9月19日(土)から9月27日(日)にかけて「第23回文化庁メディア芸術祭受賞作品展」が開催され、会期中には受賞者らによるトークイベントやワークショップなどの関連イベントが行われた。9月27日(日)には特設サイトにて、東京工業大学准教授の伊藤亜紗氏、ライター/物語評論家のさやわか氏、批評家/早稲田大学准教授の石岡良治氏、マンガ部門選考委員の小田切博氏を迎え、部門横断トーク「表現と社会の距離」が配信された。本稿ではその様子をレポートする。

受賞者トークの様子。左から、さやわか氏、伊藤氏、小田切氏、石岡氏

2010年代、アニメーション、マンガ、アートの動向を振り返る

新型コロナウイルス感染症の流行により、社会的、政治的に、表現の場が規制を受ける状況が長く続く2020年においては、トークのテーマである「表現と社会」の関係性や距離というものが強く意識された。しかしそれは今に限ったことではなく、2011年の東日本大震災以降、日本の表現者たちは自身の立ち位置を探しあぐね続けていたのではないか? トークは司会役を兼ねたさやわか氏からのそんな問いかけからスタートした。

これを受けて、伊藤亜紗氏、石岡良治氏、小田切博氏の三者がそれぞれの分野について、過去10年において置かれていた状況や変化について所感を述べた。石岡氏はアニメーション分野について、『魔法少女まどか☆マギカ』(2011年)の東日本大震災とのシンクロ現象を筆頭に、虚構性が強く、社会との距離が大きいと思われがちなアニメーションが、じつは2010年代には社会状況に対して非常にビビッドに応答していたとした。近年の注目すべき動向としては、コンテンツツーリズムや、アイドル・バンドなどの音楽活動といったテーマの流行、そこから派生したリアルなライブなどのイベントの盛り上がりに触れた。しかしそれらは新型コロナウイルス感染症の流行を受け制限を余儀なくされており、以後の動向の変化は不可避だろうとした。また、2018年に亡くなった高畑勲氏の回顧展が、翌年国立近代美術館で開催されたことで、アニメーション分野そのものの社会的、文化的な位置付けが高まったとした。

小田切氏はマンガ分野について、ここ10年での何よりも大きな変化は、電子書籍化、アプリケーション化という、メディアそのものの変容にあると話した。ウェブブラウザに表示されるマンガアプリの広告も、視聴者の食いつきを優先しセレクトされるため作品の新旧を問わないなど、週刊誌を毎週買うといった消費の時間感覚からはズレてきていること、またこのズレには、安価なペーパーバックをコンビニで販売し始めたことや、マンガ喫茶の登場などが前段階としてあるとし、変化の過程にも言及。加えて、この10年で国内における海外のマンガの流通が増えたことにも触れた。

伊藤氏はアート分野におけるこの10年を、作家が現場や当事者問題に強く関わりを持った、芸術の文化人類学化のようなことが起こった時期と表現し、具体例として、全国各地で多数開催された芸術祭を挙げた。作家が地方の地域に関わり制作を行うことが、地域の活性化やエンパワーメントに繋がる一方、本来は行政が実質的なケアをすべき社会的な問題解決を、芸術が一時的に代替しているにすぎないのでは、という問題意識にも触れ、本来行政や国家に対して一歩引いた姿勢や批評性を持つ芸術の性質に変容が見られるとした。さらに、本トークのテーマと強い関わりのある問題として、表現の自己検閲に言及。2019年のあいちトリエンナーレのテーマ「情の時代」に「情報」「感情」「情け」という3つの情が含まれていたことを紹介したうえで、この10年全国各地で増え続けている社会的なトピックを扱った作品に対する撤去運動という事例に触れ、自己検閲と個人の感情の関係性について、作家が自身の表現を検閲するのと同様に、個人にも、ネット上のバッシングや炎上を恐れ、感情を抑制する意識があるとした。さらには「感情はいらない」という合理的な判断に対する阻害要因としてしか感情を捉えられなくなっている学生の声を紹介。しかし本来感情は、状況を直感的に判断するための能力として必要不可欠なものであり、感情の扱い方は芸術にとっても大きな問いだとした。以上の所感を受け、「自己検閲」「感情」「作品の電子コンテンツ化」「メディアの電子化」に焦点を当て、引き続き各氏から意見が交わされた。

伊藤氏

各分野における自己検閲のあり方

伊藤氏から出されたトピック「自己検閲」については、まさに分野を横断する大きな問題として、改めて各登壇者に発言が求められた。

石岡氏は、原作の時点で題材によって実写に展開するか、アニメーション展開するかあらかじめ決まっているかのような現状があり、その結果アニメーションで扱える題材の幅が狭くなることに窮屈さを感じると話した。具体的に、近年はアニメーションではいわゆる「コミュ障」な主人公を描きたがる傾向が強いため、少女マンガのような恋愛メインの原作は実写展開されることになると紹介。

マンガ分野においてはあらかじめ週刊誌において「少年」ジャンプ、「ヤング」ジャンプなどの対象年齢によるセグメントがあり、小田切氏はそういったセグメントは60年代以降、どんどん細分化しており、それぞれのなかに違ったレギュレーションやコンプライアンス感覚があると話した。

さやわか氏は分野ごとの検閲基準の差異と共有について言及。CGアートの世界として担い手もクロスオーバーしているアメリカのゲームとハリウッド映画では、それぞれが描く物語における道徳的な基準も近いのではないかと推測した。

一方伊藤氏は、コンプライアンスは重要ではあるが、それがかえって当事者の生の声を遠ざけることにつながる可能性があるとし、表現の適切性などが問われる際にはそれぞれの現場にあった対応で臨機応変に臨むべきであり、多様な出来事に対してその時々の条件から最善の行為を選ぶために大事なのは、むしろ普遍的な命令としての道徳よりも個別的な状況に応じた倫理の方であると話した。

SNSありきの現代における表現活動

しかしながら、現場における状況の細部やそこではたらく倫理観を共有するのが非常に難しいのがSNSである。現場を知らず道徳的な価値基準で判断をするしかない人々への情報の広まりは、今後も加速していくのだろうか? この問いに対し伊藤氏は、誰しもが自分自身で発信ができるインターネットの直接性や瞬時性に対して、芸術は本来、作品が作家を媒介するという間接性を持つメディアであり、間接であるがゆえに伝達速度は遅い。そういった芸術本来の特性が、直接性の強い現代において特殊性を帯びるのではと話した。

小田切氏は、SNS上で作家が直接情報発信をすることにより、メッセージが陳腐化、道徳化し、記号的なものとして消費されてしまっていると感じるとし、作家と切り離されたマンガ作品の存在感の抽象性を重要視した。また、マンガ分野に限らない問題意識として、東日本大震災後の在留邦人に対する風評被害などを具体例に挙げた。本来であれば、問題の背景や当事者それぞれの生い立ちや感情など、多様な側面から問題を知らない限りその真相は見えて来ないため、中途半端な知識のみでSNSなどで不用意に何か発言することはできないはずだと語った。

感情と表現

伊藤氏が言及した表現と感情との関係性について石岡氏は、近年のアニメーションでは異性よりも同性同士で仲良くしている傾向があることや、ティーンズ(13〜19歳)以上の年齢設定のキャラクターが小学生のような幼いコミュニケーションをする描写が多いと指摘。つまりは恋愛に対する躊躇、コミュニケーションの不得手を浮かび上がらせる作品が多く、その傾向は教育や社会状況が影響していると推測した。「先輩」という言葉が日本語のまま世界に広まってしまったことが表す通り、日本のティーンズ世代、主に中学高校時代は、わずかな年齢差によって区切られるという世界的にも独特な上下関係ありきの行動様式を強いられ、その関係性はプレッシャーとしてはたらくことが多い。俗にスクールカーストと呼ばれる過酷な現実を受け、アニメーションにおけるティーンズは年相応の人間関係を回避し、小学生的関係性がイノセンスなものとして描かれる。ヒット作である『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(2011年)では、高校生になって関係がギクシャクしてしまった集団が、イノセンスなものとして見出された小学生時代を希求する。現実の中学高校時代の環境に、感情表現を抑制するひとつの芽があるのだろうとした。

石岡氏

コロナ禍でアーカイブを掘ることによる影響
――現在中心主義の危うさ

ブラック・ライヴズ・マターの最中、映画『風と共に去りぬ』(1939年)の表現が不適切だとして動画配信サイトから一時期削除されたことは大きな話題となったが、近年、さまざまなメディアが電子化、アーカイブ化されたことで、過去の作品に触れる機会が多くなり、このコロナ禍ではその視聴がさらに増加した。検閲というトピックに通ずるものとして意見が交わされたのは、そういった過去の表現を現在の視点で見た際の違和感とどう付き合うか、ということだ。

石岡氏は具体例として『新世紀エヴァンゲリオン』(1995~1996年。以下、エヴァ)、「美少女戦士セーラームーン」シリーズ(1992~1997年。以下、セーラームーン)を挙げ、その設定や描写について、過去と現在における一視聴者としての自身の受け取り方の変化について客観的に言及。エヴァについては、アニメーション放映当時は表立って問われなかった、少年少女を兵士として起用し戦いを強いる描写に現在では違和を感じざるを得ず、また、セーラームーンにおける中学生と大学生の恋愛についても同様に違和感を抱くと話した。しかし、セーラームーンの恋愛描写は90年代の放映時にはひとつの憧れの表現として肯定的に捉えられていたはずのものであり、過去と現在どちらの捉え方も否定されるべきものではないとした。そのほか、シェイクスピアの不適切な表現や、アリストテレスの奴隷制肯定、現在世界中で起こる銅像の引き倒しの話など、各氏から具体例が挙げられたが、やはりここにおいても、一つひとつの問題に対し当事者性を伴った倫理観で判断することが必要であり、さらに時間軸を伴う問題については、現在中心主義に陥ることの危険性について語られた。

電子配信化によるフォーマットや垣根の無化とそれが表現に与える影響

ここまで、現場における倫理観を伴う判断の重要性を説いてきたが、そうはいっても、指針や物差しを持つことはできないものか、持つことによるメリットがあるのではないか? というさやわか氏の問いに対し、小田切氏は、物差しを持とうにも、メディアの電子化、コンテンツの配信化によってこれまでのマンガ雑誌が対象年齢層を想定することで担保してきた住み分けも今後は無効化するだろうと述べ、配信化されアルバム単位ではなく曲単位で消費されるようになった音楽分野と同じく、マンガも雑誌という単位は解体されていくのではと推測。ただ、それは一概にデメリットとは言えず、短編の復興など、その状況に応じた表現が模索されるだろうとした。

こうしたメリットについては、石岡氏からも、これまで確固とした日本のマンガのフォーマットがあったがゆえに、アメコミなどに感じていた読みにくさや抵抗感を払拭することができるのでは、との言及があった。

小田切氏によれば、大学生などに調査をすると、そういった垣根はすでに無効化されてきており、大学生がマンガと称して読んでいるのは、縦スクロールで読んでいく韓国のウェブトゥーンであったりするという。また、そういった垣根の無効化による広がりについて、促進するためにはプロパティとコンテンツを分けて考えることが必要だとし、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)を例に、アイアンマンというプロパティと、アイアンマンのコミックブックは別物であり、同題材でもプラットフォームが変われば表現も変わって当然だという意識改革が必要であるとした。これまでの日本のマンガのフォーマットが世界的にも普遍的で良いものであるという考え方からは脱却し、新たなプラットフォームに則した表現を考えていくべきと示唆した。

小田切氏

昨日の現実がファンタジーと化すコロナ禍で、現在に起点を置き直すこと

小田切氏に続き、各氏から各分野の展望が語られた。石岡氏は、これまで日常として描いてきたアニメーションのワンシーン(ライブ会場に大勢の人々が集まる描写など)が、コロナ禍での生活様式の変化により、とてつもないファンタジーに見えたという自身の驚きの体験に触れ、この感覚の変化による日常の捉え直しは不可避であるとし、そのうえで生み出される表現の変化に期待したいとした。

伊藤氏も、やはりこのコロナからの影響は非常に大きく、たとえ収束に向かっても以前と同じようには戻らないだろうとし、加えて、これまで芸術はその経済活動のなかで環境に対して大きな負荷をかけており、そういった活動はいつまでも続けられないような状況に陥っているという実態を自覚し、今一度芸術のあり方、ひいては人間のあり方を考え直さなければならない時期であり、それができるのが芸術であると語った。

さやわか氏は、ゲーム分野においても同様に、このコロナ禍でその存在意義が見直される契機があったとし、『あつまれ どうぶつの森』(2020年)を筆頭に、コロナ禍での経済活動として成功したと捉えられているゲームだが、経済活動としての成功よりも、そのなかで人々が何を求めていたかを理解し、ゲームの需要や可能性について捉え直すことが必要だとした。

さやわか氏

各氏から現在を生きる表現者にとって、分野を横断する共通認識として本トークセッションから導き出されたのは、コロナ禍による生活様式の変容はもちろんのこと、それ以前から存在するSNSなどのインターネット環境など、現在における表現を取り巻く状況を捉え直し、現在に起点を置き直すことの重要性である。SNSをはじめとするインターネット上のコミュニケーションツールは表現の受け皿として寛容でもあり、また時に牙を剥きもするが、伊藤氏が言及したように、それらを冷静に客観視することにより、その各表現分野が本来持つ特性が現代社会においてどのように作用可能かを、現在の状況に向き合うことにより改めて見出すことも可能であろう。また、表現が持つ価値は絶対ではなく、時代や状況により変異する。価値や意味を見定めるために必要なのは、あらかじめ定められたガイドラインを参照することではなく、知識を得、状況を鑑み、よりよい判断をするための倫理観を養うことであるようだ。


(information)
第23回文化庁メディア芸術祭 特別企画
部門横断トーク「表現と社会の距離」

配信日時:2020年9月27日(日)12:00~13:00
出演:伊藤亜紗(東京工業大学准教授)、さやわか(ライター/物語評論家)、石岡良治(批評家/早稲田大学准教授)、小田切博(マンガ部門選考委員/フリーライター)
主催:第23回文化庁メディア芸術祭実行委員会
https://j-mediaarts.jp/
※受賞者トーク・インタビューは、特設サイト(https://www.online.j-mediaarts.jp/)にて配信後、10月31日まで公開された

※URLは2020年10月20日にリンクを確認済み