コンピュータの歴史は単なる技術発明史ではない。創造的思考のための情報テクノロジーの可能性を予見し、情報検索システムを提案した人、機械とのコミュニケーションが人間の内面的生活の質に影響を与えると力説した人、人間とコンピュータの共生を提案した人、慣習的位階秩序を超えた非線形的思考の概念を生み出した人、情報を空間概念として捉え直した人など……。コンピュータのあり方はいつも人格と結びつけられている。

西垣通編著訳の『思想としてのパソコン』(NTT出版、1997)や水越伸、弓場敏嗣、桂英史、飯塚肇、信原幸弘著の『コンピュータの半世紀-コンピュータ文化を読み解く173冊』(ジャストシステム、1996)など、この種の文献は、1990年代を中心として日本でも活発に翻訳、紹介された。その時期は、日本に企業メセナ協会が設立され、NTT、キヤノン、富士ゼロックスなどの情報産業の企業が、「マルチメディア」を用いたアート、いわゆるメディアアート、またはその古典となる表現分野を積極的に支援していた期間とも一致する。

しかし、華やかだった「マルチメディア」という言葉は、2012年現在の日本ではほぼ死語に近い。技術と芸術との境界を越える動きのキャッチフレーズのようなこの言葉が、その両者の境界だけではなく、両者と日常生活との境界さえ見えづらくなった後、必要性がなくなったことは当然であろう。

にもかかわらず、その言葉をタイトルとする書籍『Multimedia: From Wagner to Virtual Reality』 (Randall Packer, Ken Jordan編, W.W. Norton & Company, Inc., 2002, 増補版) は現在にも、そして、これからも重要な文献に違いない。なぜなら編者たちは、必然的に不確定的である対象をあえて「定義する」ことの意味について意識的であるからだ。

彼らのマルチメディア論は、「統合」「相互作用性」「ハイパーメディア性」「没入」「ナラティビティ」という5つの特徴を持つ、「コンピュータの持つ人間的表現の潜在的可能性を最大限活用する形式」として定義されている。「未来の芸術」(1849)という題名のワーグナーの総合芸術(Gesamtkunstwerk)論から始まり、ローリー・アンダーソンの「未来の言語」で終わる。その中で、近・現代アートの実践者たちと冒頭に羅列した「人」たちの文書が、縫い目なく編み直されている。

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