夏目真悟が監督・脚本・原作を手がけ、江口寿史がキャラクター原案を、マッドハウスが制作を担当したオリジナルテレビアニメーション『Sonny Boy』。「SF青春群像劇」として2021年夏に放送された本作は、第25回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で優秀賞を受賞した。その理由のひとつに、他のアニメとは一線を画す独特な絵づくりがある。本稿ではそんなビジュアルがどのような効果をもたらしているか、何を表現しているかを探っていく。


『Sonny Boy』キービジュアル

この平面から出ていくのだ。一、二、三! それ!(註1

1884年にイギリスで初版が出版されたエドウィン・アボット・アボットによる古典的なSF小説『フラットランド たくさんの次元の物語』(以下『フラットランド』)は、長さと幅しか存在しない2次元「フラットランド」に住まう語り手を主人公にした作品だ。こうした数学的なアプローチをとりつつも、物語内では1次元の「ラインランド」、3次元の「スペースランド」との交流が描かれている。フラットランドの住人である主人公は、3次元的な立体についてのイメージが難しく、それを見かねたスペースランドからの来訪者が、3次元の世界へと連れ出すときに発したのが冒頭の言葉である。

テレビアニメーション『Sonny Boy』(2021年)もまた、『フラットランド』と同じように複数の次元=世界を移動していく。実は『Sonny Boy』には、『フラットランド』から影響を受けて制作されたエピソード(第5話「跳ぶ教室」)が存在するのだが、そういった影響関係も踏まえつつ、なぜ筆者が『フラットランド』と『Sonny Boy』を関連させて考えてみたいのかというと、それは両者がともに2次元性について原理的に問いかけるような部分を持っているからである(註2)。『フラットランド』が2次元しか存在しない世界を中心にしていることはすでに述べたが、そもそもが2次元のアニメーションである『Sonny Boy』もまた、それについて自覚的な側面を持っている。このコラムではそんな『Sonny Boy』について分析を加えながら、そのテーマ性について考えてみたい。

アニメーションでアニメーションを語る

『Sonny Boy』の脚本・監督は夏目真悟が務めた。夏目は『ワンパンマン』(2015年、1期)などを監督した当時はアクションにこだわった演出を行っていたが、『ACCA13区監察課』(2017年)、『ブギーポップは笑わない』(2019年)といった近年の監督作ではそれにとどまらない幅広い作劇を行っており、『Sonny Boy』もまたそうした方向性の延長線上に位置づけられる作品である。

同作は中学3年生の男女36名が、学校ごと異世界に漂流してしまうことから物語が始まる。異世界での生活や、もとの世界に戻ろうとする試みなどが描かれながら、キャラクターたちの心の揺れ動きが表現されている。こうしたSF的な設定を持つ一方で、多様なディテールや、必要以上の説明を行わない脚本などもあいまって、作品は全体として独特な雰囲気を醸し出している。確かに内向的な主人公・長良が主体的な決断を下せるようになるまでの成長物語という展開上の軸はあるのだが、それ以上に周囲の人物たちの存在感もあり、群像劇的な印象がある。そこにさらに超能力、ループ、恋愛、寓話、社会風刺といった要素が絡み合うので、単純にジャンルを確定することが難しいタイプの作品だと言えるだろう。

だがそれ以上にまずビジュアルの特徴として際立つのは、背景やキャラクターにのシンプルな絵づくりだ。マンガ家・イラストレーターの江口寿史のキャラクター原案は髪の毛の色なども含めてシンプルなものになっているし、背景にも筆跡が残っている。絵具チューブから出した原色を使っているかのような色彩感覚は、作品のイメージを印象づけている。

しかしこれらの一見してわかるようなアニメーションならではの要素だけではなく、『Sonny Boy』にはアニメーションというメディアに対する自己言及性が見え隠れしている。そうした示唆に富むのが、第6話「長いさよなら」だ。『Sonny Boy』は一話ごとに異なる世界に漂流する構成を多くとるが、この話数では映画館を模した世界「フィルムメーカー」を発見する。ここには過去だけではなく、自分たちが漂流してしまった後の光景もフィルムとして記録されていた。そしてフィルムの合成がほかの世界にも影響を及ぼすことを発見した登場人物たちは、自分たちがいなくなった後のフィルムに、自分たちを合成することでもとの世界へ帰還できるのではないかと考え、それを実行するのだが、結局計画は失敗に終わり、世界そのものに介入することの不可能性が明らかになってしまう。

まずこの話数で特徴的なのは、アニメーション内で劇中内の映像を操作するという自己言及性だ。計画をキャラクター同士で話し合う中盤のシーンでも、主要登場人物である瑞穂は、フランソワ・トリュフォーがアルフレッド・ヒッチコックに行ったインタビューをまとめた書籍『映画術』を読んでおり、映画、あるいは映像メディアに対する自覚的な意識があることは明らかだ。アニメーションやモーション・グラフィックスの研究者である田中大裕はこの第6話に関して、KezzardrixによるプログラミングされたCGが用いられていることを踏まえながら、昨今のアニメーションはコンピュータのシミュレーション能力に依存しているため、原理的な介入が難しいことをこの失敗は示唆しているのではいかと指摘している(註3)。ソフトウェアの発達はアニメーション制作者たち自身によるプログラミング能力を不要にさせ、より直観的な操作で画面を構築することを可能にさせた。システムへの依存を前提としていると、システムそれ自体を変化させることは困難なのである。第6話の帰還の失敗は、こうした現代の制作環境をアイロニカルに表現したものだと田中は指摘する。この解釈をより補強するために私がここで触れたいのは、『Sonny Boy』における黒の役割だ。

第6話「長いさよなら」より

同作のキービジュアルには背景に黒が使用されているが、これは劇中でも頻出するイメージだ。物語上、この背景は異次元空間を表現し、次なる世界が登場するまでのつなぎとして使用されていることが多い。しかしこのべっとりとした黒には、ある含意が読み取れるのではないだろうか。監督の夏目が語るところによると、この作品における黒はパソコン上でRGBの色彩のパラメーターをすべて0にしたものであるという。ゆえにこの黒は、現代のアニメーション制作においてもっとも純粋な、未加工な状態の色であるということを示しているのである。学校が漂流してしまったところから始まる第1話「夏の果ての島」において、学校の外はすべてこの黒で表現されている。そのような意味においても、『Sonny Boy』における黒は物語の起点であると同時に、何よりもアニメーションの制作のプロセスについて反省させる解釈のトリガーなのである。同作の黒は、かつてのセルアニメーションのとは違い、着彩された絵を撮影する工程を経ていないダイレクトなものであるため、その色味は「セルの美しさ」とはまた異なる「面」の可能性を提示しているのだ。

このように『Sonny Boy』は絵であることを隠さないデザインのみならず、アニメーションというメディアに言及を加えることによって、その2次元性を強調してきた。ゆえに同作における平面性への意識は、結果的に強固な「フラットランド」を構築することになっている。だが主人公である長良は、瑞穂とともにその多元的な世界から脱出することを最後に選択する。このことについての考察を最後に試みてみよう。

2次元から出てきてしまいそうなフラットランドの住人

最終話となる第12話「二年間の休暇」において、中盤に見せる長良の決意の表情は、その写実的な陰影によって物語のクライマックスにふさわしいシリアスさを湛えている。このシーンが印象的なものとなっていたのは、キャラクター原案の江口寿史のデザインによるところも大きいだろう。江口の描くイラストレーションは、写実性とマンガ的な記号性の中間に位置するような絵柄が特徴的だ。例えば彼の描く人物には、鼻の穴が描かれていることが多い。これは大友克洋や上條淳士の影響を受け『「エイジ」』などで江口が試みた絵柄上の実験だったが、こうしたチャレンジは結果的に江口の絵柄に写実的な人物の造形と記号的な美しさ、かっこよさを両立させることとなり、描き手としての個性につながっている。足元からの光に照らされた長良の表情は浮き彫り的な陰影を見せ、あたかもアニメーションという2次元のフラットランドから飛び出してきそうな実在感を感じさせる。

第12話「二年間の休暇」より

だがそんな印象的なシーンがあったにもかかわらず、最終話の後半では、現実の世界に戻った長良が淡々と生活をする様子が描かれている。このような固有性と匿名性の往還も、江口による写実性と記号性が共存するキャラクター原案があってこその演出だと指摘できるのかもしれないが、その姿はそれまでの主人公然とした、英雄的な身振りを考えると、梯子を外されたような印象を受ける。だがこうした展開も、筆者にはアニメーション=映像におけるひとつの倫理観を示しているように感じられた。なぜならひとつの映像作品において、登場するキャラクターたちはいくら世界を移動しようとも、その映像の外部へと出ることはできず、その世界とのつながりを断ち切ることができないからだ。その境遇は虚構内の存在たる長良(と瑞穂)が運命づけられたものなのかもしれないが、だからこそ彼らの決断はフィクションのなかに刻印され、私たち鑑賞者の心を打つのである。

デジタル化以降の日本の商業的なアニメーションは、テクスチャーを貼りこむことによって装飾性を増したり、グラデーションやカメラで撮影されたかのような効果を加えることによって実写映像のようなリアリティが表現されるようになったが、そのようなシーンの潮流があるにもかかわらず、それが「絵」であることをまったく隠そうとしない『Sonny Boy』の還元的なアプローチは、アニメーションの新たな「フラットランド」を指し示すコンパスとなってくれるだろう。


(脚注)
*1
エドウィン・アボット・アボット『フラットランド たくさんの次元の物語』竹内薫訳、講談社、2017年、111ページ

*2
「最終回直前! Sonny Boyを解き明かす、夏目真悟監督各話コメンタリー①」、Febri、2021年9月23日、https://febri.jp/topics/sonnyboy1/

*3
「読む会(出張版2)・アニメ『Sonny Boy』」、YouTube、2021年10月16日(ライブ配信)、youtube.com/watch?v=QPBkObIcHNw


(参考資料)
江口寿史『KING OF POP 江口寿史 全イラストレーション集』玄光社、2015年
田中大裕「アニメーションの歴史からみたVTuber――アニメーションとみなすことの意義」『エクリヲ vol.12』送り絵、2020年、51-63ページ
「アニメ表現の最先端 1 『Sonny Boy』」『アニメスタイル 016』スタイル、2022年、130-139ページ
「TVアニメ『Sonny Boy -サニーボーイ-』公式サイト」、2021年、https://anime.shochiku.co.jp/sonny-boy/

※URLは2022年8月22日にリンクを確認済み