『Context Providers: Conditions of Meaning in Media Arts』(Intellect, 2011)の編著者は、マーゴット・ラヴジョイ氏(Margot Lovejoy)、クリスティアンヌ・ポール氏(Christiane Paul)、ヴィクトリア・ヴェスナ氏(Victoria Vesna)。この3人の名前だけでも、この書籍の非凡さが一目でわかる。その上、意図的ではなかったかもしれないが、編著者たちを含めた筆者16人の内12人が女性である点も珍しい。やや大げさにいってみると、メディアアート界のアマゾネス的な印象とでもいうか。

 筆者たちのほとんどは、アーティストであろうが、キューレータであろうが、教育者、研究者として教育機関に所属している。このような状況の背景を理解するには、この本の第3部でヴェスナ氏が簡略に述べているメディアアートの歴史が参考になりえよう。メディアアートの形成期には、美術館がテクノロジーを用いたアーティストたちの実験に場所をほとんど提供しなかったため、初期メディアアートの作品は主にコンピュータ・グラフィックスの国際会議SIGGRAPHを通して発表された。既存のアートの世界が、ようやくメディアアートに注目しはじめたのは、インタラクティブアートが技術的洗練さとともに、明確なコンセプトと社会的メッセージ性を兼ね備えた1990年代初頭の頃のことであった。しかしながら、不幸なことにも、「所有権」「クレジット」「コレクション」「ディストリビューション」などの複雑な問題が結局解決されなかったせいで、メディアアートのための「マーケット」形成に、だれも成功することはできなかった。

ヴェスナ氏は、このような状況の中で、多くのメディアアーティストたちが教育機関で収入を得ることになった経緯を説明しながら、他のアーティストたちには必ずしも望ましいとは限らない大学という環境が、メディアアーティストたちにとっては、最先端テクノロジーと科学的研究の革新にアクセスできる絶好の「コンテクスト」であると指摘している。このような観点は、他ならぬヴェスナ氏自身が、これまでに作品制作と研究・教育活動の「コンテクスト」を積極的に活用し、実践してきた優れた実例であることから、非常に説得力がある。

 ところが、現実的にはヴェスナ氏のように恵まれたケースはそこまで多くないのも否めない。大学の外まで視野を広げて考えてみると、第2部で示唆しているように、様々な技術・社会・文化の「ネットワーク」が、アートの制作と理解に、絶えず変化する物理的・社会的・構造的・経済的「コンテクスト」を提供している。前世紀のメディアアートは、その未知の可能性の領域を自ら開拓してきたのである。

テクノロジーの現場において活動するアーティストたちに期待されてきたのは、主に最新技術の「箱もの」をアイデア、テーマ、あるいは意味などで埋め込む「コンテンツ提供者」としての役割であった。この「コンテンツ提供者」を連想させる「コンテクスト提供者」という言葉を、意識的に書籍のタイトルとして選んだ編著者たちは、コンテンツ対コンテクストという単純な二項対立関係を超えて、コンテンツがコンテクストを生成させ、またすべてのコンテクストがコンテンツとなりうるという、ダイナミックな相互作用への理解を指向していると書いている。

環境としてのメディアテクノロジーが変化しつづける中で、芸術の機能、アーティストの役割、作品の制作と拡散の方法を形作る、このコンテンツとコンテクストの関係性こそが、今後メディアアートの意味の条件となることは自明である。

『Context Providers: Conditions of Meaning in Media Arts』のウェブページ

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