前回、インターネットを介したコミュニケーションについて取り上げたが、今回目を向けるのは、音楽を通した身体的なコミュニケーションである。2005年より情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で受け継がれてきた「イアマス・リンギング」。そのあり方から、メディアアートをはじめとした表現が日常を成り立たせている制度や共同体に対して投げかけた問い、つくり手と受け手の関係などについて考察していく。

《イアマス・リンギング》の演奏(2021年3月7日 情報科学芸術大学院大学[IAMAS]卒業式)

芸術においてメディアを選び、使って表現することは、つくり手の思想や態度を示すと言えるだろう。例えば、かつて、アーティストたちが、溶けた鉛、ガラス、ラード、フェルト、電話、ごみなどを素材とし、その場限りの「作品」を発表し、行為やその結果を表現として定義しようとした展覧会がある。「態度が形になるとき 作品―概念―過程―状況―情報(“Live in Your Head: When Attitudes Become Form: WORKS – CONCEPTS – PROCESSES – SITUATIONS – INFORMATION”)」展(1969年)と名づけられたこの展覧会は、当時の新しい芸術動向を示しただけでなく、ハラルド・ゼーマンという展覧会のつくり手の役割を通して「キュレーション」が注目されるきっかけとなった。日常的な素材の意味を転換させ、そこに関わる人間の所作に注目するアーティストの態度と、それを読み取る行為を表現とみなしていくゼーマンの主張は、物質を中心とした作品概念とそれを取り巻く制度をご破算にし、展覧会というメディアを刷新するものであった。一方、現代では表現の手段とそれを伝える場との関係は個別化・多様化しつつも密接に関わっている。ソフトウェアやソーシャル・ネットワーキング・サービスなど、制作や流通を支えるメディア技術は一体となり、グローバル資本主義下の監視や検閲、規格化・均質化と無縁ではない。こうした状況のもと、表現することの意味が変質しつつある。表現を成り立たせている制度そのものを問うには、選択的にメディアを用いて読み替えていく発想が求められているのではないだろうか。

今一度メディアアートを振り返るとき、基盤となる制度の書き換えを志向した音楽として、三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」を挙げることができる。折しも、2020年の初め、逆シミュレーション音楽のひとつで情報科学芸術大学院大学[IAMAS]の有志のあいだで受け継がれてきた「イアマス・リンギング」(2005年〜)が途絶え、2021年に入り再演を試みたことから、改めて音楽とコミュニティの関係を考えてみたい。

三輪眞弘の「逆シミュレーション音楽」

三輪眞弘は、《またりさま》(2002年)をはじめ、二進法などの論理演算による作曲を試みてきた。通常の作曲をピアノの鍵盤に置き換えると、白鍵と黒鍵を合わせて1オクターヴには12の音があり、十二進法と捉えることができる。一方、三輪はたった2つの音だけでつくる音楽を考案した。《またりさま》を例にとると、鈴とカスタネットだけで演奏する音楽を作曲したのだ(註1)。

《またりさま》 作曲:三輪眞弘、演奏:方法マシン、2005年

こうしてつくられる作品は、パフォーマンスとしての要素が強く、三輪の指示によれば次のような手順で演奏される。まず8人のプレイヤーが同じ方向に輪になって座る。全員が前の人の背中を見る形で、両手に楽器(右手に鈴、左手にカスタネット)を持ち、「鈴カケのルール」なるものに従って、自分の肩がたたかれたら自分の前に座っている人の肩をたたいて楽器を鳴らす。この「鈴カケのルール」とは、まず各自が、自分が最後に鳴らした楽器によって、以下の規則に従い次の番に鳴らすべき楽器を決める。つまり、自分が最後に鳴らしたのが鈴のときは、次に自分の背中で鳴らされたのと同じ楽器を自分も鳴らす(背後で鈴を鳴らされたら自分も鈴、カスタネットなら自分もカスタネット)。そして自分が最後に鳴らしたのがカスタネットなら、次に自分の背中で鳴らされたのとは違う楽器を鳴らす(鈴が鳴らされたら自分はカスタネット、カスタネットが鳴らされたら自分は鈴)。

三輪によればこのルールは、コンピュータで用いられる二進法、いわゆるXOR演算方式の0と1を鈴とカスタネットに置き換えたもので、つまりコンピュータのなかで起きていることを、生身の人間が鳴らす音でシミュレーションしようという試みなのである。これが、後に三輪により「逆シミュレーション音楽」と命名された所以だ。西洋音楽の音階ルールを、現代の共通語であるコンピュータの原理で書き換えようとした態度と見なすことができる。

しかしながら、三輪の音楽では、書き換えられるのは音階のルールだけではない。新しい音楽を要請する架空の共同体—古くから音楽の様式は共同体の醸成とともに生まれてきた—が構想され、もっともらしい物語として添えられているのだ。《またりさま》には次のような設定がある(註2)。

 人々から「おまたりさん」として親しまれている「またりさま」は、古くから秘境として知られるマタリの谷に伝えられた伝統芸能の名である。収穫祭の終わりに村の未婚男女が集まり奉納されるこの「またりさま」は、若者達が互いの背中だけを見た状態のまま翌日の明け方まで続けられ、毎年静かで不思議な祭りのクライマックスとなる。
 輪になるよう列をなして並んだ男女達は邪気払いの鈴と木片を両手に持ち、村に伝わる「鈴掛」というしきたりに従い、長時間にわたる緊張状態の中でひたすら「またりさま」を続ける。決して間違えが許されない厳格に定められた規則によって行われるゲームのようなこの儀式こそは、その厳格さゆえに、村の若者達の団結と心の交流を促す沈黙の祭儀なのである。また、それは親から子へと受け渡されていく世代交代の象徴(列が閉じた輪を成していることは興味深い事実である)つまり子孫繁栄への祈願であり、同時に村人の間で認められた、若者達にとって唯一の求愛表現の場でもあると言われている。なお、この「またりさま」はその名前から、猿楽芸能の守護神と考えられてきた摩多羅神とも何らかの関係があることが専門家達から指摘されている。

 という夢をみた。

伝統芸能のひとつであるかのような上記の物語に加え、この曲を演奏するには、訓練により、演算しながら演奏する身体の習得を必要とする。添えられた物語はフィクションでありながらも、演奏を通じて共同体を想起させるある種の拘束力を持っているのだ。

芸術社会学、音楽学研究者の中村美亜は、音楽の価値について、人類学者のデヴィッド・グレーバーによる一般的な価値の尺度、「社会的な価値」「交換価値」「差異としての価値」を参照して次のように論じている。「かつて音楽がローカル・コミュニティと強く結びついていた時代には、共同体がどのような価値判断を示すかが音楽の価値を左右した。たとえば教会、宮廷、国家が強い力をもっていた時代には、そこで決められた趣味嗜好がそのまま音楽の価値へとつながった。(中略)グローバルな市場経済が席巻し、ローカルな音楽コミュニティが独自の発展を遂げることも難しくなった状況では、物事の価値はトランス・カルチュラルな商品的価値によって決定される傾向が強くなっている。コンサート・チケットの料金、アーティストの出演料、CDや関連グッズの売り上げなど、いくらの貨幣と交換されるかということが重要視される。これが二つめの「交換価値」である」(註3)。これに対して「差異としての価値を保証するものとして登場するのが、歴史的由来である。音楽が誰によって作られ、以前にどのような人たちに享受されたのかが差異としての価値を押し上げる」(註4)。この定義に則るならば、三輪の音楽は「差異としての価値」を仮想する試みと言えよう。

儀式と音楽の関係から見えてくるもの

さて、今回主題とする「イアマス・リンギング」もまた、逆シミュレーション音楽のひとつである。ただし、先の共同体という観点でこの曲が特殊なのは、フィクションとしての物語が添えられているだけでなく、現実として儀式と向き合い、演奏者、聴衆による共同体が形成される点だ。

「イアマス・リンギング覚書」。虚実を織り交ぜたイアマス・リンギングの由来が述べられている

イアマス・リンギングは、IAMASの入学式・卒業式に、在学生によってハンドベルを使って演奏されてきた。8人が円形になって演奏し、それぞれの演奏者に「0」と「1」の状態(前の人の肩をたたく/ベルを鳴らす)が割り振られ、演奏者は自分の背後の人の状態と自分がおかれている状態の数を足し算して「1」ならばベルを鳴らすというルールで作曲された。したがって、この曲も他の逆シミュレーション音楽と同様、「楽譜を使わず、暗記をせず、即興でもない演奏」、「初期値が決まれば、その後の演奏のすべてが確定的に決まる音楽」、「演算しながら演奏する」という特徴を持つ。筆者も演奏の練習に加わってみたところ、肩をたたく、たたかれるという身体的なコミュニケーションを常に意識しながら演奏するところが特徴的で、演奏者の間で一体感が生まれる。

「イアマス・リンギングの演奏」。演奏の指示書。「双子の弟」「双子の兄」についてはウェブサイト「Haniu files」内「数の世界の"またりさま"」を参照

この曲のもうひとつの特徴は、入学式・卒業式という現実の儀式のなかに挿入され、これからIAMASで学ぶ学生と送り出される学生が、演奏を通じて演算する身体を目の当たりにする一種の通過儀礼でもあるという点だ。メディア表現を学び、修める学生が、自らバイナリデータと化すような体験とそこから生まれる違和感、一体感を目の当たりにすることには、それなりの意味があるように思う。秘儀めいた側面に接して演出にいかに携わるかをともに考えることで、演奏者には解釈の余地が委ねられている。

こうして、「イアマス・リンギング」は2005年以来、各演奏者が次の学年の在学生に個別に声をかけ、受け継がれてきた。毎年形成される任意のグループではあるが、西洋音楽の制度の書き換えを志向するだけでなく、硬直しがちな儀式や制度の書き換え可能性について身をもって考え、共有する体験でもあるはずだ。奇妙な言い方かもしれないが、こうした一連の体験が、現在表現を考えることの基盤となり、各々の態度の試金石となる。そして、皮肉なことに、「イアマス・リンギング」が途絶えたのは、儀式のなかに挿入され差異化を促すはずのこの演目が、儀式の一部として受け止められたからではないだろうか。奇しくも、COVID-19対策で遠隔でのコミュニケーションを強いられた1年を経て、仕切り直して、今年の卒業式で有志の学生グループが演奏を試みることとなった。初期値の配役と基本的な演奏方法を三輪が指示した後、演奏のテンポやタイミングの合わせ方、ベルの鳴らし方、服装などに関して、リンガーズの解釈、発案によって演奏が行われた。オンラインでの演奏の可能性も検討されたが、最終的にマスクと手袋を着用したスタイルで生演奏することを選んだ。

2021年3月7日 情報科学芸術大学院大学[IAMAS]卒業式 演奏:第19代リンガーズ

音楽とコミュニティの行方

「イアマス・リンギング」を例にとると、ある大学の特殊な事例として受け止められるかもしれない。しかし、ここで述べたいのは、日常に根ざした制度を意識させる、逆シミュレーション音楽の構造についてである。三輪は練習中、リンガーズに「この楽譜は、五線譜の楽譜と何が違うか」と問いかけた。音階ではなく行為の指示書であるということ、つまり音は行為の結果として表れるということを確認したのである。どのような音色やテンポを目指し、どのように行為するか、さらにはこの演奏を表現としていかに機能させるかは、演奏者の所作によって決まる。その所作を選ぶ行為が音楽をつくり出していくのである。

所作とは本来極めて個人的であり、特定の身体に結びつくものだ。しかしながら、所作を選ぶ行為の繰り返しがいずれ様式となり、その文化を享受する共同体が生まれ、音楽の歴史を紡いできた。その意味で、逆シミュレーション音楽は、演奏する度に音楽の初源を意識させ、共同体を司るイデオロギーに対する想像力を喚起せずにはいられない構造と言えるのではないだろうか。

ここで今一度、中村美亜が論じている、価値のシステムに戻りたい。中村は前述の3つの価値の尺度を前提としながらも、「しかし、価値はモノにあるだけでなく行為(action)にも存在する」と続ける。「他者とともに儀礼的な行為を繰り返すことは、その人たちの間にある共同主観的な価値観を具現化し、その他者と「想像上の聴衆」を共有することを意味する。したがって、その儀礼を生み出している人たちの行為や生のあり方が、儀礼の内容と結びつき、価値として承認され、儀礼の場を離れても「想像上の聴衆」を共有することができるようになれば、その人の行為や生のあり方は、つねに承認を受け続けることになる。「想像上の聴衆」の獲得は、前述したモノとしての価値(社会的価値、経済的価値、差異としての価値)とは独立した形で、価値を生成するシステムの発動を可能にする」(註5)と述べている。中村の視点を借りるならば、逆シミュレーション音楽において、行為の指示書としての楽譜は他者とともに儀礼的な行為を繰り返すことを促し、共同主観的な価値観を具現化することを志向している。その他者と「想像上の聴衆」を共有することにより、現実の価値のシステムに揺さぶりをかけるだけでなく、演奏者、聴衆に直接問うているのだ。

「想像上の聴衆」とは誰なのだろうか。ここでは、行為することの価値を共有する人々を指す。それは、既存の価値を生成するシステムの外に別のシステムを立ち上げる人々でもありうる。一方で、一度発動したシステムにおいて、儀礼的な行為は反復される形式となり、その形式を遂行すること自体に特別な意味があるわけではない。儀式のなかに挿入され差異化を促すはずの「イアマス・リンギング」が儀式の一部として受け止められたとき、途絶えたことにも象徴されるように、音楽が機能するかどうかは常に試されているのである。芸術はつくり手と受け手の関係を構築し続ける。筆者には、冒頭で述べたゼーマンが刷新しようとした展覧会と作品の関係も同様に、モノとしての作品の価値を白日の下に晒すことによって、行為に注目を転換する「想像上の観衆」をつくり出し、見る側の日常を問うて初めて機能したと思われるのだ。


(脚注)
*1
《またりさま》については、ウェブサイト「Haniu files」内「数の世界の"またりさま"」に詳しい。
http://haniu.a.la9.jp/Matari.html

*2
楽譜『またりさま 完全版 逆シミュレーション音楽』三輪眞弘、マザーアース、2005年、4-5ページ。

*3
中村美亜『音楽をひらく アート・ケア・文化のトリロジー』水声社、2013年、179-180ページ。中村が参照したのはDavid Graeber, Toward an Anthropological Theory of Value: The False Coin of Our Own Dreams, Palgrave, 2001, pp.1-2.

*4
中村前掲書、181ページ。Graeber, 2001, p.43.

*5
中村前掲書、183-184ページ。Graeber, 2001, p.87.