1984年に創作同人誌に限定した同人誌即売会「コミティア」の設立に参画、翌年より現在に至るまで代表を務めてきた中村公彦氏。そして1983年に新潟で同人誌即売会「ガタケット」の創設に加わり、1989年からは途中の離脱をはさみながらも2021年まで代表を務め、また1991年には「COMITIA in 新潟」(現「新潟コミティア」)を立ち上げた坂田文彦氏。中村氏は2013年の第17回文化庁メディア芸術祭において、坂田氏は2021年の第24回文化庁メディア芸術祭において功労賞が贈られた。創作同人のみの同人誌即売会と、地方都市での同人誌即売会、それぞれが見つめてきた同人誌即売会のこれまでと、そこから導き出されるこれからの展望を対談にて語ってもらった。
左から、中村公彦氏、坂田文彦氏
以下、撮影:塩原洋
オリジナル創作の「コミティア」と二次創作の「ガタケット」
まず「コミティア」の設立の経緯を、中村さんにお話しいただければと思います。
中村: 「コミティア」を立ち上げた1984年には、すでに同人誌即売会の代名詞になっていた「コミックマーケット」(1975年〜)があり、私自身も参加していました。当時の「コミックマーケット」では、版権作品をパロディとした二次創作同人誌の割合が増えていましたが、私はオリジナルの作品を描いている作家たちを応援したいという思いを持っており、若い世代を中心に創作を中心とした即売会をやりたいと考えたんです。
そもそも「コミックマーケット」が始まった土壌として、「COM」(註1)が開催していた「ぐら・こん」(註2)がありました。コミックマーケットの初期は「ぐら・こん」の流れを引き継いでいて、商業誌デビューを目指すプロ志望の作品から、商業誌では描けない独自の世界を追求する作品まで、幅広いオリジナルの創作同人が頒布されていました。次第に二次創作の割合が増えていくなかで、「コミティア」は「ぐら・こん」の精神を別のかたちで引き継ごうとしたわけです。
1984年11月に開催した第1回目の「コミティア」のカタログ
いっぽうの「ガタケット」は、「コミティア」が立ち上がる前年の1983年に始まっています。こちらの設立の経緯は坂田さんにお話しいただければと思います。
坂田: 「ガタケット」は最初、「新潟コミックマーケット」という名前で、つまり「コミックマーケット」に対するリスペクト的な意味合いが含まれていました。あの頃は地方に「〇○コミックマーケット」と名づけられたイベントがたくさんあったのですが、僕が代表になった1989年からは通称の「ガタケット」を前面に出して、地方独立系のイベントであることを明示するようになりました。
コミケットが全国に広がるなかで、即売会において二次創作を許容するか否かについて議論が活発になる、いわゆる「アニパロ論争」が起こりました。すでに70年代の末には新潟でもさまざまな同人即売イベントが始まっていましたが、新潟でも次第に「アニパロ論争」も活発になり、こうした流れのなかで二次創作を許容する即売会として「ガタケット」の前身となる「新潟コミックマーケット」が生まれました。
1983年1月に開催した第1回目の「ガタケット」のカタログ
坂田さんはその後の1991年に「新潟コミティア」を立ち上げ、中村さんの「コミティア」が持つ創作同人を重視する即売会を新潟でも展開、「ガタケット」と並行して代表を務めてきました。
坂田: 「ガタケット」も始まった当初は本家の「コミックマーケット」と同様にオリジナル創作の同人誌が大多数でしたが、私が一度アニメーターの仕事に集中するために運営を離れ、1989年頃に再び代表として戻ってきたときには状況が一変して、二次創作の同人誌が大多数になっていました。しかし、オリジナル作品をいちから自分で描くことのおもしろさを知る場所は必要ですし、お互いの創作の考えや思いを伝え合う場所は大切だという思いから、オリジナル作品のための同人誌即売会を新潟で新たに立ち上げたいと思いました。
立ち上げを考えているときに中村さんを紹介してもらい、中村さんに「コミティア」の名前を新潟で使わせてもらえないかと相談しました。そしたらふたつ返事で快く許可をくれて。そのときの驚きは今でも忘れられないですね。
中村: 当時の坂田さんからは、新潟の地元のサークルのためにやりたいという思いが伝わってきましたね。だからこの人は信用できるな、と即座に一緒にやりましょうと「コミティア」の名前を使うことを許可しました。これが先鞭の事例となり、全国にコミティアが生まれていくことになります。
参加人数やジャンルの変遷
「コミティア」はオリジナル創作のみを扱い、「ガタケット」は地方でオールジャンルを、そして「新潟コミティア」は地方でオリジナル創作を扱うというかたちで、目的が異なる即売会に成長したわけですが、それぞれの即売会では参加サークル数はどのような変遷をたどったのでしょう。
中村: 東京の「コミティア」に関しては参加サークル数も参加者数も順調に増えていきました。なかでもネットの普及が上昇には大きく寄与しました。2000年代後半からは「pixiv」に代表されるネット上での作品発表の場が増えて、とにかく作家の数が増えました。母数が何十万人単位で膨大なので、そのうちの1/100が「コミティア」に来るだけでも、来場者は万単位で増えていったわけです。ネットがどれだけ普及しても「直接会いたい」という欲求はあるわけで、リアルで会える場所を求めたときに、我々のイベントが必要とされたのでしょう。
当時はネットで作品を発表出来ればリアルの即売会はいらないという「即売会不要論」もありましたが、実際は違ったわけです。ネットで同人作家やファンのネットワークが広がり、直接会いたい人たちが増えて、結果的に即売会は栄えました。
また、その前の90年代には同人誌を店舗や通販で販売する同人書店も出てきます。このときも同人書店があれば即売会はいらないという論調はありましたが、結果的には同人書店も即売会と両立して結果的に流通部数は増えたんです。即売会という締切がないと、結局みんな本をつくらないんですよね。また、夜店と同じで即売会だからこそ実物が欲しくなるというところも大きいですし、何より作家本人が即売会に来ていて、実際に会うことができるというのがとても大きいです。
坂田: いっぽう、地方では逆の状況がありました。ネットや同人書店の普及が「ガタケット」の参加サークルや来場者の数を落とす要因になったんです。なぜかというと、もともと「ガタケット」に参加する東京の大手サークルは、作家本人は来場せず、委託販売をするサークルと売り子を用意するというケースが多かったんです。それら委託販売のサークルをさばけるように運営のスキームを構築したことで「ガタケット」は大いに盛り上がりました。ところが、委託販売の割合が多いと、同人書店と競合してしまうんですね。
ネットによって東京のイベント情報がすぐ手に入るし、二次創作に関しても特定ジャンルのみを扱うオンリーイベントが増えてきました。それまでは一括りで語られていた同人誌が、ジャンル同士でブロック分けされて意識も変わっていったんですね。こうした状況の変化もあり、「ガタケット」は2000年くらいがピークで、それからは参加サークルも減少していきました。さらに「アニメイト」さんが二次創作の同人誌を扱えるようになったことは大きな打撃でしたね。大手サークルの同人誌は、「アニメイト新潟」さんに行けば売っているわけですから。それでも、プロを目指す作家さんや、大手サークルに憧れを持った作家さんのための地方の登竜門として、歯を食いしばって続けていた時期は長かったです。
オリジナル創作オンリーの「新潟コミティア」は、第1回のときに108のサークルが参加してくれました。これは、当時の「ガタケット」の規模から考えてもとても良い数字で驚いたんです。ところが「ガタケット」は4,000サークルほどの規模にふくらむ一方で「新潟コミティア」のサークル数はずっと横ばいだったんですね。その後、同人書店やネットの影響で「ガタケット」の参加者が減るなかでも、「新潟コミティア」の数字は維持されていました。それはすごく嬉しかったですし、相対的には増えているとも言えます。「新潟コミティア」の健闘が自分のなかで心の支えになっていました。
中村: 首都圏でも地方でも「コミティア」の創作同人オンリーというコンセプトは機能するということですよね。もともと創作同人の作家さんは息が長く、毎回新たな才能が生まれてくる。何十年もやっている同人作家はたくさんいるし、なかなか引退しない。そこにさらに新しい人が入ってくるわけですから。
「コミティア」のカタログ「ティアズマガジン」の「新潟コミティア」版
それぞれの即売会のジャンルの変遷という観点ではどうでしょうか?
中村: 「コミティア」ではイラストの割合が増えましたね。ネットだと1枚絵を見たり買ったりすることが同人の入口になるし、自分の1枚絵のパッケージを売れる場所として「コミティア」を選んでくれる人が増えたんだと思います。
坂田: 「ガタケット」も最初は創作とアニメのパロディがほとんどでしたが、そこにボーイズ・ラブが出てきて、さらに90年代前後にはゲームのパロディが増えました。また、スポーツや、芸能人、ミュージシャンを扱ったものも出てきましたね。でも結果的にこれらのジャンルはオンリーイベントへと流れていきました。今は「コミティア」と同様にイラストが増え、また二次創作のグッズ制作が強いですね。
「ガタケット」においてはコスプレもひとつの軸ですよね。
坂田: コスプレは「ガタケット」において、重要な軸足だということはずっと意識してきました。会場を前日から押さえるわけですが、その前日に「コスプレガタケット」を開催するようになったんです。
コスプレも最初は手づくりが大半で、出来の良し悪しよりもみんなで楽しむという空気がありましたが、次第にクオリティを重視する方向に変化していきました。コスプレ衣装がアニメショップなどで売られるようになり、着るだけでそれなりのクオリティのコスプレができるようになったこともあります。
中村: オリジナルの同人誌でも、いまはデジタル化によって、アマチュアでもプロと同じ機材を使ってプロ顔負けのものをつくれるようになりました。スタートラインは変わらないけど、高みはものすごく上がってしまった印象があります。それでも「コミティア」は初めてマンガやイラストを描いた人でも参加できる場ですし、質で差別されないということが根本にはあります。そこはずっと守っていることですね。
「ガタケット」のカタログ
幅広い創作同人誌を受け入れる「コミティア」
オリジナル創作を発表する「コミティア」では、二次創作と比べてより作家の知名度がキーになる面があると思います。有名無名にかかわらずフラットな目線で作品を紹介するために実施している施策はありますか?
中村: 「コミティア」は参加サークルの見本誌をすべて、20数名のスタッフで読むということをやっています。そのうえで各人の推薦本を持ち寄り、運営として紹介したい同人誌を半日ほどの会議で決めます。それが、「コミティア」のサークルカタログ兼入場証である「ティアズマガジン」の「プッシュ&レビュー」というコーナーに載るわけです。これを30年ほど続けています。売上や人気ではなく、きちんと読んだうえで推す作品を決める。これをやり続けていることが即売会としての信頼につながっていると思います。
実際にプロ活動に挫折して、筆を折るつもりで四国のお遍路を回り、そのときの話をフィクション仕立てで同人誌にした作家さんがいました。その本を紹介したことがきっかけで、商業単行本化されたり、メディア芸術祭の審査委員会推薦作品に選ばれたりしました。その授賞式で「『コミティア』ならわかってくれると思っていました」と言われたんです。そのときは嬉しかったし、同時に責任も感じましたね。「コミティア」がこの人を紹介しなかったら、マンガ家を辞めてしまっていたかもしれないわけですから。その責任は常に意識しています。
また、コミティア開催の一週間後には見本誌を読むだけの読書会も開くようにもしていて、作品を大事にする姿勢はずっと大切にしています。
出張マンガ編集部(註3)も「コミティア」を語るうえでは外せない特徴です。
中村: 私はもともとマンガ情報誌「ぱふ」(註4)で編集をしていたので、出版社ともそれなりの付き合いがありました。2003年に出張マンガ編集部の企画を始めたときは、知っている編集者に声をかけて来てもらうことからスタートしたんです。
出張マンガ編集部があることで、編集部に持ち込みをするために初めてコミティアを訪れて、自分の作品を本にして売れることを知り、次回からはサークル参加者になっていたりする。これはエポックメイキングな企画だったと思います。
出張マンガ編集部を始めた時期は、ネットをはじめとするマンガを発表する手段が増えて、持ち込みが減ってきたという話も聞いていました。ただ「その場所に行ったら原稿を見てもらえる」という環境があれば、それなりの人数が持ち込みをしてくれますよね。また、明確なプロ志望ではなくても、プロの編集者に見てもらうことで自分の実力が知りたい、という人の受け皿にもなっていると思います。
坂田: ひとつの作品を複数の出版社に見てもらえるって貴重な経験ですよね。本人も自分の作品に最も合っている媒体がどこかわかっていないことは多いので、それを見つけるうえでも貴重な場だと思います。
「ティアズマガジン」の巻頭に書かれた「ごあいさつ」をまとめた『ティアズマガジンのごあいさつ 総集編 1984〜2012』(コミティア実行委員会、2012年)。「ティアズマガジン」は「ぱふ」のノウハウが生かされ、「プッシュ&レビュー」やインタビューが掲載されるなど、サークルの紹介だけにとどまらない誌面となっている
2014年に刊行された『コミティア30thクロニクル』(発行:コミティア実行委員会/発売:双葉社)には、「コミティア」が開催されてからの30年間に発表された作品を収録
同人誌即売会の意義とこれから
坂田さんは地方で同人誌即売会を長年開催してきましたし、中村さんも地方で「コミティア」を開催してきました。おふたりは地方に即売会があることの意味をどのようにお考えですか?
坂田: 東京の同人誌即売会は、全国各地からの移動のための金銭的な負担などもあるので、参加する年齢層はどうしても高くなりますよね。対して「ガタケット」は最初の同人誌制作の入口であろうというスタンスを当初から持っていました。どんなに上手い人も最初は小学生や中学生で、いろいろと制約があります。それでも同人誌をつくりたいという若い世代の受け皿に「ガタケット」はなっていたわけです。参加者には小学生もいたし、年齢が若いうちから参加している子たちはプロになる率がすごく高いんですよね。
こうした若い世代への支援の一貫として、「ガタケットSHOP」というものも運営していました。画材の販売や同人誌印刷をする店舗ですが、低価格で同人誌をつくることができたので、中高生の参加者にはありがたがられました。
今は描き手の参加者が減ってしまいましたね。絵を描くという意味では、マンガだけでなくイラストレーターやゲームデザイナーなど将来の方向性が多角化しましたし、最近は同人誌をつくるよりも、スマホゲームにお金を使う子が多い気もしますしね。
地方都市で若い世代にいかに同人誌をつくってもらえるかを必死で考えてきましたが、「どうやって小中学生が参加してくれるガタケットを残していくのか」というのが今後の課題ではないでしょうか。
中村: 地方の「コミティア」は、北は北海道から南は九州まで、いまは6カ所で開催しています。当たり前だけど、各地元にはそれぞれ作家さんがいるんですよね。その人たちはなかなか東京にいけないけど、年2回ほどの地方コミティアの開催のときに参加してくれる。そういった場所をつくれたと思います。全国各地にさまざまな作家さんがいるという当たり前のことを実感できました。
また、旅行などに絡めて移動して地方コミティアに行く、ということもできるようになりましたね。地方で出会ったおもしろいサークルを東京で紹介することもできる。そういったやりがいが生まれました。
中村氏は大学在学中に「ぱふ」の編集部員となり、1988年から1993年にかけては編集長を務めた。また、2008年には「コミティア84」で「西原理恵子大原画展」を開催するなど、マンガ家の展覧会もプロデュース
先ほど坂田さんもおっしゃられていましたが、近年はオールジャンルを対象とする同人誌即売会から、各ジャンルが独立した即売会(オンリー)へと移行する流れが加速しているように感じられます。この流れについておふたりはどうお考えでしょうか。
中村: 確かにオンリーの即売会が隆盛していますが、いっぽうでプチオンリー(註5)という概念を「コミックシティ」(註6)がつくりましたね。小さいプチオンリーが集まれば、結局はオールジャンルという気もします。丁寧に各ジャンルのバナーをつくり、パンフレットをつくるというケアを「コミックシティ」はやってきた。プチオンリーの集合体というかたちでオールジャンルの即売会的なものは残っていくのではないでしょうか。
坂田: ただ、地方の即売会には「プチオンリー」の合同をやる余力がない気もします。イベント内イベントをたくさんつくるわけですから組織力が必要ですよね。「ガタケット」でもそれをやればいいのはわかっていましたが、いかんせん余力がない。これは次世代の課題ですね。
中村: 単に分けるだけではなく、一つひとつのジャンルのマインドをわかって行うことが大切なので、確かに人的なリソースが必要になりますね。
電子書籍も浸透してだいぶ経ちましたが、紙の同人誌という形態も変わっていくとおふたりはお考えでしょうか?
坂田: 今後は電子というスタイルが増えていくとは思いますが、ページをめくって読むという行為自体は残っていく気がします。マンガの武器として見開きがありますが、それをスマホの画面でやろうとしても現状では難しいので紙自体がなくなることはないと思います。
中村: 最初に電子からマンガに入る層は増えていくと思いますが、まだ紙の本のパッケージとしての価値はあると思います。見本誌も紙だからたくさんの本を気軽に手に取れるし、つくる側も紙だから凝った本をつくることができる。発行部数が減って単価は高くなるかもしれませんが、その楽しみは失われないと思います。むしろ同人誌こそがその役割を担うかもしれません。
新型コロナウイルスも同人誌即売会に大きな打撃をもたらしました。「コミティア」は会場入口での体温検査やアルコール消毒、入場証の提出、時間入れ替え制での見本誌の閲覧など、さまざまな工夫を凝らしてコロナ以降の実施をしていますね。
中村: スタッフたちがいろいろなアイデアを出し合ってあの形態をつくり上げました。開催できないときは本当に辛かったです。初めてのことでしたし、一時期は会社を畳んでボランティアで維持することも考えましたから。
コロナで中止が続いたあとの久々の再開で、改めて同人誌即売会の楽しさを再認識しました。オンラインイベントが出てきている時代に、リアルでやることの意味が改めて問われていると思います。オンラインは今後広がっていくと思いますが、そこと歩調をあわせて良い相乗効果が生まれるといいですね。
坂田さんはこうした危機をはじめ、著作権関連やわいせつ表現の基準などについても、各即売会の開催者が連絡をとれる業界団体「全国同人誌即売連絡会」の立ち上げ人でもあります。同団体を設立した経緯を教えてください。
坂田: 連絡会の必要性は80年代からずっと感じていたのですが、イベントの主催者同士の仲が良くないなど、実現に向けたハードルがいろいろとありました。ただ、著作権やわいせつ表現などについての知識の共有などは、絶対に即売会の運営を束ねて考えていかなければいけない問題でした。
そうしたなか、1999年に『ポケットモンスター』の同人誌をつくった作家が著作権法違反の疑いで京都府警に逮捕されるという「ポケモン同人誌事件」が起こります。私が京都に行き警察に説明へ赴くと、反社会勢力の資金源であることが疑われていたりと、誤解が重なっていたことが判明しました。こうした問題に対応するためにも、組合的な組織をつくり結束力を高めなければいけないと思ったんです。
当時はそんな団体をつくることなんて難しいという雰囲気でしたが、とにかく絶対にやらなければと押し切ることにして、故・米沢嘉博さん(註7)の力添えもあり、実現に向けて舵を切ることができました。
やがて著作権の勉強会などを印刷所や同人書店の人も含めてやるようになりました。懇親会などを重ねていけば、過去に恩讐があったとしても乗り越えられるし、仲良くする努力も生まれましたよね。今は定期的な交流も生まれていますし、本当につくってよかったと思います。
坂田氏はほかにも「にいがたマンガ大賞」で副会長を務めたり、新潟市で開催のアニメ・マンガのイベント「がたふぇす」の立ち上げに携わったりと、新潟のマンガ文化の発展に広く寄与している。2021年11月よりアニメーターに復帰
最後に、長年携わってきた同人誌文化の魅力について、おふたりから言葉をいただければと思います。
坂田: 同人誌即売会って文化財だと思うんですよ。あの楽しさや盛り上がりをずっとやり続けている、だからみんなついてきてくれるわけです。みんなで楽しむという感覚を失ってしまったらだめ。どんなに大手サークルが増えても、その軸足を変えてはいけないと思います。変わってしまってはだめな場所ですね。
中村: 同人誌を媒介とした、人と人との交流にこそ根幹があるのではないでしょうか。人間の根源的な創作への欲求がシンプルにかたちになったのが即売会だと思います。
坂田: 私が中村さんとつながったのもそうですし、ボランティアベースでやっているし、常に会場問題にさらされてきましたが、本当に良い出会いに恵まれたと思っています。即売会って全然違う衰退する未来もあったはずですが、そうならなかったのは人との出会いがあったからでしょう。マンガを愛してやまない人たちが塊になった。そのことを忘れないでいたいです。
(脚注)
*1
手塚治虫が創刊した雑誌。新人の育成や独自の表現の発表の場を目指していた。1967年から1971年にかけて刊行。
*2
「COM」の読者投稿コーナーで、全国のマンガ家、マンガ愛好家、マンガ家志望などを集めて意見交換する場が目指されていた。
*3
「コミティア」会場に出版社の編集部がブースを出し、開催中にマンガ原稿の持ち込みを受け付けるシステム。
*4
マンガ界の情報全般を取り扱っていたマンガ情報誌。数回の改題をへて1979年に「ぱふ」と命名された。1974〜2011年刊行。
*5
同人誌即売会のなかで特定のジャンルのみのオンリーイベントをいくつも区分けして合同開催する形態。
*6
1988年より行われている同人誌即売会。現在は赤ブーブー通信社により、東京、大阪、福岡で開催されている。東京、大阪ではそれぞれ年6回程度、福岡では年3回程度実施。
*7
マンガ評論家、編集者。コミックマーケットの運営を行う「コミックマーケット準備会」の第2代代表、有限会社コミケット取締役社長などを務めた。2006年10月に逝去。
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