「文学とは何か」という問いが大上段に論じられる時代が、とうに過ぎ去って久しい。ゲームも同じで、「ゲームとは何か」という問いかけは、もはやナンセンスだというのが通説になりつつある。F2P(基本プレイ無料のアイテム課金モデル)が定着した日本においては、特にその考え方が顕著だ。ゲームとは「おもしろければ何でもあり」で、無料で楽しめて、興味を惹かれなければアンインストールすればいいだけのもの。ちょうどテレビのリモコンを押すように・・・というわけだ。
こうした中、本書『文学としてのドラゴンクエスト 日本とドラクエの30年史』[http://www.coremagazine.co.jp/book/coreshinsho_019.html](コア新書、2016年)は、ドラゴンクエストの作家性について論述するという、極めて真っ当かつ、今という時代にあらがう挑戦的な試みだといえるだろう。『ドラゴンクエスト』という国民的なゲームソフトでさえ、誰が作っているか興味がないし、知りたくもないという消費者が圧倒的多数だといえるからだ。事実、『ドラクエ』を遡上に載せるのでなければ、本書の出版企画は通らなかったと推察される。
もっとも、だからといって本書が『ドラクエ』頼みの平板な内容というわけではない。本書の功績は『ドラクエ』の文学性を「ゲームで物語をいかに語るか」、中でも「プレイヤーを主人公とどのように感じさせるか」にあると定義し、その仕掛けが技術の変化によってどのように変遷していったかについて、懇切丁寧に論じられている。特に初期三部作に比べて論じられることの少ない『IV』以降の内容に対して、丁寧に光を当てている点が評価できる。
また、シリーズの生みの親である堀井雄二氏の学生時代や、ミニコミ時代の作風について掘り下げ、それらが『ドラクエ』にどのように影響を与えたのかという考察も興味深い。特に状況が未解決のまま残されるエピソードが多い『VII』の特徴と、漫画雑誌『ガロ』を思わせるような学生時代の作風との相似性に関する考察は膝をうった。「ドラクエというのは、奥底に暗さや不気味さ、あるいは悲しみを忍ばせるような作品ではないか」という指摘は言い得て妙だろう。
もっとも、本書のもう一つの謳い文句である「村上春樹氏と堀井雄二氏との比較考察」は、今ひとつ食い足りなさが残った。全7章のうち本論について割かれているのは第3章のみで、村上春樹という接線を用いて、堀井雄二の作家としての輪郭線を浮かび上がらせるだけに留まっているからだ。もっとも、これはこうした視点を持ち得なかった従来のゲームジャーナリズムの側の問題でもある。本書をきっかけに両氏の対談などが実現できないのかと願う次第だ。
冒頭に述べたようにゲームの作家性や文学性、ひいてはそれをよりどころにして日本社会全体について論じる試みは、パッケージゲームならではだともいえる。映画の監督論に比べてテレビの演出論が少ないのも、ひとつにはテレビが無償の娯楽であり、読者がそれを求めていないからである。クソゲーという呼称が消えたのと同じくして、ゲームを誰が作っているのかも顧みられなくなった。こうした時代だからこそ、さらなる類書の出版を期待したい。
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