「妖怪」と聞いてその姿形を思い浮かべられる人は少なくないだろう。私たちが認識しているそんな妖怪はどのように形成されていったのだろうか。現代の妖怪のイメージが生まれるまでの経緯を振り返り、妖怪にかかわってきた人々のまなざしをたどりながら、妖怪をデザインすることについて考察する。
「妖怪名彙」に記された妖怪たち(天野行雄/画)
あふれる妖怪
今、世のなかは妖怪であふれている。テレビやゲームの世界を見わたしてみると、妖怪を扱った作品でいっぱいだ。子どもたちを中心にゲームや玩具が大ヒット、なかば社会現象にまでなった『妖怪ウォッチ』(註1)、少女マンガ雑誌に連載され、妖怪と人との繋がりを描いた異色の青春物語が人気の『夏目友人帳』(註2)、大正時代を舞台に鬼と鬼狩りの戦いを描いた『鬼滅の刃』(註3)は、マンガ、アニメともに大ヒット、コミックスやグッズ類は品薄状態が続く熱狂ぶりだ。アニメ誕生50周年の年に実に6度目のテレビアニメ化を果たした妖怪アニメの原点『ゲゲゲの鬼太郎』(註4)も健在である。
『鬼滅の刃』と『夏目友人帳』のコミックス
これだけ妖怪を扱った番組やキャラクターが氾濫している昨今、日常会話で妖怪という言葉を持ち出しても、そんなに驚かれることはない。しかし、民俗学の父、柳田國男の「妖怪は神の零落したもの」(註5)という言葉を借りるならば、当然彼らはマイノリティ。世のなかの陰に潜む存在である。以前はそんなに表立って語られる話題ではなく、一部の好事家たちが敬愛する非常にマニアックなものだった。
今、「妖怪」というキーワードで検索をかけると、実に1億2,600万件(2020年4月29日現在。検索エンジン:Yahoo!)ものコンテンツがヒットする。私が作家活動を始めた27年ほど前、初めて繋いだパソコンで検索した時のヒット数は世界中で47件だったことを思うと、驚くべき数字である。妖怪は市民権を得たと言って良いだろう。
では、妖怪というのは何だろう? 妖怪らしい姿形というのはどんなものだろう? そんな質問を投げかけると、どんな答えが返ってくるだろうか。実はこれだけ市民権を得ているかに見える妖怪だが、その基準は人によってまちまち、容姿にも開きがある。猫の妖怪と聞いても、ある人はジバニャン(註6)を、またある人はニャンコ先生(註7)を、人によってはねこ娘(註8)を思い浮かべるかもしれない。もともと姿形が曖昧、というよりないに等しい、得体の知れない存在なのだから、受け取り方によって捉え方が変わるのは当然といえば当然である。ここでは、その捉えどころのない妖怪という存在がどのように受け止められ、表現され、伝えられて来たのかを紹介していこうと思う。
怖さを和らげる装置としての妖怪
人はなぜ、怖いと思う存在について、あえて考え、ましてや形にしてまで残そうとするのか。私は妖怪についてザックリと「不安に思ったこと不思議に思ったことに名前と姿形を与えたもの」と捉えている。例えば、夜道を歩いていて、川の方から怪しい音が聞こえて来たとしよう。現場に行ってみたが、それらしい姿はない。何だ気のせいかと思ってやり過ごしたなら、それは何ということもない日常の出来事だが、そのことに疑問を感じたり、不安に思った瞬間から、怪異という非日常的な出来事が発生することとなる。
自分にとってあり得ない現象が起きたとき、人はそのことに理由を見つけて納得しようとする。たまたま起きた自然現象ではないか、誰かが隠れていたずらしたのではないか……。自分の経験や記憶のなかから原因が考えつかないとき、超自然的な存在がイメージの鎌首をもたげてくる。そしてやがて人はその捉えどころのないイメージに名前や姿形を与えるようになる。ある人は川で小豆を研ぐ音をさせる妖怪・小豆洗いを想像したかもしれない、またある人は人を川に引き込み尻子玉を抜いてしまう妖怪・河童を想像したかもしれない。何気ない日常に起こった不思議な出来事に、超自然的な存在を認めてしまうということは、一見、恐怖に油を注ぐような行為にも思われるが、実はそうすることで、理解不能な出来事を自分なりに解釈しているのだ。
ニュースで事件が起きたことを知った時、私たちはまず犯人が誰か、そしてその人物が捕まったかどうかに注目する。逮捕されているなら、ホッと一安心。今度は動機に注目するようになる。その動機が自分でも理解できるような内容ならますます安心。ところがそれが自分の想像の範疇をこえる内容だったら……。昔の人はそんなあり得ない事件を起こしてしまう犯人像に妖怪を当てはめた。たとえ犯人が人間だったとしても、想像を絶する行為をしたものの心には鬼が宿っていると解釈した。
私たちは、目に見えない恐怖という存在に、名前や姿形を与えることで、安心しようとしているのだ。当初は恐怖を伝え、回避させるための術、恐怖を味わわないための戒めだったのかもしれない。そうやって考え出された恐怖の形は、さまざまなバリエーションを生み、次第に私たちの文化として受け継がれていくことになる。
江戸時代には化け物が描かれた版本が多数出版された。それ以前にも、最古の百鬼夜行図と言われる京都大徳寺の「百鬼夜行絵巻」(註9)や、鎌倉時代の「土蜘蛛草子絵巻」(註10)などたくさんの化け物が描かれているが、それらが今現在の私たちが妖怪と呼ぶものに近い形にまとめられたのは、江戸時代になってからである。まさに、妖怪が文化として根づいた時代である。
「妖怪」という名前
「妖怪」という言葉が使われるようになったのは、実はそう古い時代の話ではない。明治から昭和にかけてのことである。江戸時代は「ようかい」という言葉より、「化け物」「お化け」の方が一般的だったようだ。お化けというのは「化け物」の丁寧語、もしくは幼児語である。「妖怪」という文字も使われてはいたが、読みは「ばけもの」だった。「妖怪」は「ばけもの」という言葉を表す文字のひとつにすぎなかったようである。そしてこの化け物のなかには、私たち現代人が妖怪とは分けて考えようとする幽霊も含まれている。この時代の人にとっては、人も狐や狸と同じ、化けるものだと考えられていた。
このように江戸時代まではポピュラーではなかった妖怪という言葉が、これだけ広く知れわたっていったのには、柳田が学術用語として使用したことによる影響が大きい。
彼が起こした民俗学は、日本の日常的な営みのなかで伝承されてきた習慣や習俗を、資料から読み解く、いわば私たちの祖先が歩んできた、日本という国を知るための学問である。特に妖怪を専門に扱う学問ではないのだが、この民俗学の扱う資料のなかに、民間で語り継がれる伝承があり、そこに化け物の登場する話題も含まれていたことから、あたかもそういったものを専門的に扱う学問であるかのように思われているケースも多い。
柳田國男(天野行雄/画)
ことに、柳田は化け物の話が好きで、そういった論文も数多く残していた。当時巷では化け物的な存在について、さまざまな呼称や捉え方があったが、柳田は主に知識人たちのあいだで使われていた妖怪という新しい言葉を採用し、全国に流布していた多様な怪異を収集、まとめようとした。その時柳田はお化け全般から、幽霊を取り除こうとする。柳田は妖怪と幽霊を違うものと定義(註11)した。実際は河童も天狗も幽霊も、同じ姿が見えない存在であるにもかかわらず、妖怪と幽霊を分類しようと試みたのである。
これは前述の江戸時代における化け物の定義からしても、いささか無理のある考え方だったが、このラベリングが、妖怪を土地と関係があるアミニズム(註12)的な存在とし、幽霊のような人の恨みや遺恨から生じる心霊的なものとは違うものであるかのように印象づけた。ここには、本草学(註13)などが、妖怪を実体のある生物として捉えようとしてきたことも影響している。世に存在するあらゆる物事を博物学的に集め、分類していくこの学問において、妖怪たちも現存するほかの生物と同様に扱われる対象だった。
この流れを受けて、妖怪の情報も集められ分類されるようになる。柳田も各地の研究者から集めた情報をまとめた「妖怪名彙」(註14)という全国妖怪事典のようなものをつくり、発表している。心霊という、今でいうオカルト的なものは、文明開化後、撲滅させられるべき前時代的な考え方として扱われていたことに対し、柳田が抽出した妖怪的なものは、その土地の文化や歴史を伝える貴重なツールとして、学術的に十分に扱えるものという印象を与えた。そして、このことは、後に妖怪と呼ばれるもののキャラクター化が進むうえで、大きな役割を果たすこととなる。
水木しげるの登場
妖怪という言葉がここまで広く浸透したのは、柳田國男が学術用語として用いたことが大きいと述べたが、厳密にいうと、この時点では柳田の定義は一般の人にまでは行き届いていなかった。今日、妖怪という言葉がここまで多くの人たちに認知されるようになったのは、柳田の言葉と定義を、マンガ家の水木しげる(註15)が作品に取り込んだことが大きい。
水木はその画業を紙芝居作家からスタートする。その後、マンガへと表現方法を移し、貸本マンガ家を経て、週刊少年マンガ雑誌を中心に活躍するようになる。メジャーマンガ家として活躍の場を広げていくなかで、水木は貸本マンガ家時代からしばしば取り上げていた妖怪をキャラクターとして本格的に描くようになる。講談社「週刊少年マガジン」に掲載された『墓場の鬼太郎』である。
描き伝えられる妖怪画
水木は『墓場の鬼太郎』に江戸時代の妖怪を登場させた。古くからビジュアルが伝わってはいるものの、実際どんな妖怪かはわかっていなかった妖怪たちに水木独自の解釈を入れて描き起こしたのだ。水木が特に取り上げたのは、江戸時代の絵師にして俳人でもあった、鳥山石燕(註16)の描いた妖怪画だった。石燕はそれまで絵巻などに散見されていた妖怪の絵を集め、描きなおし、自分のフォーマットに落とし込んで図鑑的なものをつくった。『画図百鬼夜行』をはじめとする妖怪画集4作(註17)は当時大変な人気だった。
水木は当時さほど知られていなかったこの本の妖怪たちを、鬼太郎と戦う敵妖怪として、子どもたちに紹介したのだ。水木のこの取り組みによって、江戸の妖怪文化は見事昭和の時代へと橋渡しされることになる。
妖怪は目に見えない存在なのだから、姿形がなくて当然。水木は、妖怪を形にする際、まずは過去に描かれた妖怪の絵をデザインを変えないで描き起こした。彼は妖怪を描く際のポイントとして、「妖怪は、昔の人の残した遺産だから、その型を尊重し、後世に伝えるのがよい」と述べている(註18)。民俗学には、各地を取材し、得られた情報を記録し、伝えるという役割がある。水木は、妖怪画に対してもそれと同じような姿勢で絵にしていた。彼はそのようなルールに添って、鳥山石燕をはじめ、江戸から明治・大正期につくられた絵巻物や版本、瓦版などに描かれた化け物を、次から次へと描き起こした。
描く対象は平面に限らない。その姿が彫刻やお面といった立体物で残っているものは、丸ごと絵にして描き起こした。一例として、水木の描いた呼子(よぶこ)という傘を被った1本足の案山子(かかし)のような妖怪がいる。呼子とは、山彦の鳥取県での呼び名である。山で叫ぶと、反響して自分の声が返ってくる山彦現象を、昔の人は妖怪の仕業とした。鳥山石燕は山彦を、耳のある獣のような姿で描いているが、水木はそれとはまったく違う案山子のような妖怪として描いている。実はこの妖怪の元ネタは山梨県の郷土玩具作家・2代目道方令(みちかたれい)がつくった山彦の人形である(註19)。水木はそれを呼子として描き(山彦の名前が「呼子」になったのは、水木がこの人形を入手したのが鳥取県だったため)、この山彦人形をすばらしい郷土玩具であると紹介している。
水木が呼子として描いた郷土玩具の山彦。山梨県の作家・2代目道方令の作
このように水木は平面、立体、作家の新旧問わず、優れた妖怪の意匠は、積極的に描き残していった。そうして描き起こされた妖怪は、細かく描写された背景画のなかに配置された。民俗学で扱われる妖怪は、土地と密接な関係を持っている。水木は妖怪を描く際、彼らが存在する空間の描写をとても重要と考え、構図に拘り、細部に至るまで丁寧に描き分けた。姿をもらった妖怪たちは、居るべき場所を与えられ、息を吹き返したのだ。
姿を与えられる妖怪たち
マンガの世界で古の妖怪たちと相対する鬼太郎には、味方となってともに戦ってくれる妖怪たちがいる。「鬼太郎ファミリー」と呼ばれるレギュラー妖怪である。水木はレギュラーメンバーには、柳田の「妖怪名彙」に記された妖怪を選んだ。今では有名な「子泣き爺」(註20)、「砂かけ婆」(註21)、「一反木綿」(註22)、「塗り壁」(註23)といった妖怪たちである。これらの妖怪たちは、各地で言い伝えられてはいるものの、その姿形は描かれていないものばかりだった。
「妖怪名彙」に記された妖怪たち(天野行雄/画)
水木は、そんな蓄積された妖怪という記録、文字情報に、独自の感性で姿形を与えていった。彼は妖怪を形にする際、「物」としての存在感にこだわった。絵として姿が残っていない妖怪であっても、彫刻や民芸品といった立体物で残っていればその姿を克明に描写してその妖怪として提示した。また妖怪の元絵がない時は、その妖怪のイメージに近いものを独自の感性で引っ張ってきて、コラージュのように画面に取り込んだ。取り込む素材は、仏教彫刻や根付のような民芸品はもとより、西洋絵画や写真、民族衣装など……彼の感性に引っかかるものはどんなものでも消化され妖怪化した。
例えば岡山県のすねこすりという妖怪。雨の夜に現れる犬のような妖怪で、道ゆく人のすねをこする。この妖怪に水木は、丸まった犬とも猫ともつかない、とうてい素早く動きそうにもない生き物の姿を与える。実はこれ、根付細工の犬をモチーフにしている。丸く固まって見えたのは、もとが彫刻作品だからである。ところが、この丸まった犬が、雨のなか、人の足下にたたずむ姿は怪しげで、妖怪としての存在感がある。これがもし、血肉を感じる生物として描かれていたなら、このひっそりとした怪しさは表現できなかっただろう。
すねこすりのフィギュア(妖怪舎製)
水木の感性で紡がれた「物」たちは、水木によって妖怪として提示された時点で、そのものにしか見えなくなってしまう。水木妖怪に共通していたのは、生き物としての存在感より、物としての存在感を持った妖怪たちだった。柳田が心霊的なものを分けて考えようと定義した妖怪は、アニミズム的な要素が強い印象があった。水木の描く妖怪は、こうした柳田の定義にしっくりとはまるものだった。
少し話は逸れるが、妖怪というと俗の世界の物でもある。それ故にエロやグロといった表現にもつながりやすいが、水木は、必要以上に怖い描写や残酷な描写といった過剰な表現には否定的だった。例えば河鍋暁斎(註24)や月岡芳年(註25)と言った絵師の描く妖怪画を、絵のうまさは認めたうえで、「怖がらせようとしすぎている」と評している。子ども向きの媒体での発表が多かったということもあるが、妖怪というものに対する水木しげるという人の美意識が反映されている言葉である。
こうして水木の手によって送り出された妖怪たちは、日本独自のキャラクターとして、認知されるようになる。妖怪という、ちょっと変わったキャラクターが活躍する『ゲゲゲの鬼太郎』は大ヒット。水木しげるは妖怪マンガ家として、広く世間に知られるようになる。
水木しげるの妖怪表現
水木以前にもさまざまな作家たちが妖怪を絵や形にしていたが、水木の描いた妖怪ほど、世のなかに浸透することはなかった。それは、ほかの作家たちに画力がなかったからではない。たしかに水木しげるは、大変画力のあるマンガ家である。しかし、単に画力というだけなら、水木以上に描ける人間はたくさんいた。
彼の妖怪がほかの作家と一線を画していたのは、妖怪という目に見えない存在の捉え方にあった。画力のある多くの画家は、目に見えない妖怪という存在に実体感を持たせるため、より生物的な描写に力を入れた。河童のクチバシや甲羅に、現存する生物のリアリティを持たせ、肉体は人体を意識した骨格や筋肉をつけて表現された。ところが先程のすねこすりの例を見てもわかるように、水木の妖怪は、あまりそういったところには力が注がれていない。描かれている妖怪によっては生き物なのか何なのかわからないものすらある。また妖怪自体の描写は至ってシンプルで、背景だけが克明に描写されているものもある。
あずきとぎ
水木しげる『小学館入門百科シリーズ32 妖怪なんでも入門』小学館、1974年、69ページ
水木は、妖怪に姿形を与える際、「物」としての実体感は持たせたが、生物的なリアリティにはこだわらなかった。よく、日本人の物事の捉え方は平面的だと言われる。西洋人が立体的に物事を見ていることに対して、日本人は浮世絵の画面構成のように、描き割りを立てかけたように物事を見る傾向が強いのだそうだ。日本において2次元のアニメーションが目まぐるしい進歩を遂げたのも、そういったことが関係しているのかもしれない。
遠近法が導入され、3次元的に物事を見るという考え方が入ってくるまでは、日本絵画は独自の視点と表現方法で万物を形にしていた。妖怪画についてもそうだった。妖怪画らしさに西洋絵画的な表現方法はさほど重要ではなかったのだ。
あまのじゃく
水木しげる『小学館入門百科シリーズ32 妖怪なんでも入門』小学館、1974年、44・45ページ
怪異というものはそれを理解して克服されるまでのあいだに存在するもの。文明開化以降の日本において、怪異は科学的な根拠のない迷信とされて来た。妖怪はそういった近代の理屈で解釈される以前に認識された存在。故に古い日本の習俗をまとっている。柳田が、民俗学という分野で妖怪という存在を学術的に扱えたのも、まさにこういった点に起因する。
この古い日本の習俗をまとった妖怪を、西洋的な絵画表現で実体感を持たせても、日本の妖怪らしくはならないのである。水木は、そのことを直感的に理解しており、現象として起こった姿形のない怪異を描くとき、生物感や立体感よりも空間や物の持つ質感にこだわった。結果、それを見るものに郷愁にも似た、プリミティブな恐怖を呼び覚ます、水木妖怪画の魅力となった。この点が水木の描く妖怪がほかの妖怪表現と異なり、広く世間に受け入れられた重要な要素なのではないかと思うのである。
姿形はあるものの、あまり知られていなかった妖怪たちは、その意匠を伝えるために姿を変えないで描く。文字情報はあるものの、絵になっていない妖怪たちには独自の感性で姿形を与える。そしてそれらの妖怪は克明に描かれたそれぞれの収まるべき風景のなかに配される。水木は、世間が忘れかけていた妖怪という情報を、圧倒的な質感をもって、私たちの目に映る形で見事に再生させたのである。こうして描かれた水木の妖怪画が、柳田以降、定義されて来た妖怪というもの、そのものを表しているように認識され、以後の妖怪表現に大きな影響を及ぼすことになるのである。
(脚注)
*1
『妖怪ウォッチ』は2013年発売のニンテンドー3DS用のゲームソフト。アニメやマンガも同時展開され、一大ブームとなる。特に妖怪を召喚できる腕時計とメダルが大人気となり、各地で売り切れの騒ぎとなった。
*2
緑川ゆきによるマンガ『夏目友人帳』は2003年に初掲載、2005年より連載されている。妖怪が見える少年が、祖母の残した「友人帳」に記された妖怪の名前を妖怪たちに返していくという物語。2008年にアニメ化され、2017年には第6期が放送された。
*3
『鬼滅の刃』は2016年から2020年5月にかけて連載された吾峠呼世晴によるマンガ。大正時代を舞台に、人を喰い、鬼に変える鬼と鬼狩りの戦いを描いた剣劇アクション時代劇
*4
水木しげるの妖怪マンガ『ゲゲゲの鬼太郎』は、1965年に『墓場の鬼太郎』として掲載されて以来さまざまな媒体で展開。幽霊族の末裔・鬼太郎が人に害をなす妖怪と戦う。2018年にはアニメ化50周年を迎え、シリーズ6作目となるテレビアニメが放映された。
*5
柳田國男(1875~1962年)は官僚にして、近代日本の思想家。日本民俗学の創始者。「妖怪は神の零落したもの」という言葉は、民俗学研究所編『民俗学辞典』(東京堂出版、1951年)より。
*6
『妖怪ウォッチ』に登場するメインキャラクター。猫の地縛霊。
*7
『夏目友人帳』に登場する妖怪。友人帳を狙う妖から夏目を守る用心棒をやっている。正体は斑(まだら)という上級妖怪だが、招き猫に封印されていたことから普段は猫の姿で活動する。
*8
『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する猫の妖怪。鬼太郎のガールフレンド。アニメ第6期では、これまでとは異なるスタイルの良い美女の姿で世間を驚かせた。
*9
京都大徳寺・真珠庵所蔵の百鬼夜行図。室町時代に描かれたもので、土佐光信作と伝えられている。同系列の百鬼夜行絵巻では現存する最古のものと言われている。
*10
源頼光の土蜘蛛退治の物語を描いた絵巻物。東京国立博物館所蔵のものが最古と言われる。
*11
柳田國男は妖怪と幽霊の違いについて、3つのポイントを挙げた。妖怪は現れる場所が決まっているが幽霊は決まっていない。妖怪はある一定の場所に入れば誰でも襲うが、幽霊は恨みを持つ者を襲う。妖怪は「たそがれ時」に現れるが、幽霊は「丑三つ時」に現れるというもの。最近は「一定の場所にのみ現われる幽霊」や「白昼堂々現れる幽霊や妖怪」など、この定義が当てはまらない事例が多数見つかっており、最近はあまり使われることがなくなっている。
*12
精霊信仰。地霊信仰。生物、無機物問わず、万物に魂が宿っているという考え方。
*13
中国を中心に、薬学研究から発展した、自然界に存在するあらゆるものを収集し分類、研究する学問。
*14
柳田國男が全国から収集した妖怪伝承をまとめた報告書。初出は1938〜1939年の「民間伝承」。
*15
水木しげる(1922〜2015年)は鳥取県境港市出身のマンガ家。妖怪マンガの第一人者。主な作品に『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』『河童の三平』など。
*16
鳥山石燕(1712〜1788年)は江戸時代中期の絵師、俳人。狩野派の絵師で妖怪画を多数残したことで知られる。
*17
鳥山石燕が発行した妖怪画集。1776年に発行された『画図百鬼夜行』が好評で、『今昔画図続百鬼』『今昔百鬼拾遺』『百器徒然袋』が発行された。
*18
水木しげる『小学館入門百科シリーズ32 妖怪なんでも入門』(小学館、1974年)より。
*19
道方は自らが制作する玩具を土俗玩具と呼び、民俗資料などを参考にしながら制作し、独創的な妖怪の人形を多数残した。道方制作の人形は大手卸問屋の手で全国の土産物屋に流通していたようで、北の果ては北海道、西の果ては鳥取県でも売られていた(筆者が山梨の親族を訪ね取材)。
*20
徳島県の妖怪。老人の姿だが、赤ん坊のような声で泣く。抱き上げると重くなり、しがみついてはなれなくなり、やがて命まで奪われる。
*21
奈良県などに伝わる妖怪。寂しい林や神社のそばを通る人に砂をかけて驚かす。その姿を見たものはいない。
*22
鹿児島県の妖怪。夕暮れ時に、長い布のような姿でヒラヒラ飛んで人を襲う。巻かれた反物のような姿で宙に浮き、下を通る人を巻き上げるとも言われる。
*23
九州地方に伝わる妖怪。見えない壁のような存在で、夜、道行く人の行く手を阻む。この場合、落ち着いて一服すればいなくなるなどと言われる。
*24
河鍋暁斎(1831〜1889年)は幕末から明治にかけて活躍した絵師。自らを「画鬼」と称し、狩野派に学びながらも流派には拘らず、あらゆる画風を積極的に取り入れ、ジャンルにとらわれないさまざまな画題の作品を残した。「暁斎百鬼画談」など妖怪画も多数残している。
*25
月岡芳年(1839〜1892年)は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。卓越した画力で斜陽の浮世絵界にあってかなりの人気を誇った。無残絵の絵師としても知られ「血まみれ芳年」などとも呼ばれた。
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