マンガの出版市場の縮小が止まらない。紙から電子へという大きな変化が起きていることは間違いないが、マンガ雑誌の凋落はそれだけでは説明がつかないほどドラスチックに進んでいる。今何が起きているのかを知るために、マンガ雑誌がもっとも輝き、マンガの出版市場がバブルといわれるほどの活況を見せた時代、1985〜95年のマンガ雑誌編集部の様子を、当時を知る編集者の証言から探ってみたい。第1回目は、「週刊少年チャンピオン」の元編集長、神永悦也(かみなが・えつや)に話を聞いた。
神永悦也
少女誌から「チャンピオン」第4代編集長に
1969年7月に創刊された「週刊少年チャンピオン」(註1)は、少年週刊誌としては最後発の雑誌だ。創刊編集長は成田清美。秋田書店は新書判単行本シリーズ「サンデー・コミックス(のちSUNDAY COMICS)」を成功させていたことから、同コミックスの常連だった手塚治虫、さいとう・たかを、横山光輝、石ノ森章太郎らが執筆陣にも名を連ねた。前年に創刊された「週刊少年ジャンプ」が新人の作品を中心にラインナップしたのとは対照的だったと言える。
創刊当時の部数は24万部程度と出遅れたが、2代目編集長の壁村耐三が「少年マンガの王道路線」と「毎号読み切り連載」という方針を打ち出したことから売り上げを伸ばし、1977年には200万部を達成。「週刊少年ジャンプ」とともに少年週刊誌トップの座を獲得した。1979年の1月22・28日合併号では250万部を記録した。
しかし、70年代最大のヒット作になった水島新司の『ドカベン』(1972〜81)が81年16号で完結したあたりから低迷が始まった。さらに追い打ちを掛けるように雑誌を引っ張ってきた編集長・壁村が病に倒れた。療養のために編集長を退いた壁村を引き継いで、山上たつひこの『がきデカ』(1974〜80)や鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』(1977〜79)などを担当した阿久津邦彦が3代目編集長に就任。それでも、70年代のような大ヒットには恵まれず、83年に4代目編集長になったのが神永悦也だった。
「ぼくは『少年チャンピオン』創刊の時に編集部に配属されて、その後、1974年の夏に少女誌の『月刊プリンセス』が創刊されるときに編集長としてそちらに移ったのです。青池保子さんの『イブの息子たち』(1975〜79)や細川智栄子(現在は細川智栄子あんど芙〜みん)さんの『王家の紋章』(1976〜)、売り出し中だった萩尾望都さんや竹宮惠子さん、大島弓子さんたちに描いてもらって部数を伸ばしていたんですけど、77年に『ひとみ』(1991年に休刊)という『プリンセス』(月刊プリンセス)よりも下の読者を狙った新しい少女誌ができることになって、創刊編集長になるのです。再び『週刊少年チャンピオン』への異動を命じられたのは『ひとみ』が軌道に乗って50万部までいったときでしたから、社長には『行くのは嫌だ』と一度は断ったんですけど、サラリーマンですからね。小学館や講談社と違って、秋田書店のような中堅出版社は、社長の個人商店ですから社長がこうだ、と言ったらこれはもう絶対なんです」
少年マンガはラブコメ路線が全盛
神永は「嫌だった」というが、少女誌の編集長としての成功が社長の頭にあったのは間違いない。「週刊少年チャンピオン」は神永にとっては10年ぶりの少年誌だが、その内容は大きく変わっていた。「少年マンガの王道路線」は影を潜めて、「ラブコメ路線」が強くなっていたのだ。
「当時は『サンデー』(週刊少年サンデー)が大躍進して228万部の時代です。78年に高橋留美子さんの『うる星やつら』(1978〜87)が登場して、81年があだち充さんの『タッチ』(1981〜86)でしょ。少年マンガ誌全体が売れているラブコメ路線に傾いていたんですよ。うちも小山田いくさんの『すくらっぷ・ブック』(1980〜82)とか、とり・みきさんの『るんるんカンパニー』(1980〜81)とか……。内山亜紀さんのロリコン物の『あんどろトリオ』(1981〜82)などもありましたね。少女雑誌から移ってきたぼくからみると、こんなもの少年マンガじゃない、と言いたくなるわけです(笑)。少年向けでは牛次郎さんが原作して、神矢みのるさんが作画を担当した『プラレス3四郎』(1982〜85)などがありましたけど、200万部時代を支えた『ドカベン』『ブラック・ジャック』(1973〜78、79〜83〈不定期連載〉/手塚治虫)『がきデカ』に匹敵するところまではいかない。非常に苦しい時期でしたね。ただ、苦しいのはうちだけじゃなかったと思いますよ。85年からの10年という括りだと、『ジャンプ』(週刊少年ジャンプ)の一人勝ちだったんじゃないですか」
たしかに神永の言うとおり、「週刊少年ジャンプ」の独走態勢はこの時すでに始まっている。83年に228万部を記録した「週刊少年サンデー」は1995年には140万部にまで落ち込んでいる。代わって2位に躍り出た「週刊少年マガジン」ですら、95年に記録した最高発行部数でも436万部。首位の「週刊少年ジャンプ」からは200万部以上の水をあけられてしまっているのだ。
ベテラン・マンガ家の再生工場
かつて、「週刊少年チャンピオン」は“マンガ家の再生工場”と呼ばれたことがあった。
少年誌では人気がなくなっていた手塚治虫に『ブラック・ジャック』を描かせて彼の後期の代表作とまで呼ばれる大ヒット作にし、少年誌から青年誌に移ってシュールなギャグマンガを描いていた山上たつひこに『がきデカ』を描かせて国民的なマンガに育て上げた。『マカロニほうれん荘』の鴨川つばめもデビューは「週刊少年ジャンプ」。いくつか短編を発表したが鳴かず飛ばずだったところ、「月刊少年チャンピオン」に移籍。それが『マカロニほうれん荘』の連載につながっている。
「それは壁村さんの功績です。ぼくは読み切り連載というやりかたもよかったと思っているんです。マンガ家の先生たちは長いものを描きたがるんです。ただ、長くなると必ず中だるみが出てしまう。あとで単行本にするときにつじつまを合わせればいいと考えて手を抜くというのか……。手塚先生なんてまさにそれで、壁村さんは『手塚に長いのを描かせちゃダメだ』とずっと言っていたくらいです。続きものは『ドカベン』くらいですけど、『ドカベン』だって試合が終わるまでの数カ月単位で一話完結するスタイルになっているんです。ところが、それで再生したマンガ家さんたちも1作目はよくても、結局はマンネリになっていくんですよ。手塚先生も『ブラック・ジャック』のあとで『七色いんこ』(1981〜82)とか『ミッドナイト』(1986〜87)とか描いていますけど、『ブラック・ジャック』ほどのインパクトはないんです。ぼくが編集長になった頃は、女の子が主人公の長編SFファンタジーで『プライム・ローズ』(1982〜83)というのを連載していましたけど人気がないんですよ。あれは単行本もなかなか出せなくて、手塚先生が亡くなる前にやっと単行本化の話が進んだくらいです。ぼくとしては、『ブラック・ジャック』の新しいエピソードを早く描いてもらいたいんだけど先生も描くのに大変な労力が掛かるから嫌がるんですね。『ブラック・ジャック』は新刊さえ出せば売れたんです。そのために、連載が終わってからも話は終わっていないこともあって、少しでも早く単行本にできるよう、4回連続の「過ぎさりし一瞬」のような中編や長めの読み切り新作を年にいくつか描いてもらっていたんです」
『大甲子園』と『本気!』
神永が編集長に就任した年に連載がはじまったのは、水島新司の『大甲子園』(1983〜87)と立原あゆみの『熱くんの微熱』(1983〜84)。『ドカベン』の続編にあたる『大甲子園』は、『ドカベン』の山田太郎を中心とした神奈川の明訓高校が、水島の他の連載野球マンガ『球道くん』(1977〜81)や『一球さん』(1975〜77)の登場人物たちと甲子園で激突するという水島新司の野球マンガの集大成で、2018年に連載を終えて話題になった『ドカベン』プロ野球編へとつながる名作。立原あゆみはこのあとの86年に連載をはじめた『本気(マジ)!』(1986〜96)で少年誌での極道マンガという新境地を開くきっかけをつくった。
「水島さんはこの前に『ダントツ』(1982〜83)というやはり高校野球を舞台にしたマンガを連載していたんです。プロ野球選手の夢を断念した主人公が光高校という学校の弱小野球チームの監督に就任し、チームを育てて甲子園に連れていくというストーリー。光高校が甲子園に行くというラストがそのまま『大甲子園』第1回につながるんです。水島さんとしてはいつかは自分が生み出した主人公たちを甲子園で激突させたいと考えていたんです。最終的にはそのままプロに持っていくことも考えていたのかもしれません。水島さんから提示されたタイトルは『夢甲子園』と『大甲子園』。“夢”という言葉がどうも少女マンガっぽいので、先生“大”でいきましょう、と。『夢甲子園』では、あれほどのヒットにはならなかったと思います」
マンガはタイトルが重要になる。編集者のセンスはタイトルやアオリという表紙のコピーに如実に表れるのだ。
「立原さんは、ずっと『プリンセス』や『ひとみ』でお付き合いがあったんです。名前や絵柄を見ると女性のようですが、マッチョタイプの男性です。少女マンガは女の子の気持ちにならないと描けないから、男のマンガ家には難しいんですよ。ぼくが少女雑誌でご一緒したのは立原さんと和田慎二さんくらいでしょう。立原さんは少年誌でもいけそうだと思って、短編をひとつ描いてもらって、そこから何本か連載するようになるんです。『本気!』は、84年11月に急性肝炎と胆石で手塚先生が入院されたときに代替の原稿として急きょ10日ほどで立原さんに描いていただいた読み切りが原点です。上手くハマったというのか、結局、立原さんの代表作になって、『少年チャンピオン』の再浮上にも寄与してくれました」
(脚注)
*1
1969年7月15日の創刊当初は隔週刊行で誌名も「少年チャンピオン」。1970年6月24日から誌名を「週刊少年チャンピオン」と改めて毎週刊行化した。
神永悦也(かみなが・えつや)
1943年生まれ。東京経済大学卒業後、1966年に秋田書店に入社。「少年チャンピオン」「月刊プリンセス」「ひとみ」に創刊時から携わり、1983〜85年に「週刊少年チャンピオン」編集長を務める。2011年退社。
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