ゲームの音楽を専門に創造し続ける稀有な作曲家で、今年、デビュー40周年を迎えられた田中公平さん。その生い立ちから、アニメ・ゲームとの出会い、コンテンツビジネスとしての未来の姿までを、存分に語っていただいた。

田中公平氏

クラシックをきっかけに作曲家を目指す

田中さんが音楽家を志すきっかけになった出来事をお聞かせください。

田中:ドイツのバイロイトで、毎年夏にワーグナーのオペラだけを上演する「バイロイト音楽祭」というのがあるんですよ。全世界のクラシックファン、ワーグナーファン憧れの一大イベントです。その歴史上で、ほとんど唯一の海外出張公演が、1967年に私の住んでいた大阪のフェスティバルホールで開催されたんです。中学1年生、13才のときでした。小学2年生でピアノを習い始めて、徐々にクラシック音楽が好きになっていって。もうその頃には、誕生日プレゼントに『ヴァルキューレ』の譜面をねだるという、両親も不思議がるほどのクラシックオタクになっていたので、その公演にどうしても行きたくてね。でも、チケットが50年前の値段で最高3万円、安い席でも8,000円ですよ。両親はあまり音楽に興味がなかったので説得するのに苦労しましたけど、なんとか8,000円を出してもらえて、行くことができたんです。
その日は、ブーレーズ指揮のオペラ『トリスタンとイゾルテ』が上演されたんですが、そのあまりの素晴らしさに圧倒されました。4時間半の公演の後、カーテンコールだけで1時間半続いたんですよ。その間、誰も帰らない。手が腫れるほど拍手し続けました。まさに人生を変える一撃を食らいました。こんな感動を人々に与えられるような音楽をつくってみたい……と、思うようになりましたね。当時はバイロイト音楽祭の海外公演なんて考えられないことでしたし、しかも東京はなしで大阪公演のみ。奇跡ですよね。本当に、私の将来のために開いてもらったようなオペラ公演でした(笑)。後日談になりますが、この日の感動を感想文にしてクラシック雑誌『音楽の友』に送ったら、なんと採用されて誌面に載ったんですよ。謝礼として図書券1万円分が送られてきたので、チケット代を差し引いても2,000円分、私が勝ちました(笑)。

そこから、東京藝術大学音楽学部作曲科を目指して勉強されるわけですね。

田中:父親は大阪で医者をしていました。3代続いた医者の家の一人息子だったので、当然、私を医者にしたかったようです。でも、高校3年生の春に急に私が、「作曲家になりたい」と言い出したので、相当面食らったようですね。でも、「俺も新聞記者になりたかったが、父親に継げと言われて医者になった。本当に作曲家になりたいならやってみろ」と言ってくれたんです。「その代わり、日本一の学校に入って、日本一の作曲家になれ」ともね。すごい交換条件でしょ(笑)。でもそう言って作曲家を目指すことを許してくれた、その時の寛容さには今でも感謝していますし、尊敬しています。関西圏で作曲の勉強ができる先生を父が見つけてくれて、そこから東京藝大を目指す勉強が始まるんですが、そこで一緒に習っていたのが、今や日本を代表する現代音楽の作曲家になった西村朗さんです。でも、最初の年は二人とも落ちまして(笑)。浪人中の週末は、二人で始発の新幹線に乗って東京の先生のところに勉強に行き、終電で一緒に帰ってくるということを繰り返して、翌年、そろって合格するという仲でした。
今思い返しても驚くのですが、私の代の東京藝大音楽学部作曲科には、その西村朗のほか、作曲家の青島広志、バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督の鈴木雅明、ピアニストの藤井一興、社団法人日本作曲家協議会会長になる松下功など、後の日本のクラシック界を支える才能が結集してたんですよ。そのなかでは私は劣等生でしたね。入試のときは2番目の成績で入ったんですが、出るときには下から2番目(笑)。なぜかというと、当時、東京藝大の勉強は現代音楽が中心だったんです。入試のときには古典派やロマン派の知識や能力を求めるのに、入学した途端に無調の作品や実験的な音楽ばかりを書かされました。私はどうも現代音楽が好きじゃなくて。青島さんと二人して、「こんなんやってられるか!」と反抗していました。合唱曲「大地讃頌」「蔵王」などの作曲で有名な佐藤眞先生に付いてたんですが、先生といっしょに大学の近くの焼き鳥屋で昼間から毎日飲んでましたね。そりゃあ点数も悪くなりますよ(笑)。それから、当時の東京藝大の音楽学部には、「就職課」のような卒業後の仕事を紹介してくれる仕組みがありませんでした。美術学部にはあるのにね(笑)。学校に尋ねたら、「オーケストラに入りたい人は直接楽団に問い合わせてください」みたいな話ばっかりで。藝大を出て、音楽を仕事として社会に出ていくことは、それくらい個人の実力や「やる気」に任されていたということです。

しかし田中さんはすぐに作曲家にはならず、レコード会社に就職されたんですよね?

田中:そうなんです。普通ならやりたい職業にすぐに飛び込むところですが、私は大阪人なので、商売には用心深いんです(笑)。いきなり「作曲家でございます」と名乗り始めたところで、仕事なんて来るはずがない。例えば大きな予算がかかるオーケストラ編成の曲を、大学を出たばかりの新米に書かせてもらえるかというと、そんなに甘くはないわけです。今なら打ち込みでデモテープをつくれますけど、当時はそんなものはまだありませんから、デモをつくるにしても演奏家にギャランティを払って依頼しなくてはならない。実力をアピールすることすら簡単ではなかったんです。なので、まずはレコード会社に入って、音楽業界の仕組みや内幕を体験してみよう、と考えました。一度きりの人生だからね、失敗したくなかったんです。なんせ学校が斡旋してくれないので、先生の推薦状だのは一度も使わず、全部自分で就職活動しましたよ。
結果、ビクター音楽産業(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)というレコード会社に入社することができました。もちろん制作部のディレクターを志望したんですが、入社してすぐ宣伝の部署に配属されちゃいました。最初はつまんなかったんですが、だんだんと宣伝の仕事の重要性とおもしろさがわかってきましたね。テレビの歌番組収録やレコーディング、コンサートなどの現場はすべて見られるし、歌手の方に付いて日本中を回ることもできます。桜田淳子、岩崎宏美、西城秀樹、松崎しげる、森進一、ピンク・レディー、サザンオールスターズ、八神純子等々……。当時のビクターの大ヒットアーティストを担当しました。宣伝の現場には珍しく、譜面の読み書きができる人間だったので、内緒ですが、編曲や譜面の手直しをちょっと手伝ったこともありますよ。
そういう日々を通じて、宣伝や営業、販売の仕組みを知り、レコード1枚売るのにどれだけの労力や経費がかかるのかも実感することができました。そしてこの業界の体質や慣習、良い面・悪い面もそこで学ぶことができたわけです。実際、学校を出てすぐに作曲家を始めた人は、「どうして俺のレコードは売れないんだろう?」と戸惑っちゃうわけですよ。そういう仕組みを理解できてないからね。レコードを買ってくれるファンの方と、その仕組みを支えている会社の方たちがどれほど有難いか、その実感が希薄なんだと思います。私はそれをイヤというほど叩き込まれたので、どんなにキャリアを重ねても、そういう方たちへの感謝を忘れることはありません。近年、「コミックマーケット」にサークル参加して自主制作CDの販売を始めたのも、そうした気持ちからです。CDを2,000枚焼いて会場に運んで、一人ひとり握手しながら手売りする、その労力もわかってるけど、自分の作品を買ってくださる方の顔を見ながら1枚ずつ手渡す感触が、何ものにも代えがたいということも知ってるんです。ですので、レコード会社に就職したことや、そこで宣伝に配属されたことは、結果的に私の後の人生に大きなプラスとして作用したんだと考えています。今でも、作曲家志望の若者には、「あちこち巡り歩いて、作曲や音楽以外にもいろいろと体験してから、自分のやりたい仕事を始めなさい」とアドバイスしていますよ。

レコード会社の社員から、どのようにして作曲家に転身されたのでしょうか?

田中:レコード会社に勤務して3年くらい経った頃に父親が病気になりまして。臥せっているときに、「俺はあんたをサラリーマンにするために医者にするのを諦めたわけちゃうぞ。作曲家になる話はどうした?」と言われてしまいまして、そこで「そうやった!」と気づくわけですよ。結局父はその言葉を残して亡くなってしまうんですが、その2カ月後には辞表を出していました。顔も広くなり、仕事もちょうどおもしろくなってきた時期だったんですが、そこはスッパリ諦めて、今一度、作曲家になるために動き出しました。
でも大学を出て3年も経っているので、かなり腕がなまっていると感じていました。そこでジャズを勉強するためにアメリカ・ボストンのバークリー音楽大学に留学するんです。中学の頃からクラシック漬けでしたし、歌謡曲の仕事をしてはいましたが、洋楽の世界、ジャズやロックをほとんど知らなかったんです。
余談になりますが、私の世代の音楽業界人は、皆、ビートルズ、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリンなどのロックを夢中で聴いていた人たちでした。でも、特にビートルズの存在が強烈すぎて、その洗礼を受けてしまった人はなかなかそこから抜け出せないんです。アニメ業界でも、「宇宙戦艦ヤマト」と「ガンダム」を子どもの頃に体験してしまった人が、その影響をなかなか拭えないのと同じですよ(笑)。でも、私はビートルズをくぐり抜けてこなかった。この感覚は後々、いろんなタイプの新しいアニメ音楽・ゲーム音楽をつくるときに大いに役に立つことになります。

独自の音楽遍歴が今につながっているのですね。留学先ではどのような経験をされましたか?

田中:実際、バークリー音楽大学で学ぶことは目から鱗の連続でした。図書館に行くと、サド・ジョーンズやクインシー・ジョーンズの手書きの譜面も見放題なんですよ。譜面オタクだった私には天国のようでしたね。ただ、洋楽の仕組みってすごいなと驚きつつも、子どもの頃にその洗礼を受けていないので、必要以上にのめり込むことなく、極めて客観的に分析することができたんです。ジャズ理論の良い面も悪い面も含めて理解する、得難い体験をすることができました。さらにバークリー音楽大学には、作曲専攻の学生が曲のデモテープをつくろうとすると、楽器演奏を専攻している学生がみんなギャランティなしでレコーディングに協力してくれるワークショップ・システムがあるんです。彼らにとっても勉強になりますからね。そこでパート譜の書き方から編曲のコツまで、後の現場での仕事に直結する、さまざまなことを学ぶことができました。
バークリー音楽大学には2年の予定で留学したんですが、私が本当に聴きたい授業は3年目以降でないと受講できなかったんですよ。なので、「こっちは日本の藝大で基礎は終わっとんねん。スキップさせんかい!」と学生課にネジ込みに行ったんです。毎日毎日、顔を覚えられるほど、「Too easy for me!」と叫び続けました(笑)。そうしたら向こうも折れて、受講を許可してもらえました。そうやって紛れ込んだので、周りの学生からは「なんか隅っこに変な東洋人が座ってるけど、なんだアイツ?」みたいに思われてたはずですよ。結果、その講義でトップのA+の成績を取って、教室を騒然とさせてやりました(笑)。そのほかにもジャズピアノの授業などもいろいろあったんですが、全部蹴っ飛ばして、作曲に必要なものだけを手際よく学んで2年で帰ってきました。

CMやドラマ関連の音楽からアニメ音楽へ

いよいよ作曲家としてのキャリアがスタートするわけですね。

田中:そう簡単ではありませんよ。帰国はしたものの、やはりすぐに作曲の仕事がもらえるはずもなく。最初の半年はホテルのラウンジでピアノ弾きのバイトをして暮らしていました。女優の浜木綿子さんが経営されているお店だったので、勝新太郎さんがフラっとやってきて、「おう、歌うからピアノ弾いてくれ」なんて言われることもありました。そうこうしているうちに、レコード会社時代の人脈が効いてくるんですよ。同じビクターで作詞家の荒木とよひさ先生(註1)のマネージャーをやっていた方が、「今度作曲家の事務所をつくるけど、なにかやってみる?」と声をかけてくれたんです。それが現在の所属事務所の社長です。そこで先輩の作曲家、若草恵さん(註2)のアシスタントをするところからキャリアがスタートしました。
そのうちに少しずつCMやドラマの音楽の仕事が来るようになっていきます。CM音楽はどうしても企業側の意向が強いので、練ってつくり上げたものが簡単にひっくり返されることも多くて、ちょっと困っちゃいましたね。ドラマはテレビ朝日系の「土曜ワイド劇場」を皮切りにずいぶん担当しました。2時間のサスペンスドラマは、撮影・編集の後で音楽を付ける場所やタイミングが決まるので、撮影が延びると作曲の時間が削られてしまうんですが、私はそれを1日、2日で書くことができたので重宝がられたみたいです。でもあまりにも時間に追われるような作曲作業が続いて、さすがに辛かったですね。これらは、私がその後CMや実写ドラマの仕事をほとんど受けなくなる理由のひとつでもあります。
そんな頃にお話しをいただいたのが、テレビアニメ『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』(1982~1983)の挿入歌で、山野さと子さんが歌った「星の涙」です。作曲はアニメ音楽の大御所、菊池俊輔先生(註3)で、私はその編曲を担当しました。それが最初のアニメソングのお仕事でしたね。それが日本コロムビアのディレクターさんの間で評判が良かったらしく、今度は別のディレクターさんの作品、テレビアニメ『キン肉マン』(1983~1986)のテリーマンやラーメンマンなど、いろいろな超人たちのテーマソングの編曲を担当しました。さらに別のディレクターさんから、特撮番組『宇宙刑事シャイダー』(1984~1985)や『超電子バイオマン』(1984~1985)のお仕事をいただき、編曲だけでなく、作曲も任せていただけるようになってきました。そうやってアニメ・特撮番組の実績を積んでいったんです。

アニメ挿入歌の編曲が転機になったのですね。

田中:そんな時期に、古巣のビクターで『超時空要塞マクロス』(1982~1983)を大ヒットさせたアニメ担当ディレクターの永田守弘さんから声がかかりました。コロムビアでの私の仕事の様子を見てくれていたらしく、テレビアニメ『夢の星のボタンノーズ』(1985~1986)の劇伴(BGM)のお話が来たんです。レコーディング1週間前に、予定していた作曲家さんが急にダメになったので、私のところに依頼が回ってきました。オーケストラ編成の曲を4日間で76曲書かなくてはいけないという緊急事態でしたが、即、決断してお引き受けしました。徹夜なんかせずに8時間の睡眠時間を確保して、76曲を4日で割って、1日に19曲を書き上げる工程表をつくって仕上がった曲に印を付けながら挑みました。その結果、3日半で出来上がりましたね。余った時間で、打ち込みでデモテープまでつくって持っていったら、驚かれましたよ(笑)
そのレコーディングの様子を見ていたのが、現在、アニメ音楽制作会社である株式会社フライングドッグの代表取締役をされている佐々木史朗さんでした。彼も私とおなじくビクターで営業をやっていて、制作に回されて初めて永田さんの助手に付いた作品が『ボタンノーズ』だったんです。30歳そこそこで4日間で76曲書いてデモテープまでつくってきたあげく、レコーディングで涼しい顔して指揮してる私を見て驚いたそうです(笑)。続いて、永田・佐々木コンビからNHKの『アニメ三銃士』(1987~1989)、佐々木さんがディレクターとして独り立ちしてから、OVA『トップをねらえ!』(1988)と、お仕事がつながっていきます。さらに言えば、90年代に入って佐々木さんから紹介されるのが、ゲーム「天外魔境」シリーズ、「サクラ大戦」シリーズの広井王子さんです。『ボタンノーズ』のとき、もし「4日間で76曲」に私がひるんで断っていたら、このつながりはなかったわけですよ。若手の音楽家たちにもよく言ってるんです。最初は小さな仕事しか来ないけど、その一つひとつをしっかり仕上げて実績をつないでいくしかないんだと。ひとつでもサボったり手を抜いたりしたら、またイチから始めないといけなくなる。絶対にそういう縁を途切れさせないように、大事にしなさいと。

田中氏が担当した劇伴を収めた『トップをねらえ! ウルトラ音楽大全集 田中公平の世界』(1996)のジャケットと、付属の冊子より。『トップをねらえ!』は宇宙怪獣と戦うべく少女たちがガンバスターのパイロットとなり、奮闘する物語

今も話に出ましたが、田中さんは当時から、音楽の「打ち込み」(自動演奏のためのプログラミング)を自ら行っていたんですね。

田中:そうです。まだ世の中にまともなシーケンサー(音楽を自動演奏させるプログラミング機器)が発売されていない頃から、いわゆる「打ち込み」の音楽をつくっていました。東京藝大作曲科同期の荒木純さん・岩下哲也さんが、NECのパソコン「PC-8001mkII」(1983発売)を使って、マルチトラックの音楽プログラミングツールを独自に開発したんですよ。当時の市販のシーケンサーはまだ単一のトラックでしか自動演奏できず、それを重ね録りして音楽にしていたんですが、彼らがつくったツールは、この時点ですでに複数の電子楽器音源を同時に演奏させることが可能でした。この仕組みを活用するために、私たち3人は「Appo Sound Project」というシンセサイザー音楽の制作チームを組んで活動していました。テレビアニメ『ドラゴンボール』(1986~1989)の主題歌「魔訶不思議アドベンチャー!」は私が編曲を担当していますが、サウンドの実制作はAppo Sound Projectが担当していて、プログラミング自体も一部私が打ち込んでいます。非常に複雑なサウンドで有名ですが、実際、コロムビアのディレクターさんに「やりすぎだ!」と言われましたね(笑)。
私個人は作曲家としての活動が忙しくなってしまったので、途中からあまり参加できなくなってしまいましたが、Appo Sound Project自体は三鷹にスタジオを持って、その後もシンセサイザー音楽の制作チームとしてずいぶん業界で活躍するんですよ。私が音楽を担当した作品でも、『機動警察パトレイバー』初期OVAシリーズ(1988~1989)主題歌「未来派Lovers」、OVA『アッセンブル・インサート』(1989~1990)、『トップをねらえ!』挿入歌「トップをねらえ! 〜Fly High〜」などの打ち込みサウンドは、Appo Sound Projectの三鷹のスタジオから生まれた音です。

Appo Sound Project『SF Animethology ’86』(1986)のジャケット。シンセサイザーでアレンジされた『機動戦士Zガンダム』『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』『風の谷のナウシカ』といったアニメの主題歌や劇伴が収録されている

(脚注)
*1
作詞家。1943年生まれ。日本大学芸術学部卒。1972年、「四季の歌」の作詞・作曲でデビュー。アニメ・特撮関係の代表作は、『戦国魔神ゴーショーグン』(1981)主題歌「ゴーショーグン発進せよ」「21Century~銀河を越えて~」、『魔法のプリンセス ミンキーモモ』(1982~1983)主題歌「ラブ・ラブ・ミンキーモモ」「ミンキーステッキ・ドリミンパ」、『鳥人戦隊ジェットマン』(1991~1992)主題「鳥人戦隊ジェットマン」「こころはタマゴ」、『鬼平犯科帳』(2017)主題歌「そして・・生きなさい」(作曲:田中公平)など。

*2
作曲家、編曲家。1949年生まれ。ヤマハ音楽振興会、渡辺貞夫のクラスでジャズ理論を学ぶ。作曲家の中山大三郎に師事。アニメ・特撮関係の代表作は、『六神合体ゴッドマーズ』(1981~1982)、『重戦機エルガイム』(1984~1985)、『鉄拳チンミ』(1988)、『世界忍者戦ジライヤ』(1988~1989)、『特捜ロボ ジャンパーソン』(1993~1994)、『ロミオの青い空』(1995)、『モジャ公』(1995~1997)、『トミカヒーロー レスキューフォース』(2008~2009)など。

*3
作曲家、編曲家。1931年生まれ。日本大学芸術学部卒。作曲家の木下忠司に師事。映画『八人目の敵』(1961)の劇伴作曲でデビュー。アニメ・特撮関係の代表作は、『タイガーマスク』(1969~1971)、『仮面ライダー』(1971~1973)、『新造人間キャシャーン』(1973~1974)、『電人ザボーガー』(1974~1975)、『ゲッターロボ』(1974~1975)、『ドラえもん』(1979~2005)、『Dr.スランプ アラレちゃん』(1981~1986)、『ドラゴンボール』(1986~1989)など。


田中公平
1954年大阪生まれ。東京藝術大学音楽学部作曲科卒業後、ビクター音楽産業(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)に3年間勤務。その後、米国ボストンのバークリー音楽大学に留学。帰国後、本格的に作・編曲活動を始める。人気アニメONE PIECE』(フジテレビ系)のBGMおよびオープニング(「ウィーアー!」「ウィーゴー!」)、『ジョジョの奇妙な冒険』(MXTVほか)の第1部オープニング「ジョジョ~その血の運命~」をはじめとして、アニメやゲームの音楽を多数手掛ける。また、ゲーム『サクラ大戦』では主題歌「ゲキテイ」こと「檄!帝国華撃団」が大ヒット。同ゲームから派生したアニメ、舞台等の音楽も手掛け、その数はボーカル作品だけで500曲を超える。近年は作曲活動のほか歌手、演奏者として国内外でライブも行っている。
2002年、新世紀東京国際アニメフェア21でアニメーション・オブ・ザ・イヤー音楽賞を受賞(受賞作品:『ONE PIECE』)。2003年、第17回 日本ゴールドディスク大賞アニメーション・アルバム・オブ・ザ・イヤーを受賞(受賞作品:『サクラ大戦』、対象作品:『サクラ大戦4 ~恋せよ乙女~ 全曲集 檄!帝~ 最終章』)