2014年2月16日、様々な国を渡り歩き、数々の名作を残したアニメーション監督のジミー・ムラカミ氏が逝去した。享年80歳。
1933年生まれのジミー・ムラカミ氏(Teruaki “Jimmy” Murakami)は、アメリカ・カリフォルニア州サンホセ出身の日系二世。太平洋戦争時の日系人強制収容政策によって戦時中は家族ともども強制収容所に収容され、その時の経験で生まれた母国アメリカへの不信感は、氏のキャリアに大きな影響を及ぼした。
戦後、シュイナード美術学校(後にロサンゼルス音楽学校と併合されカリフォルニア芸術大学となる)にてドローイングや絵画、デザイン、アニメーションを学んだのち(故チャック・ジョーンズ氏と当時同級生だった)、アメリカのカートゥーン・アニメーションにリミテッド・アニメーションの新たな潮流を生み出しつつあったユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ(UPA)で働き、当時テレビシリーズとなっていた「ジェラルド・マクボイン・ボイン」の制作に携わった。その後ニューヨークでの仕事を経て日本へと一時的に移住し、東映アニメーションでも短期間仕事をした。
ムラカミ氏の世界的な放浪はさらに続く。故ジョージ・ダニング監督の招きでロンドンへと渡り、TVCスタジオにてリチャード・ウィリアムス監督とともに働くなどした。同スタジオでは短編作品『インセクツ(Insects)』(1961年)を監督し、英アカデミー賞を受賞。1965年、アメリカにてフレッド・ウルフ氏とともにムラカミ=ウルフ・スタジオを設立、その後立て続けにインディペンデント短編作品を発表した。1965年の『呼吸(Breath)』はアヌシー国際アニメーション映画祭にてグランプリを受賞、『魔法の梨の木(Magic Pear Tree)』(1968年)は米アカデミー賞にノミネートされた。1971年にはアイルランドに移住、クワテル・フィルムズを設立し、短編制作と並行して、国際的にコマーシャル制作も行った。1970年代はロジャー・コーマン氏の実写映画作品にも関わった時期でもあり、1980年の『宇宙の7人』では監督も担当した。
1980年代、ムラカミ氏はイギリスで、レイモンド・ブリッグズ原作の二作において大きな成果を残した。監修を行った『スノーマン』(1982年、ダイアン・ジャクソン監督)はクリスマス・シーズンの定番作品となった。『風が吹くとき』(1986年、ムラカミ氏は監督を担当)は、核戦争の脅威を市井の夫婦の視点で描き、アニメーション史に残る名作となった(『風が吹くとき』は日本でも大島渚の監修のもと日本語版が作られ1987年に公開されている)。1990年代にはダブリンでムラカミ・フィルムズを設立。アイルランドの商業アニメーション・シーンの勃興期におけるムラカミ氏の貢献を讃える声は今でも大きい。
2010年に発表された『ジミー・ムラカミ NON-ALIEN』(セ・メリー・ドイル監督)は、強制収容所跡地へと訪問するツアーに参加したムラカミ氏を取り上げたドキュメンタリー映画で、ムラカミ氏の特集が組まれた同年の広島国際アニメーションフェスティバルでも上映された。ムラカミ氏と広島国際アニメーションフェスティバルとの関わりは深く、国際審査委員長として参加した2004年の原爆資料館への訪問は、長崎の原爆を原因として従姉を亡くした氏の経験ともつながり、新作長編のインスピレーションとなった。その長編『百個の太陽の朝(The Morning of A Hundred Suns)』は広島への原爆投下を題材とした作品で、近年、ムラカミ氏は制作準備中であると語っていた。
ジミー・ムラカミ 公式ホームページ